第十一章 必然と血と喪失 その二
白い雪景色が目の前に広がっていた。
彼はヘーニルに手を握られ家を後にする。手を引かれつつ後ろを振り返ると女性が涙を流していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼女は呟きつつその場で泣き崩れた。それを男性が支える。二人とも顔に霞がかかったようにぼやけてはっきりとはわからないが、笑っているとは思えなかった。
(ああ、そうか。)
シロは思い出した。いや、今まで思い出そうにも妨害され思い出せなかった記憶だ。
彼らも父や母という存在の前にただの人間で、周りからの悪意に耐えられるほど強くはなかった。自分を守るために息子に辛くあたった。決して褒められたことではないだろう。本来守るべき存在を、義務を破棄したのだから。あのまま生活を共にしていたら、きっと彼らも自分も壊れていただろう。
だけど自分は全て憎まれていただけではない。それが二人の男女、父の表情と母の涙でわかった。
シロが瞳を開けるとそこには心配そうにのぞきこむ金髪碧眼の王子がいた。
「シロ、大丈夫? 私が誰だかわかる?」
「……ハーシェリク。」
「よかった、大丈夫そう。」
シロが名前を答えるとハーシェリクは安堵したように笑う。
「ジーンもありがとう。手の怪我大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。ハーシェリク様。」
シロが体を起こすのを手伝いながらハーシェリクが問うと、ジーンもその場に腰を下ろしながら頷く。三人がほっと一息ついた時、慌ただしく扉が開かれた。
「ハーシェ無事か!?」
現れたのは全身返り血で赤く染まったオラン、そして彼に担がれぐったりしているクロだ。オランはハーシェリクと他二人の無事を確認しオランはほっとする。
「ああ、無事そうだよかった。」
「……二人こそ大丈夫?」
自分達よりも血だらけのオラン、ぐったりしているクロの組み合わせはどうみても無事には見えない。そんなハーシェリクの心配をよそにオランは笑って見せる。
「ん? 俺は無傷だけど黒犬は毒盛られたらしくちょっと動けないらしい。だから持ってきた。」
オランは聖騎士相手に一太刀も浴びずに殲滅を完了した為、返り血のせいで見た目はひどい状態だが無傷。
クロも命に別状はないが、敵を屠った時に活発に動きすぎたせいで血のめぐりがよくなり、毒が体全体に回ったのがまずかった。既に解毒剤は飲んだが効くには時間がかかるらしく、血まみれのオランの肩を借りて担がれている状態である。
よっこらせとクロを持ち直すオランにクロが舌打ちする。
「……屈辱だ。」
「あれ、なんで俺殺意むけられているの? つか首を絞めようとするなよ!」
戻ってきた腕力でオランの首にかけた腕に力を入れる。今にも絞殺さんばかりのクロと冷や汗を流すオラン、その二人のいつも通りのやり取りにハーシェリクは胸を撫で下ろす。
(よかった、全部解決できた……マーク兄様達が来るまでどれくらい時間があるだろう。)
ハーシェリクは懐中時計を見る。兄達が率いる近衛騎士団が突入まで時間がある。
(兄様達が来たらすぐに証拠を押さえないと……きっと大臣一派に繋がる証拠があるはずだ。)
革命、という名のテロを起こそうとしていた教会と繋がっていたとすれば大臣も無傷とはいかないはずだ。上手くすれば大臣達が行ってきたことも明るみに出て、彼らを弾劾できる。
そうすれば、国はいい方向へ向かうはずだ。
「ハーシェ!」
オランの鬼気迫った声にハーシェリクは思考を中断し顔を上げる。
その瞳に映ったのは倒れていたはずの協会の者だ。その手には光る刃物が握られて、倒れていたことを疑いたくなるような速さで迫っていた。
オランがクロをその場で置き去りにして駆け出す。クロも暗器を取り出そうとするが、毒で震えている手では襲撃者と彼の線上にはハーシェリクが入る為、暗器を投げることをためらう。シロも突然のことで魔法の使うことが出来ない。
各々が油断していた一瞬の隙、そこを狙われた。
(あれは、最初にジーンをとらえていた男?)
彼女を殴りつけた男には見覚えがあった。全てがスローモーションのように流れていく。
背後からオランが駆けてくる音が聞こえる。だけどそれより目の前の男が到達するほうが早い、と止まってしまった思考の片隅で考える。
赤銅の髪が目の前で揺れた。
(え?)
「どけええ!」
男の声が響く。だが赤銅の髪が目の前から消えることはない。
鈍い音が響いた。目の前の赤銅の髪がその音に合わせて揺れる。
「離せ!!」
男の言葉に、再度鈍い音が響く。その数は二回。だけど赤銅の髪が目の前から消えることはなかった。
オランが自分の脇を通り過ぎると同時に剣を抜く。男のくぐもった声が聞こえたが、ハーシェリクにはそんなことどうでもよかった。
目の前の赤銅の髪が頼りなげに揺れ、そして倒れる。
「……ジーン?」
彼女はハーシェリクの声にもこたえず。横に倒れたまま微動だにしない。
「ジーン!?」
ハーシェリクが駆け寄り助け起こす。そして息を飲む。彼女の服は胸から腹部にかけて血で染まっていたのだ。
「ハーシェ、見せろ!」
男を始末したオランが駆けより、そして彼女の惨状に息を飲む。それがハーシェリクの嫌な予測をさせた。
「オラン、ジーンは大丈夫だよね!?」
ハーシェリクはそう叫びつつ、出血を止めようと傷に手を当てる。前世で見たことがある医療系のドラマでは医者はみな傷を圧迫して止血をしていたのだ。
ぬるりとした温かい血がとめどなく溢れ、自分の手を紅く染める。オランも自分の制服を切り裂き、刺し傷の場所に巻いて止血を試みる。だが血は絶えず地面に赤い水たまりを作り続けていた。
誰から見ても、彼女は助からないのは一目瞭然だった。ただ一人、ハーシェリクだけはそれを認めようとしなかった。必死に彼女の血を止めようと小さな手で傷口を押さえ続ける。
「ハーシェ……」
「クロ、彼女の血が止まらない。どうすれば止まる!?」
近づいてきたクロにハーシェリクは問う。否、その先の言葉を聞きたくないから、あえて彼の言葉を遮った。
そして誰も、ハーシェリクの問いに答えることはできなかった。
「私なら、彼女を救えますよ。」
それは悪魔の囁きが聞こえた。ハーシェリクがゆっくりと視線を動かせば、その先にはヘーニルが起き上がり背を壁に預け、優しげに微笑んでいる。
「私の治癒魔法なら、むしろ私の治癒魔法を持ってしても確率は半々です。この国に私以上の治癒魔法の使い手はいませんし、医者でも無理でしょうね。」
「……まさか、貴方が仕組んだ?」
ハーシェリクの言葉にヘーニルは首を振る。
「いいえ、お人形の転化を失敗した今、貴方を殺しても私には益はありません。それにその男は教会だけでなく、他の誰かともつながっていたみたいですよ。」
私たちの計画には特に問題がなかったので放置しときましたが、と彼は続ける。
他の誰か……それに思い当たる人物は一人しかいない。
「……バルバッセッ」
自分の命を狙っているのは彼しかいない。それほど彼は自分が邪魔になってきたのだ。
「さあ殿下、取引です。」
ヘーニルはにっこりと笑う。
「彼女を助けたいなら、私の取引に応じて下さい。」
「……対価は?」
聞かなくても内容が解っていたが、ハーシェリクは問う。その言葉にヘーニルは満足そうに微笑む。
「殿下が私への絶対の隷属を誓うこと。」
予想通りの答にハーシェリクは弱々しく首を横に振る。
もしその条件を飲んだら、決して彼は自分を逃さない。表面上取り繕うことも考えたが、だが彼は操作系魔法の使い手だ。弱みを見せたら最後、今度こそ精神を囚われ彼の傀儡にされることが明らかだった。
その様子にヘーニルはおかしそうに笑う。
「殿下は犠牲を好まれないんでは? 彼女は殿下の代わりに犠牲になったんですよ?」
「それは……」
ハーシェリクは解っている。綺麗事だとしても自分は犠牲を出したくない。だけど現にジーンは倒れ、その命は風前の灯だ。
「殿下さえ誓えば彼女は助かります。どうしますか?」
その言葉と同時に、ハーシェリクは自分の体がだんだんと重くなっていく気がした。オランやクロが話しかけてくれているが、それが遠い場所から話しかけているようで、聞き取りづらい。
「ハーシェリク!」
シロの厳しい声が響いた。それと同時にシロの魔法式が展開され、結界がヘーニルを囲う。
「……シロ?」
呆然とした表情でハーシェリクが彼の名を呼ぶ。
「精神操作魔法だ。ハーシェリクの精神に負荷を与えていた。」
もう結界を展開した為安全だと言う。だがそれでもハーシェリクの心が晴れることはない。
「さすがはノエル。残念です。」
「その名前で呼ぶなッ」
ヘーニルの言葉に吐き捨てるようにシロは言う。だがどこか寂しそうな表情もしていた。
「だけど、このままじゃジーンが……」
ヘーニルの条件を飲むことは出来ない。
だけど条件を飲まなければ、ジーンは死ぬしかない。
(私はどうすれば……)
「……ハーシェリク様。」
か細い声が聞こえた。そして自分の手に触れる、体温を失いつつある震える手がハーシェリクの意識を呼び戻した。
「ジーン!」
彼女の震える手を掴み、ハーシェリクは覗き込む。ジーンはハーシェリクの顔を見て安心したように微笑む。
「私のことを気に病む必要はありません……自分の行いがかえってきた、だけです。」
たくさんの人々を傷つけた。命を奪ってきた。自分だけがそれから逃れられるとは思っていない。それほど自分は罪を犯してきたのだから。
(その報いを受けているだけの事……)
「だけど!」
死を受け入れようとしている彼女の手をハーシェリクは握る。冷たくなっていくその手は彼女の残された時間が少ない事を示していた。
「だけど……!」
それ以上言葉にならない。言ってしまえば自分の覚悟が崩れるとわかったからだ。全てを背負う覚悟はある。だけど目の前で死にそうな人間を切り捨てられるほど、ハーシェリクは非情にはなれない。
俯く彼の頬に、ジーンは空いている手を添える。ハーシェリクと視線が合うと青白い顔を無理やり微笑んでみせた。
「自分に嘘を、ついてはいけませんよ?」
それはかつて自分が彼女に言った言葉だった。
ごほり、と彼女がせき込むと血が彼女の口から流れた。刻々と残りの時間が減っている。
ジーンは震える手でつけていたピアスを外す。
「ハーシェリク様、これを……」
そう言って差し出されたのは、彼女と同じ髪色の金属で出来た耳輪を覆う筒のようなデザインだった。よく見れば細かい魔文字が刻まれている。
「これは、きっとハーシェリク様の、手助けになり……」
最後は声がかすれる。既に痛みはない。いや、脳が痛みを拒否しているのかなにも感じない。ただその中で、ハーシェリクに握られた手だけが暖かく感じた。だがその彼は今にも泣きそうに顔を歪めている。
「ハーシェリク様、泣かないで……」
「……泣いて、ない。」
事実、ハーシェリクは泣いていない。だが自分の無力感に今にも押しつぶされそうだった。泣きわめけたらどんなに楽だろうか。感情を表に出せたらと。だけど感情が凍ってしまったかのように、自分の感情を外に出すことが困難だった。
「私はいつも、側におります……」
それが自分の願い。
初めて心の底から思った、最初で最後の願い。
「ジーン……」
彼女の手を握る己の手に力が入る。
「ハーシェリク様が、あの曲を気に入ってくれて嬉しかった……ハーシェリク様の、陽射しのような笑顔が大好きでした……」
ジーンは自分の命が尽きかけているがわかった。まるで照明を落としたかのようにあたりが暗くなっていく。ただ最後に映ったのは、ハーシェリクの顔だった。
「ヴィオを……」
ハーシェリクが握った手から彼女の力が消え、瞳に生前の光が彼女に戻ることはなかった。オランがそっと彼女の瞳を閉じさせる。そうするとただ眠っているだけのように見えた。
ハーシェリクは自分の中にあった温かなモノが、急速に温度を失うのを感じた。
ジーンに告白された時に生まれた感情が、彼女を失った今、脆く崩れ去っていく。
(ちがう。ちがうよ、ジーン)
確かに己の気持ちを偽りヘーニルに隷属するということは出来ない。だが彼女を失いたくないという気持ちも本当だった。それほど彼女の存在はハーシェリクの中で大きかった。
(ああ、そうか)
ハーシェリクは思い至る。
(彼女が、私の……)
失って初めて気が付く。そしてそれは永遠に戻ってくることはない。
ハーシェリクはジーンの手を握っていないほうの手を伸ばし、彼女の磨かれた銅貨のような髪を撫でる。
サラサラとしたこの手触りが、とても好きだった。こうやって彼女の頭を初めて撫でたのは彼女が子供のように泣いた時だ。幼子のように泣く彼女を守りたいと思った。
あの後、初めて見せた彼女の心からの笑顔が、今でも鮮明に思い出せる。
だが、もう彼女がその笑顔を見せることはない。
「……ジーン。」
ハーシェリクは一回だけ彼女の名を呼ぶ。そして近衛騎士団が突入してくるまで、その場所から動かず、一言も言葉を発することもなく、ただただ彼女の頭を愛しそうに撫で続けた。
その映像を見届けて、情報屋……常世の魔女は宙に浮いた水鏡を片手で一振りして消す。妨害がなくなった後、すぐに水鏡を出現して王子達いる場所をみたが、その時は全て終わっていた。
(運命はなんともむごいことをする……)
常世の魔女が視た未来はいくつかあった。
ハーシェリクがヘーニルに殺されシロが魔神化、統一するどころか戦乱が跋扈することとなる未来
魔法陣が暴走し教会とその近隣を巻き込み多くの命を奪う未来
だがそれらをハーシェリクが全て回避した。
しかし運命は二つの道を彼に示した。
自分が殺されるか、ジーンが彼の盾になるか
だがその道を選んだのはハーシェリクではなく、ジーンだった。
「彼女が運命を選択したのね、愛する者の為に。」
彼女が一瞬でも躊躇えば、ハーシェリクは死んでいた。
彼女は自分の命よりも、ハーシェリクの命を迷いなくとった。
そしてハーシェリクは生き残り、彼女は死んだ。
常世の魔女はため息を漏らし、お気に入りのソファに身を沈める。
本来なら彼女が関与すべきことではなかった。だが、自分の力を妨害するほどの何かが裏で暗躍しているのは確かだ。
「……として、調べるべきか。」
常世の魔女の小さな呟きは誰にも聞かれることなく宙に溶けて消え、同時に彼女もソファから消えた。