第四話:存在理由
陸は三階の窓から飛び出した。
手足を風がなぶる。浮遊感が距離感を騙し、体感とは裏腹に地面が急速に近づいていく。制服が絡みつく腕を振り、斬首刀を抜いた。
自由落下の加速を乗せ、鬼の腕に叩きつける。鬼の腕をへし折った。つかんでいた指を蹴飛ばすように狼男を解放させる。
「おい、なにやってんだお前っ!」
鬼は何も言わず裏拳を薙ぎ払った。
陸は大きく飛び下がる。斬首刀を肩に担ぎ、陸は周囲に目を走らせた。
体育でグラウンドに集まっていた生徒は、遠巻きに鬼を見ている。距離は広く取られ、ぎりぎりで生徒の安全は確保されていた。
表情をわずかに和らげ、陸は鬼を臨む。
「ぐ、ぎぎぅ」
鬼は歯をむき出して、苛立たしげに巨腕を振り下ろした。
陸が地面を蹴る。横っ飛びに転がった。
地面が衝撃に揺れる。
殴られたところを中心に、校庭が隆起していた。常軌を逸した膂力だ。
陸は鋭く踏み込む。
肩に担いだ斬首刀を弾ませ、叩き下ろす。その重みが描く線を円にした、低めの一撃。鬼のわき腹に峰を打ちつける。
「ぐぎぃっ!」
「大人しく隔離室に戻れ!」
しかし、鬼は斬首刀を抱えるように腕で押さえる。まるで地面に深く埋め込んだかのように、斬首刀は捕まえられた。左腕が無造作に陸へ突き出される。
その乱暴な一撃を避けられる間合いにない。
陸はとっさに斬首刀を捨てて腕を掲げた。
鬼はその腕をへし折って陸の頭を揺さぶる。
「ご」
陸の喉から声が漏れた。
壁に頭から叩きつけられて、陸は目を瞬かせる。
体が吹き飛ばされていたことに気づかなかった。
割れた頭部からどろりと血が溢れる。金臭い血の臭いに、陸は視線を上げた。
空をのどかに雲が流れている。
鼻の脇に血が垂れた。
ゆっくりと目を鬼に向ける。
鬼は両腕を地面に叩き下ろし、肩を震わせていた。
「……ん?」
陸は目を眇めた。
力の入っていない指を震わせ、身体を起こす。鬼を注視した。
鬼は肩どころか全身をぶるぶると震わせている。
眉間にきつくシワが寄せられ、汗を垂れ流していた。
苦悶に耐えるような表情だ。
陸は険しい表情で立ち上がった。瓦礫を蹴って、足の踏み場を確保する。
「鬼、鬼。そうか、鬼か」
淡々と確かめるようにつぶやく。
鬼は姿勢を低くして地面を蹴った。肩口を向けた突進。
一挙動で斬首刀を抜き駆け出して、陸は鬼に応じる。
斬首刀を斬り上げて迎撃し、勢いを止める。斬首刀を鬼に押し付けるようにして、脇をすり抜けた。腕を空振りした鬼が振り返る。
「陸! 大丈夫か? 手伝うぞ!」
名を呼ばれた陸は反射的に顔を向ける。
昇降口から飛び出した志乃が、刀を抜き放って鞘を捨てた。
「待て!」
志乃が赤い目を丸くして足を止める。
陸は彼女に目を向けた隙を突かれて、殴られた。
防いで折れた斬首刀を捨て、折れた手首を治癒して再び虚空から斬首刀を抜く。抜き打ち。肩の筋肉に弾かれる。飛び下がって間合いを取った。
陸は鬼をにらんだまま叫ぶ。
「こいつはまだ誰も殺してない。処刑は待て」
「なに言ってんだよ! お前を何度も殴ってんだろっ!? このままじゃまた殺されるぞ!」
「それでもだ!」
鬼の拳を飛び退ってよける。
続けざまに鬼が踏み込んでくる。巨腕を薙ぎ払った。
陸は斬首刀を折って身軽になり、転がってかわす。靴底を滑らせながら片膝立ちになった。
踏み込もうと踏ん張りかけた足を、止める。
「落ち着け。まずは深呼吸しろ」
「ぐがあああっ!」
鬼が拳を突き出す。
サイドステップを踏むも、かわしそこなって手にかすめた。指が弾けたように折れる。陸は苦痛に顔を歪めた。
「陸っ!」
「いいから待ってろ!」
志乃を怒鳴りつけて、陸は大柄な鬼を見上げる。
熱気と威圧感が砂と汗臭さに乗って臭った。
険しい表情を見せる鬼は、今朝のような凶悪な暴力衝動は見えない。
「手を開いて、握れ。ゆっくりだ」
鬼は苛立たしげに首を振る。
手を開いて、拳を握った。
陸は笑う。
「そう、できるじゃないか。大丈夫だ。深呼吸しろ。肩、腕、指先を意識して」
喉をうならせた鬼は、背筋を伸ばし、ゆっくり肩を広げる。
息を吸って、吐いた。
ほぐすように手首を振っている。鬼の体色が少しずつ薄くなっていく。
「く、うう……頭が痛い……」
牙の隙間から鬼がつぶやく。
陸は頬をゆるめた。
「そんなもん無視しろ。鬼を抑えるんだ。深呼吸、深呼吸」
陸は穏やかな声で鬼に語りかける。
鬼はきつく目を伏せて浅い呼吸を繰り返している。
陸が一歩鬼に近づいた。
瞬間。
弾かれたように鬼の腕が翻る。陸が真横に水平に飛び、肩口から地面に跳ねた。
殴り飛ばされていた。
「陸っ!」
「だいっ! じょうぶだ!」
折れた腕を地面に突き立て、滑っていく身体を強引に押し留める。
治癒した腕で身体を起こし、怯えた顔で後退りする鬼を見上げた。
「大丈夫だ! 落ち着け! 深呼吸! 余計なことは考えるな! 自分の体を全部無視しろ! 深呼吸すること以外意識するな!」
鬼はさっと目を伏せて、陸の指示通りに深呼吸を続ける。
膨張した体が縮まって、大柄なだけの体格に近づいていく。
いつしか体色は日焼けした程度の肌に戻っていた。ぴくりと眉をしかめる。
「くっ……頭痛が……っ」
陸は体のほこりを払い、息をついた。
校庭の真ん中で立ち尽くす鬼に近づいていく。
鬼とはいえ、その外見は角を生やした背の高い男子生徒でしかない。
志乃を視線で制し、陸は鬼の前に立つ。
「衝動は収まったか?」
「……たぶん、ね。くっ」
「保健室に行くか。頭痛薬くらい置いてるはずだ」
鬼は小さく口の端を緩める。
「やめとく。僕に効く薬はあんまりないんだ」
「そうか」
陸は笑った。
「大丈夫か?」
「なんとか。ごめん。頭が真っ白になって、なんか、自暴自棄になってたみたいだ」
「気にするな。失恋でも?」
「違う。幸か不幸か、ね」
青ざめた顔をつらそうに強張らせているが、鬼は談笑に応じられている。
陸は肩を貸そうと手を出したが、鬼は首を振って拒絶した。足はふらついていない。
「でも、少し休む……隔離室を借りるとするよ」
「ああ、そうしろ」
鬼はゆっくりと昇降口に足を向ける。陸も彼を見送り、昇降口に目を向けた。
「陸!」
黒髪を揺らし、金の瞳と目が合う。
実衣奈が不安そうに陸を見ていた。
彼女の隣に控えるように佇む翔子が小さく手を振っている。
視線を同じくしていた志乃は、肩をすくめて刀を肩に乗せた。
「お嫁さんが心配してるぞ」
「なにが嫁だ。俺に心配されるようなことがあるわけないだろ」
青白い髪を揺らし、含み笑いが陸を見る。
「馬ァ鹿。理屈じゃねーんだよ、そういうのは」
陸は肩をすくめる。
ぱちぱち、と乾いた音が響いた。
「相変わらず、お見事ですね。まさか殺さずに場を収めてしまうとは」
翔子が嬉しそうに笑って拍手をしている。
「予想外でした。誤解は招いても、嘘はつかないということでしょうか」
「……なに?」
陸は怪訝に眉根を寄せる。
穏やかな笑顔を湛える翔子は、陸を見た。
陸の背筋が凍る。
翔子は仮面のように笑顔を動かさないまま、冷え切った目で陸を見据えている。
「先ほど、わたくしが『いつ発症したのか?』と問うたとき、あなただけが明瞭な答えを返しませんでしたね。そうでしょう、答えられるはずがない。嘘をつかないのは美徳ですね」
実衣奈が目を丸くして隣の翔子を見ている。
志乃は訝しげに、鬼は驚いたように身を固めて翔子を見つめている。
翔子は視線に頓着せず、悠々と歩き出した。
「とはいえ、嘘を招く曖昧さも同じ。悪徳です。……わたくし個人としては、好きですけれど。ですが、あなたの偽りは、あなたの勤勉さを無化してしまうもの。そうでしょう?」
階段を降り、ローファーが校庭を踏む。ざり、と砂利を噛む音が鳴る。
「だからこそ、佐津間さん。わたくしはあえて、あなたに問わせていただきます」
両手を広げ、純白の翼をも広げた。
その冷たい碧眼が陸をにらみつける。
笑みを湛えた唇が、冷徹な声を紡いだ。
「あなたは、人外ではありませんね?」
志乃が、実衣奈が、陸を振り返る。
陸は険しい表情で翔子をにらみつけていた。
「人外ではない者が、どうして人外学校に混じっているのです? ましてや、我々を監督する立場に立ち、我々を圧倒するなどとは。……あなたは、人間が差し向けた首輪でしょう?」
陸は静かに口を開く。
「それを言って、どうなる?」
「許せません」
その瞬間だけ、翔子の笑顔が消えた。
氷の彫像のような表情が、また笑顔に隠される。
「わたくしのような天使は、秩序を愛するのです。秩序とは天に与えられ自ら作りあげるもの。他人に与えられる制限と制約は、秩序ではなく支配でしょう。それを許すことはできません。……あなたが我々側の存在でない以上、あなたのもたらす秩序に恭順することは、許容できませんね」
「おい、陸……」
志乃のかすれ声に、手のひらを向けて制する。その手で斬首刀を抜いた。
剣尖を地面すれすれに流す。
静かに姿勢を傾け、疾駆。志乃に向けて一足で間合いを詰めた。
見開かれた志乃の赤い瞳に、斬首刀を振りかぶる陸の姿が映りこむ。
「ちょ陸っ!?」
「伏せろ!」
振りぬいた。
拳を振り上げた鬼の肩を峰で殴り飛ばす。殴打を強引に止めさせた。
志乃がいまさら頭を下げて振り返り、鬼を視界に認めて瞠目する。
「こ、こいつ! 落ち着いたんじゃなかったのかよ!?」
「うぐぎゅう……!」
喉をうならせる鬼の身体は、再び赤く染まり膨張を始めている。頭痛をこらえるように頭を抱え、肩や膝を震わせていた。
「翔子! お前、こいつになにをした!」
「特別なことは、なにも。ただ彼のレーゾンデートルを思い出させてあげただけですよ」
「存在理由だと? どういう意味だ」
「分かりませんか? ならば教えてあげましょう」
くすくすと喉を震わせる。
「人外は人外としての生を実行する……己に忠実であるべきです。自らによって己を望む、それこそが使命というものです。人外でないあなたには、理解できないかもしれませんけれど」
碧眼の目元をゆるめて、柔らかく嫣然と微笑んだ。
「正義の悪魔など、ありえません。要は、それと同じことなのですよ」
鬼は肩を震わせ、喉を反らせて顔を上げる。
口腔を開き、大地さえ揺らすような怒号をあげた。