第三話:学業励行
「実衣奈!」
鬼を屠った陸は、弾かれたように駆け出した。
校門を飛び出し、少女とぶつかって抱きとめる。
腕の中の少女は金の目を驚きに見開いていた。
「すまない、って実衣奈じゃないか。平気か?」
「うん。私なら大丈夫」
答えながら、実衣奈は平然と陸に身体を預けている。
痛がる様子も傷跡もない。
安堵の笑みは、すぐに苦笑に変わる。
「……いや、大丈夫なら体重をかけないで欲しいんだが」
「嫌?」
「嫌とかそういうんでなく」
「おい! 仕事が終わったんなら、あたしの体見つけてくれよー!」
実衣奈は志乃の声が聞こえなかった振りをした。
「づぉいコラぁ! って、え?」
女子生徒が志乃の頭を両手で挟んで四半転させ、校庭の隅を指差した。
「体って、アレですよね」
「お、おー! そうそう! 助かるわぁ、ありがとな」
ひっくり返された甲虫のように手足を動かしていた首なしの体が、突然中身が入れ替わったかのようにすっくと立ち上がる。首から上がないことを感じさせない滑らかな動きだ。
志乃の隣に立つ女子生徒は、地面に縫い止められた鬼に無遠慮に顔を寄せて覗き込んでいる。
背中に生え揃った純白の翼は、光をまばゆく散らすように反射させ、輝いていた。
その姿に陸は感嘆する。
「天使……か? 珍しいな、ああいう人外は」
人外と言えば顔が馬になったり牛になったり、手足が増えたりするケースが多い。志乃の場合、本体は妖刀であって、依り代の姿は任意に近い。
陸や実衣奈のように、完全な人の姿をした者のほうがここでは珍しかった。
「……ふん」
その片割れである実衣奈は、不服そうに鼻を鳴らして陸の背中に回した手でつねった。不思議そうに振り返る陸に目も合わせない。
鬼を見ていた天使は振り返った。
視線を感じて顔を向けた陸と目が合う。
ふわり、と少女は微笑を見せた。
「お見事ですね、生徒会さん。リクさんと呼ばれていましたか。実に、見事な手際です」
外国人めいたイントネーションで陸を呼ぶ。
直截な賞賛に陸は鼻白んだ。
「いや、見事な手際ってものでもない。何度も負傷した」
「いいえ。身を挺して生徒を守り、鬼の説得を試み、叶わなければ全力で阻止する。職務の本懐を正しく把握した過不足のない働きを、見事と呼ばずしてなんとします。リク、あなたはとても素晴らしい」
天使はあどけなくさえある無垢な笑顔を浮かべて、穏やかに拍手をする。
「いや、そりゃ、どうも……」
居心地悪そうに照れる陸を、つねり続けて無視されている実衣奈は焦った。
「陸っ! 私もすごかったと思ってるよ! かっこよかった! その反り血とかすごいかっこいい!! それが私の血だったらと思うと興奮する!」
「だからお前怖いって!」
陸は実衣奈を引き剥がした。
「な、なんでぇっ?」
「わからいでか」
陸を求めるように手を伸ばして、実衣奈は泣きそうな顔をしている。
志乃にまで呆れられた。
「実衣奈さん」
天使は微笑を実衣奈に向ける。
泣き崩れそうな顔を向ける彼女に、サムズアップ。
「純愛ですね! 素晴らしい!」
『ええええええええ!』
陸と志乃が同時に叫び、実衣奈が首をかしげた。
天使は目を伏せて両手を組む。
「心だけでは足りない……血も肉も愛する人に捧げたい……。これほど強い愛情の念を、純愛と呼ばずしてなんとしますか。そこには自己犠牲も功利主義もない、ただ無償の利他欲があるだけです。混じりけのない愛情……そう、まさに、これこそが真の純愛!」
天使は感極まったように翼を広げて飛び、実衣奈の手を取った。
「感動いたしました! わたくし、天音翔子と申します。実衣奈さん、ぜひお友達になっていただけませんか?」
「え、えぇー?」
実衣奈は戸惑って陸を見た。
なぜ見られたのか分からない陸も困惑しながら、一応実衣奈を祝福する。
「いやまあ、友達が増えるのはいいことじゃないか?」
「そうそう。いくら陸と幼馴染みだからって、それしか話さないのはどうかと思ってたしね」
志乃も援護射撃をする。
まだ意味もなく躊躇している実衣奈に、天使は笑みを見せる。
「心配なさらずとも、二人きりになりそうなときは急用を用意いたします」
「あ、そういうことなら」
実衣奈は快く了承した。
「……いや、それもそれで理不尽だなオイ。素直に友達の少ないあんたを心配したあたしの言葉を返してほしい」
「いい気遣いだったぞ」
陸が志乃の頭をポンポンと撫でる。
かあっと首を赤くして、志乃は勢いよく飛びすさった。
「そういう返しかたはいらん! ……っとと」
首を支え、その断面が一瞬で治されていたことに目を丸くする。見上げた陸は笑っている。
「信賞必罰だ」
「……ケッ」
志乃は喉を鳴らして背を向けた。
その先で、三対の腕を持つ教師が泡を食ったように駆け寄ってくる。
「佐津間! 無事か? 怪我人は出てないか?」
「はい、問題ありません。今は無力化して足止めしています」
陸は鬼を見る。
槍を伝って血溜まりを広げ続ける鬼は、死んだように微動だにしない。
それでも、酸欠で意識を失っているに過ぎない。槍を抜き心臓が再生されれば容易に蘇生することは見えていた。
教師は身体を槍で支えているような鬼を見てうなずいた。
「あとの処理は私がする。きみたちは教室に向かって授業の準備をしておきなさい」
分かりました、と陸が応えた。
教師は鬼の胸から槍を抜き、担ぎ上げて連れ去っていく。
そうして場を引き上げ、陸たちは学生として学校生活に戻っていった。
人外といえど、学生であれば授業がある。
「そういえばさ」
シャーペンの尻で唇を押し上げていた志乃が、出し抜けに顔を上げる。
四つの机を寄せ、志乃の向かいで陸がペンを動かしていた。
「あたしはもともと人斬りだから、スラ子かあんたと一緒にいるよう厳命されてるけど……あの鬼みたいに無関係の生徒を襲ったヤツはどうなるんだ?」
「大差はない。殺した分だけ殺して終わり。ただ今回みたいな暴走の場合だと、落ち着かせて事情を聞くまで、隔離室に入れられるかもな。しかし、志乃」
資料を要約する手を止めて、陸は眉をひそめた。
「遊んでないで調べろよ。議会政治について、まとめて発表しなきゃいけないんだぞ。グループワークなんだから、一人がサボってたら滞るだろ」
「陸が一人でまとめたほうが早いし、内容も充実するだろ? 真面目にやったって間抜けなだけだよ。どうせ、あたしらの授業なんて遊びみたいなもんなんだしさ」
「遊びだとしても、片手間でやっていい法はない。だいたい、お前みたいにハナからやる気が無いヤツはいいが、ちゃんと認可試験を受けて特区を出たいってヤツだっているんだぞ」
「ケッ、真面目だねえ。嫌んなるよ、なあ実衣奈」
「え? なに? ごめん陸に見惚れて聞いてなかった」
「お前もブレねぇなあ……」
志乃は呆れ顔で頬杖を突く。
陸は苦虫を噛み潰したような顔で実衣奈を見ている。
彼女の手元にあるノートも白紙だ。
「陸さんと実衣奈さんの馴れ初めって、なんなのですか?」
翔子がペンを動かす手を止めて、興味津々と言う顔で口を挟む。
実衣奈は気恥ずかしそうに顎を引いて首をかしげた。
「うーん。……運命、かな」
「小学校が同じだったんだよ。俺も実衣奈も、十二歳の定期健診で人外認定されて強制移送」
実衣奈に被せるように、陸が端的に説明する。ペンを指で弾いて回し、手を休めた。
「それまでは取り分け仲がいいわけじゃなかったけどさ、行きのバスで、知ってる顔があるぞってんで。それから」
「なるほど」翔子はうなずく。「それは運命的ですね」
「でしょ?」
「いやさっぱり分からん」
志乃が呆れる。
「あたしも登校が許可されてから三年こいつらと一緒にいるけど、未だに分からんわ。ホントどういう関係になってんだ、お前ら」
「その前の一年で、進むところまで進んでたからね」
実衣奈は恥じ入るように顎を引いて自慢した。志乃が目を剥く。
「え……き、聞いてねぇぞそれ! お前、十二で女に手ぇ出してたのか!?」
「出すか馬鹿!」
勢い込んだ志乃の額をチョップで打ち返して席に叩き返す。
「実衣奈は人外らしい目に見える力がなかったから、最初のうちは特区移住を受け入れられなかった。そのころから付き添ってただけだ」
実衣奈は陸を見て金の目を細めている。
翔子は笑顔を輝かせて、場の三人を順に見た。
「では、皆さん十代前半で人外発症したんですか?」
「いや、あたしは先天性だよ。つまり、この依り代を胎児期から見出して、つつがなく流産したのちに蘇生、発症っつー流れ。人斬りの習性が分かってたから、実行に移せるほど体が成熟する前に特区の隔離施設に投獄された。特区歴はここらじゃ古参だね」
「憑き物の先天性人外は珍しいよな」
陸の感慨に志乃は黙って肩をすくめる。赤い目をくるりと巡らせて翔子を見た。
「そういうあんたは、いつ発症したわけ?」
「わたくしは臨床発症です。車に轢かれた瞬間にはもう空を飛んでいましたから、人としての最期の記憶はありませんけれどね」
「ってことは、ここだけで発症例は三パターンとも揃ってるんだね」
実衣奈は嬉しそうに目を細めた。
陸が疑わしそうに目を眇める。
「おい、お前ら。今が何の時間か忘れてないか?」
「あ」
「う」
志乃と実衣奈が顔を苦らせる横で、翔子は手元のノートを陸に差し出した。
「こんな感じでいかがでしょう?」
「……いいな。要点をうまく抜き出してまとめてる。仕事が早いな」
内容に目を走らせた陸は、感心もあらわに翔子を見る。翔子はにこにこと笑って一礼した。
実衣奈は泡を食ったように陸にノートを押し付ける。
「り、陸っ! 私も! 私も褒めて!」
「お前白紙だろうが!」
「うぇあ、ホントだ! なんで!?」
「なんでも何も、お前、資料開いてすらねーだろ」
実衣奈は自分の机にあるポケット歴史事典を、生れて初めて見るような顔で見つめた。
その表情を無言で眺めた陸は、静かに目を伏せる。
「さて。そろそろ時間が無くなってきたし、まとめに入るか。翔子、手伝ってくれ」
「うぇああうぉああっ! まってまって、私頑張るから! 今から頑張るから!」
「おー、三人もいれば人手は充分だな」
志乃は得意満面で机の上で足を組んで窓を見る。
「せめて作業をするフリくらいしろ!」
「あでっ!」
頭で跳ねた消しゴムを空中でキャッチしながら、志乃はふと足を下ろして窓を見る。
「……おい陸」
「なんだ。だから手伝えと」
志乃は怪訝そうな顔で陸を振り返り、窓の外を指差した。
「あの鬼が体育に参加してるけど、それって大丈夫なのか?」
「はぁ? あの鬼は今隔離されて……」
窓の外で悲鳴が響いた。
陸は窓に飛びついて勢いよく開ける。
昼の日差しに暖められた、砂埃の混じる空気が教室に入り込んできた。
三階の高さから見下ろす校庭の真ん中で、赤い鬼は運動着の狼男をつかんでいる。
無造作にその頭を握って、ねじる力を込めるために脇を開いた。
陸は窓枠を蹴って飛び出した。