プロローグ:特区
「しっかり育ってね。……さよなら」
声が耳にこびりついている。
トンネルに入ったバスの車窓は、オレンジの灯りを断続的に流していく。薄暗い影のなかで、隣の少女が抱えたカバンに顎をうずめるようにして眠っていた。
他の席でも、寝息やささやき声が上がっている。その誰もが同じくらいの年ごろだ。
修学旅行の帰りみたいだと思った。しかし、帰りの便ではないし、知っている仲ですらない。そもそもこの道に、帰りの便があるのだろうか。
「怖い……」
耳元で、実衣奈が苦しげにうめく。寝言だ。
眉は怯えるようにひそめられ、カバンを抱く腕に力がこもっている。
睫毛が震えた。
うっすらと潤んだ目が開けられ、ぼんやりとした瞳と目が合う。
「うぅ、陸……? ここは?」
「トンネル。もう少しで着く」
「着く? ……着く」
実衣奈は目を瞬かせた。
口の中で言葉を転がすように唇をすぼめ、目を伏せる。
「そっか。もうすぐ着くんだ。……特区に、ホントに着いちゃうんだ」
特区。
都市機能をまるごと収めた、すり鉢の底にも似た盆地。
身を縮めるようにカバンを抱きすくめている彼女の手に、手を重ねる。
「大丈夫。そんなひどいことにはならない。大して変わらないさ」
実衣奈は陸を見上げる。
その怯えた顔に、笑いかけた。
「実衣奈って、怖がりだったんだな」
目を丸くした彼女は、怒ったように顔を背けて顎をカバンに乗せる。
その赤い耳から視線を外して、車窓に顔を寄せた。
確信があった。
今よりひどいことにはならない。
学校に行く。
コンビニに立ち寄る。
マンガだって読む。
勉強して、宿題して、試験に備えて。
友達と話すだろう。部活だってするはずだ。恋人だって出来るかもしれない。
紹介状どおりの都会なら、今まで住んでいた街より住みやすいくらいだろう。
大丈夫。なにも変わらない。
「俺たちがなんだろうと、そんなの、なんでもないことだ」
車窓に映る少年が、深刻な顔でささやいた。
トンネルの先に、白んだ道路が見える。
しかし、バスはトンネルを抜ける直前で停車した。
実衣奈は不安と恐怖に首を縮めて辺りを見回す。
「なに? 着いたの?」
「いや……最初に寮に向かうって聞いてたけど」
「じゃあ、どうして停まってるの?」
ざわめきがバスを割った。
座席から溢れた荷物をまたいで、バスの運転手が実衣奈の横で足を止める。
恐怖に身を強張らせる実衣奈を一瞥して、運転手は口を開いた。
「佐津間くん、だね。キミは、一度ここで別の場所に寄ってもらう」
「えっ?」
声をあげたのは実衣奈だった。
しかし、呼ばれたのは彼女ではなかった。
運転手の目は感情のこもらない事務的なもので、実衣奈の声に耳を傾ける気配さえない。
「分かりました。降りないといけないんですね」
「ああ」
不安そうな実衣奈に目配せをして、バスを降りる。ステップを踏んでアスファルトを踏んだ。真新しいアスファルトを踏む感触だけは、故郷と変わらない。
背後でバスの扉が閉まり、ハッチが被さり、装甲板に覆われ、太いボルトが沈むように回転して複合装甲を固定する。
重々しいエンジン音を上げて、装甲車のようなバスが走り去っていく。
排気の黒煙が日の光に崩れて消えた。
控えていたセダンの扉を開けて、男が声をかけてくる。
「それじゃあ、行こうか。すぐに施術をして、友達のところに向かおう」
そのセダンは、そうと見えないよう加工された装甲で作られている。車から視線を外して男を見上げた。
「……はい、行きましょう」
「すまないね。規則上、君を施設に受け入れるには必要なことなんだ」
その言葉に口の片方を吊り上げるように笑い、黙って乗り込む。
動き出したセダンはトンネルを抜け、バスと違う道に分岐を折れて坂を下っていく。
道路標識には、「人外症候群研究所」と刻まれている。
そして佐津間陸は、四年後までに二五二四回、人を殺した。