彼らのメリークリスマス
そいつは、何食わぬ顔をして唐突に現れやがったんだ。
時刻は昼過ぎ。兄が一人暮らししているという市内のアパートを久しぶりに訪れ、まず、想像を超えた室内の混沌ぶりに深い絶望の溜息をこぼしたときからいい予感はまるでしていなかった。今思い返せば、ああいう直感を虫の報せと呼ぶのだろう。
そういうわけで、流し台に堆く積み上げられていたプラスチック容器の片付けを皮切りに、途方もなく地道で骨の折れる作業に取り掛かることになった。間違いなく兄は大学でも締め切りギリギリまで課題を提出しないタイプだろう。俺もこれほどではなくとも人のことは言えないが。まったく、こういう部分は二人して父親から受け継がなくてもよかったのにさ。
ゴミ出し、掃除、洗濯と主婦の定番タスクを一通り終える頃には、すでに日が暮れかかっていた。ちなみにその間、兄は手伝いの一つもせず横になって、二次元だけど三次元な夢のクラブに入り浸ってらっしゃった。何が『受付さんかわいい』だよと文句の一つも言いたくなるところだが、すんでのところで踏みとどまる。こんな兄でも一応地元では名の知れた大学に通っているのだから、世の中って理不尽だと思う。さすがにノットエデュケーションかつエンプロイメントな状態になったら、面倒見切れないがな。
さて、腹の虫という奴は精確なもので、定められた時間になると兄弟揃って競うように鳴り響くものだから、苦笑するほかない。正直、ここで兄を放り出して帰るという選択肢もあったのだが、前々から俺がこの“魔窟”を訪れるように口を酸っぱくして言われていたので、よもや責務を放棄するわけにも行かない。
そして、これが一番の理由なのだが――
『悠輔、しっかりやってきなさいよ』
母上は、出掛け際に満面の笑みで臨時の小遣いと称して諭吉様を三枚も奮発してくださった。いつもウチにはお金が無いとのたまっている母上にあるまじき大盤振る舞いだ。曰く、これでも足りないかもしれないとのこと。俺は財布の中に詰まった紙幣を眇めるように見て、一段と憂鬱な気持ちになる。
「なあ、ものぐさ兄貴」 そんな憂鬱が少しでも紛れればと、俺は兄に話し掛ける。兄はぼさぼさ頭を掻き毟ると、こちらを振り返りもせず「どうした」と生返事を寄越す。
「兄貴は、誰か好きな人とかいないのかよ」
「受付さん」
そもそも兄に訊いたのが間違いだった!
「なんというか、そういう平面的な意味じゃなくてさ。サークルとか大学内で、とか」
裸一貫で地雷原に特攻してしまった感は否めないが、ここまで来たらもう引き返せない。まさしく「ええいままよ」な心境である。兄はぎょろりと眼球だけをこちらに向けると低い声で、文字通り唸った。完全に地雷だな、これは。
「悠輔。言いたいことは山ほどあるが、一つだけ言わせてくれ」
「なんなりとおっしゃってください」思わず神妙にかしこまる俺。
「くたばれ、直結厨」
「正気に戻れ、兄貴」
「話せば長くなる。俺の人生の全てを集約した結果、導き出された結論だ。摂理と呼んでも差し支えないかもしれん。卒論のテーマにも採用しようと思う」
「お願いだからやめてください」さすがにお天道様の下を歩けなくなるのは勘弁願いたい。
話はそれだけかと言うと、兄はまたテレビ画面へと視線を戻してしまった。結局のところ何の解決にもならなかったが、兄があまりにも普段通りなので少々安堵したのも事実だ。変に意識しすぎた結果、自らを袋小路に追いこんでしまった俺とは実に対照的である。どうして下らない見栄を張って『彼女ができた』と豪語したんだろうな、一ヶ月前の俺は、と後悔しても、もう遅い。そのせいで妙な期待と好奇の眼差しを向けられて、帰るに帰れない状況になってしまった。兄がこんな調子だし、せめて俺くらいは真人間であって欲しいという母上のプレッシャーをひしひしと感じたが故の防衛本能が働いた結果ともいえるが、客観的に見ればただの自業自得にちがいない。俺だって男だからそういう気持ちを持つこともあるが、特別仲の良い異性は存在しないし、ましてや都合よく空からガールフレンドが降って沸いてくる展開なんてあるはずもない。でも二次元に逃げるのはなんだか負けのような気がして、今更兄のように開き直ることも出来ない。
そんなわけだから、現状はご覧の有り様――兄と二人きりで聖なる夜を過ごさなければならないのだ。
とりあえず腹が減ったので、兄に希望を聞いてから近くのコンビニまで買い物に出かけることにした。
今夜は一際肌寒く、ダッフルコートを羽織っていても北風が身に染みる。所狭しと色とりどりの電飾があしらわれた通りを歩いているのは、これ見よがしに腕を組んできゃっきゃうふふな空間作りに勤しんでいるアベック(死語)ばかりでモブキャラな俺はひたすらに肩身が狭い。まったく、資本主義って奴は罪深いもんだと悪態をつきたくもなる。なあ、拝啓諭吉様よ、人は人の上にリア充を作っては無用な諍いを生み出しています。まったく愚かですよねえ、俺がな。
素敵に愉快に背景として同化することを心がけつつ買い物を済ませ、再びアパート前に戻ってくると、中から賑やかな話し声が聞こえてきた。扉の前で鍵を取り出しつつ、何気なく耳を欹ててみる。
『だからキサマは駄目なのだ。キサマの眼は何を観測するためにあるというのだ、このおっぱい魔人がッ!』
『サー、ごもっともです、サー』
『まあいい。以後は空よりも広い度量と海よりも深い愛でキサマの全力を捧げろ。そうすれば、矮小でファッキンチェリーボーイなキサマにも“真実”が視えてくるであろう……』
『――肝に銘じます』
兄と誰かが白熱したやり取りを交わしているようだった。兄の気が狂って一人芝居を始めたでもない限り、誰かが来客しているのだろう。兄にしては珍しい気もするが。まったく、何を騒いでいるんだか。俺は近所迷惑になっていることを一言それとなく注意しようと決意し、扉を開けた。
すると、
「メルィ苦しみまーす、ファッキン愚弟よ」
そいつは、尊大な態度で出迎えた。
「ふはは、どうした。私の姿に恐れおののいたとでもいうのか。笑止ッ! キサマには耐性が足りんなあ。それでも愚兄と血を分けた、選ばれた戦士なのかね」
もしかして部屋を間違えたか。って、そういえば鍵は回ったんだった。頭の中に無限の疑問符が浮かぶ。だが、何よりもまず訊かなければならないことがある。
「まあ、いい。そこで突っ立っていられてもお寒い空気が流れ込んでくるだけだからなあ。今宵は兄弟水入らずで杯を酌み交わそうではないか。私のおごりだから浴びるまで飲みたまえ」
「あんた、誰」
当然の誰何を投げかけると、一瞬で場の空気が水を打ったように静まり返った。俺もその言葉を搾り出すのがやっとだった。これならまだ空から女の子が降ってくるほうがよほど現実味を帯びているのではないかと信仰したくもなる。
なぜなら――
「おい悠輔、言葉を慎めよ。そこの御方は、萌えという固い師弟関係で結ばれた、萌えの伝道師であらせられるのだからな。その証拠に、外聞を捨てて形から萌えを取り入れておられる」
「そう誉めても何も褒美は出んぞ。こう見えて私は多忙の身だからな。なぜならば私はあまねく全国の恋愛ニートどもに愛を届けるべく、派遣された――」
誰だよ、このおっさん。むしろ誰が得するんだよなどとメタ的な代弁が決壊して溢れだす寸前でどうにか持ちこたえた。
全身が赤い衣装で背中に大きな白い袋を背負っているだけならまだ理解できなくもない。メディアに触発されて慈善活動に目覚めたアノニマスの便宜的通称としての“伊達さん”が、クリスマスという一大イベントに乗じて古きよき時代のご近所付き合いを取り戻そうと奔走しているのだろう。それにしたってプレゼントを配る相手は選べとも思うが。
しかしながら、眼前の典型的な日本の中年男は、にこやかに横ピースなんぞかましながら、
「淫乱サンタクロースだぴょんっ」
「おい兄貴、この変質者をつまみだしてもいいか」
自分の中で決定的な何かの切れた音が聞こえたような気がする。
うさ耳を装備してミニスカートを履きこなした小柄のおっさんは、何が可笑しいのか口元を歪めた。それが余計癪に触るのは言うまでもない。というか、直視するに堪えない構図である。ここが自由の国だったら即座に別の意味で服が赤く染まることだろう。
「なあ青年よ。この国はいつからこんなに不寛容になったのだろうなあ」
「あんたが奔放すぎなんだよっ」
顔を合わせて間もない人間にぶつける台詞でもないが、不法侵入者に配慮する必要もないだろう。せめて後腐れのないよう即座にお引取り願おうか。
「おい、悠輔」いつの間にか兄がコントローラーから手を離して俺を見つめていた。いつになく真剣な面持ちである。
「丁重にもてなして差し上げろ」
「なんでやねんっ!!」
「兄の方は理解があって助かるな。それに引き換えゆうちゃんときたら、細かいことばかりを気にしおって。人生には幾許かのゆとりが必要とは思わんかね」
「ゆうちゃん言うな気色悪い。とっとと帰れよおっさん。まがりなりにもサンタなんだから、プレゼント渡したら早いところ次の家に行くのが筋だろ」
今のは我ながら隙の無い正論だったと思う。いくらなんでもクリスマスイブの夜に、ギャルゲー三昧の兄貴と見知らぬ変態コスプレ中年に囲まれて正気を保てる余裕はない。見たところおっさんは人のよさそうな笑みを浮かべているようにも見えるが、実は狡猾な犯罪者という可能性も否定できない。あるいは、懇意になるのを見計らって怪しげな商材を買わせる腹積もりだろうか。自分の身は自分で守らなければ誰も助けてはくれないのが世の常だ。もっとも、守るつもりはなくても捨てられないものもあるが、それを考えるとあの三万円が異常な重みを増してくるので、明日までに上手いこと整合性のあるシナリオを練り上げないとな……。
「悠輔」
兄が眉間に皺を寄せて、言った。正直、嫌な予感しかしない。
「ここは俺の家だ。俺が誰を家に上げようとお前に文句を言われる筋合いは無いんだがな」
兄の助け舟に、おっさんが「ほう」と目の色を変えた。言わんこっちゃない。こういう不審者と対峙する際は付け入る隙を与えた時点で負けなのだ。しかしながら、もう後の祭りである。おっさんは油ギッシュなオールバックもかくやというほどに瞳を爛々と輝かせると、ずいと顔を寄せてきた。視界がおっさん色に染まる。端的に言って気持ち悪い。
「愚弟よ、上下関係を弁えない言動は感心できんな。私とそこのお兄ちゃんは面識こそ浅いが、こうして魂の通った忌憚無き意見を交し合えたこともまた事実だ。その魂と魂の共鳴に、キサマのような一端の童貞風情がどうして無粋な亀裂を入れることができようか。いや、何人たりとも聖域は侵犯できない(反語)」
「あなたとはいい酒が呑めそうです」
ドヤ顔で、兄がおっさんと拳を突き合わせる。もうこの異空間についていける気がしない。こうなったら、あの軍資金で何処か遠く、そうだ、漫画喫茶で夜を明かせばいいか。俺は魔窟から身を翻して、外に出る。出ようとすると、声がかかった。
「何処に行く、若者よ」おっさんだった。
「何処って、何処に行こうと俺の勝手だろ。兄貴があんたを家に招き入れるのが兄貴の勝手であることと同じようにな」
「こんな日に一人寂しく悶々と過ごすのか。いいものだぞ、クリスマスは。誰かと過ごす、そのこと自体に意味があると思わんかね」
「あんたみたいな見ず知らずの、そこはかとなく変態風味のおっさんと過ごす趣味はない」
ふむ、と芝居がかった動作で、おっさんが白ヒゲの生えた口元を撫でる。それから、兄を一瞥した。
「ならば、百歩譲って君が一人でも耐えられる強い男だと仮定しよう。だが、兄はどうかな。一人暮らしで寂しい思いをしていたのではないのか。クリスマスの本来の意味からすると、家族水入らずで過ごすのがいいんじゃないかね」
「余計なお世話だろ。つか、家族水入らずで過ごしてほしいなら、尚更おっさん邪魔じゃん」
「ザッツライ!」
おっさんはうさぎを模した耳を勢いよく外すと、そそくさと兄に被せた。
「だからこそ、私が来たのだよ。不仲な家族の潤滑剤としての役割を演じるために、な」
いや、別に仲は悪くないんだが。
「実を言うとな……先日、私は職場の部下に妻を略奪された」
いきなり話が重くなった!?
「まあ半分は冗談だがな」
「言っていい冗談と悪い冗談があるだろ」むしろ残り半分は本気なのかよ。
「そんなわけだから、私はこうして道化としてキサマらの家族愛を盛り立て、燃え上がらせて、インさせるのが目的だ」
「インって何だよ」
「やだ、そんなこと言わせるのゆうちゃんったら、恥ずかちー」
もじもじと身をくねらせる中年オヤジ。今なら正当防衛を建前に、この犯罪者予備軍を闇へ葬っても許されるんじゃないのか。
「おい兄貴、バール貸してくれ」
「あるわけないだろう」至極真っ当な回答が返ってきた。だんだんこのペースに毒されつつあるのは気のせいだろうか。否、流されてはならない。毅然と邪魔者を追い払い、平穏な聖夜を勝ち取らなければ、ってそれだと別な意味に誤解されるというか誰に弁明しているんだ俺は――ッ!
俺はおっさんに向き直ると、不機嫌そのものの表情を作って、言った。
「帰れ」
「とりあえずプレゼントを受け取ってからでも遅くはなかろう」
「で、プレゼントとやらは何処に」
「しばし歓談でもしながらゆっくりと待ちたまえ」
「待たない。すぐに寄越せ」
「やだ、もうこの子ったら、今すぐに欲しいだなんて……せっかちな男は嫌われるんだからね、ぷんぷん」
「今の台詞、なかなかに萌え度が高かったな。評価する」兄がぼそりと呟く。何をメモってやがるんですかおい。
視線で威嚇をつづけると、おっさんは観念したのか、おもむろにコタツの前で正座して、さあ受け取りたまえと言った。もちろん目の前には何も置かれていない。しばらく待ってみたが、一向に状況の変わる気配がない。
一分、二分、三分経過しても、おっさんは借りてきた猫のような姿勢を崩さない。なんというか、かまってちゃんもここまで徹底しているといっそ清々しいな畜生。このままでは埒があかないので声をかける。かけざるをえない。
「まさかとは思うがプレゼントはあたしとかふざけたこと抜かしたら、即座に叩き出すからな」
「時に愚弟よ、ネタバレは万死に値すると思わないか。ハッピーエンドと信じて疑わないプレイヤーに不意打ちの絶望を与えてこそ、寝取られは成立するのではないかね」
「サー、お言葉ですが、二次元においてまで苦痛を味わうのはいささかおいたが過ぎるのでは、」
早くも別の擬似恋愛ゲームに取り掛かっていた兄が口を挟む。どうでもいいが、ヘッドホンを装着したままでよく会話に参加できるな。
「兄よ、異論は認めよう。だが、それは私の紳士道に反する。想像の翼を広げてみたまえ。そうやって表現を狭めていった結果残るものは、惰性にも似た安寧という名のディストピアではないか。キサマがインスタントでプリミティブなごっこ遊びに興じるのは構わんが、それはいつか己の身を滅ぼすだけではないかね」
「はあ、不勉強で申し訳ありません」
「まあいい。今はわからずとも、な」
おっさんが目を細めると、兄が畏まって頭を下げた。二人の間に安堵の空気が広がる。何なんだよ、この『やりきってやったぜ』みたいな雰囲気は。
「さて、愚弟よ」おっさんが俺に向き直る。「そういうわけだから、今からこの私自ら教鞭を執り、無知で早撃ちなキサマのために聖夜を彩る真実の愛とやらを教えてやろう」
おっさんが兄にてきぱきと指示を出すと、着々と準備が整った。小ぢんまりとしたコタツの周りを取り囲むのは、大の男三人。テーブルの上には先ほど買い込んだつまみ等の食糧と、おっさんが奢りだといって用意した酒瓶、そして、一台のノートパソコンがある。
当然のような顔をしておっさんが乾杯の音頭を取ると、それは始まった。
「現状を報告しろ、愚兄よ」
おっさんがグラスに注いだ焼酎を一息に煽ると、ノートパソコンを手際よく操作して、言った。画面上には華やかな背景と極端にデフォルメされた女の子のイラストが映し出され、軽快な音楽が鳴り響いている。
「進捗状況が思わしくないようだが、どういうことかね」
「は、学業に追われて、進める時間がありませんでした。決してモチベーションが落ちたというわけではないのですが、つい後回しになってしまい、小生は猛省しております」
「そういうことを訊いているのではないのだよ、キミぃ。なぜ、これだけ時間を費やしてこんなに進んでいないのか、それを詳らかに報告せよ、と言っている」
「面目ありません。ただ」
「ただ?」おっさんが片眉を上げる。
「いえ、なんでもありません」
「そうか。なら何も問題ないな」キーボード上に置かれた指が流れるような動きで左下のキーに向かった。それを見た兄が一瞬で顔色を変え、すかさず身を乗り出そうとする。おっさんが吠えた。兄が項垂れる。水面下で繰り広げられている戦いは、最終的に兄の挙動を片手で制することで終結を迎える。
「またつまらんものを飛ばしてしまったな」おっさんは力強い調子で断言した。
一応念のため状況をおさらいすると、ここは兄の住むアパートで、内装からして防音設備が整っているようには見えず、他の住人が出す物音さえも微かに聞こえるくらいの筒抜けぶりである。正直な話、俺が階下の住人だったら壁を殴る程度には騒音だ。
「このように、共通ルートなど飛ばしても何ら問題がないのだよ。どうせキサマの人生など共通ルートで終わっているようなものだろう。ならば、さっさと個別ルートでちゅっちゅするほうが幾分か合理的ではないかね」
「お言葉ですが、そこに至るまでのカタルシスを味わいたいというか、人それぞれの楽しみ方があるかと思うのです。お願いですから、指を」
兄が必死に陳情する間にも、コントロールキーは押下され続け、画面と音がチャップリンよろしく目まぐるしく切り替わっている。
「どのみち、キサマの左手のポジションは変わらんだろう。自分の左手によく聞いてみたまえよ」
「――――」
兄の目が驚愕に見開かれる。ただの下ネタで天啓を得たような顔をするなよ兄貴。
「さて準備が整ったぞ。待たせたな若者よ。これより、真なる宴の始まりを盛大に祝そうではないか」
「ひとつだけ確認してもいいか」
「どうした怖気づいたのか、若者よ。さあ、恥ずかしがることなく性の悩みから性の悩みまで何でもおじさんに相談したまえ」
「『聖夜を彩る真実の愛』とやらはいつ教えてくれるんだ」
まったく期待してないし、どうだっていいが、さっさと話すだけ話したら可及的速やかに退場してもらいたい。あるいは酔い潰れたところを見計らって外に放置してくるか。
「そんなに知りたいだなんて、ゆうちゃんの……えっち」
「うるさい黙れ」
「めんごめんご」
前言撤回。とりあえず一発殴らせろ。
おっさんは俺たちを手招きすると(一度は拒否したが引き摺られた)、パソコンの前に座らせた。画面を取り囲むようにむさくるしい顔が集結している。おっさんがエンターキーを勢いよく叩いた。
時は過ぎること、ウン時間。
そうだ、青木ヶ原へ逝こう。
「どうだったかね。私のエモーショナルな実況朗読プレイは」
「見事なお手前でした。途中から我を忘れて聞き入ってしまいました」
「そう誉めるな、何も出んぞ。時に、ゆうちゃんは途中から寝落ちしていたようだが」
「悠輔にはまだ早かったようですね」
「まあいい。これからじっくりと深遠に誘っていこうではないか。幸いにして、夜は、まだ長い」
「あんたら、人が黙ってるからって言いたい放題だな」
「悠輔むくりなう」
「おっきなう」
「実況すんなっ」
もうやだこの空間。どうして、半ば強制的にエロゲー朗読鑑賞会に付き合わされた挙句、こんなげんなりした気分にならなきゃならないんだ。理不尽すぎるぜ世界。こんなことなら独りで明○家サンタでも見ていたほうがよほどマシだったな。
「愛には様々な形がある」
グラスの残りを傾けると、おっさんが静かに語り始めた。皺の刻まれた目尻や口元、小さく丸めた背中には、年相応の寂寞感が少しだけ宿っているような気がした。どうでもいいが、堂々と胡坐をかいているせいでブリーフ的なサムシングが見え隠れしていて、いい話っぽいのに全く締まらないのは秘密だ。
「一途な愛、相思相愛、親愛、家族愛、偶像崇拝、禁断の愛、略奪愛。どれも等しく愛の姿ではないかね。目には見えないが、そこには確かに思いが息づいている。それはどんなに小さなことでもいい。たとえどんな小さなことでも伝えることに、今日という良き機会があることに、大きな意味があると私は思う。愛なしには、人は生きられないのだ」
おっさんは遠い目をしていた。つられて窓の外を見ると、白い粉状の粒たちがちらほらと窓を過ぎっていた。雪、か。遠くから、かすかに楽しげな音楽が鳴っていた。
兄はノートパソコンを片付けると、飲むか、と冷蔵庫にあったジュースを取り出して、簡単なカクテルを作り始めた。慣れない手つきだったが、物珍しかったのでしばらく眺めていた。兄貴、ゲーム以外にも趣味あったんだな。
「ただし、妻には逃げられたがね。あの腐れビ○チめ、のこのこと帰って来ようものならひぃひぃ言わせて後悔させてやるからな」
何かいろいろと台無しだ!?
「おっと、電話か。はい、こちら淫乱サン――なに、世界が滅亡する……だと? どうやら“教団”が本気を出してきたようだな。固有能力を持てる者の悩みは尽きぬものだ。そうか、わかった。うむ、待っているとも。ラ・ヨダソウ・スティアーナ」
おっさんは携帯をスカートにしまうと、いそいそと立ち上がり、うさ耳を装備し、袋を背負った。一切合切のツッコミどころはこの際スルーしよう。
「どうやら私は行かねばならんようだ。まだまだ語りたいこともあったのだが、時は待ってくれないようだ」
「いえ、短い間でしたが多くのことを学ばせていただきました。寝取られの極意、魂に刻ませていただきます!」
「ああ、次はふたなりだ……」
兄が直立不動で敬礼のポーズを取った。おっさんは兄と固い握手を交わす。流れで俺にも求めてきたが無視だ無視。だからそんな変態衣装のままで気落ちした表情を見せるな気色悪い。
「そういえば、プレゼントを渡しそびれていたな」
不意に呼び鈴が鳴った。
「来たか。届いたプレゼントは煮るなり焼くなり捨てるなり風呂に沈めるなり好きにしてくれたまえ。扱いに困ったら私まで連絡をしてくれればいい」
おっさんは早口でまくしたてると名刺を俺に押し付けた。俺は落としそうになりながらも慌てて受け取る。チャイムがもう一度鳴ったあとに、何度か控えめなノック音が続く。兄が鍵を開けようとすると、おっさんがそれを制止した。口元に人差し指を当て、目配せをする。
「一、ニの三で開けるぞ。一、二の……」
三!
錠を回すと、おっさんは素早くすり抜けるように飛び出して、扉の前に立っていた人間大の何かをこちら側に無理やり押し込んだ。ちなみにその際、可愛らしい悲鳴が響いたような気がする。まさかとは思うが誘拐じゃないだろうな。
扉が閉まると、俺たちは可愛らしい悲鳴を上げた張本人――少女と鉢合わせになる。少女は必死にノブを回そうとするが、外からおっさんが押さえつけているのか、びくとも動かない。しばし原始的な攻防戦を続けた後、彼女は諦めたのか大きく肩を落とし、深い溜息をつくと、こちら側に向き直り、傍目にもわかるほどに顔を赤らめて俯いた。ダウンジャケットの擦れる音がやけに大きく感じた。
「ほんとうに、すみません。父が、ご迷惑をおかけしてしまって」
「父というのは」
俺は思わず問い返す。彼女は申し訳なさそうに身を縮めると、消え入りそうな声で、さっきの恥ずかしい人です、と扉の向こうを指差した。
あの不審者に、娘なんていたのか。見たところ、俺よりも少し年下だろうか。少女は意を決したかのように顔を上げると、事の顛末をとつとつと話し始めた。
簡単にまとめると、今晩、一人娘が友達の家に泊まるということをあのおっさんが盛大に勘違いして、あんな謎の暴挙に出たようだ。何故そこから女装する心境に至ったのか動機が不明すぎるが、どうせろくな理由でないことだけは確かだろう。このアパート以外にも何件か目撃情報があったようだが、よく捕まらなかったものだと呆れるとともに感心してしまう。真実とは、いざ耳にしてしまうと存外呆気ないものである。要するにあのおっさんは相当な娘馬鹿で、俺たちはとんだ巻き添えを食らったってことだ。好きの反対はうんたらかんたら。
少女は、勝手に押し入って申し訳ありませんでした、と何度も丁重に頭を下げると、お父さんにはよく言って聞かせておきます、と言い残して小走りに帰っていった。おっさんはすでに逃走済みのようだった。彼女がいなくなると、室内は一気に静まりかえった。
「なんというか、どっと疲れたな」
コタツに潜りこんで横になると、急激に眠気が襲ってきた。
「そうだな」兄はそれだけを言うと、洗面所に向かっていった。俺もシャワーを浴びて寝るか。
身を切るような寒さで目が覚めた。体を起こそうとすると、膝が硬い何かにぶつかる。そうか、昨日はあのまま寝てしまったのか。
薄手のカーテン越しに窓の外を見ると、一面が眩いほど白く染まっていた。雪解け水が雨樋を伝う音が時折聞こえてくる。兄はまだ眠っていたので、音を立てないよう注意して外に出てみると、うっすらと雪が積もっていた。しばし、新雪の感触と、別世界のような町並みを楽しんでから部屋に戻る。戻ろうとすると、玄関先に小さな白い箱が置いてあることに気づいた。
宛名には名字だけが書かれていたが、兄宛ての配達物だと判断して部屋に持ち帰る。意外と軽い。
「早いな、悠輔」
寝ぼけ眼を擦りながら兄が起き出した。時計を見ると時刻は七時過ぎだった。
「外、積もってた。それとこれ、届いてた」
そう言って箱を差し出すと、兄は首を捻って怪訝な顔をした。兄弟揃って箱の前で首を傾げること、しばし。とにかく開けてみよう、という鶴の一声で中をあらためることにする。
「なんだこれ」
そこには半分に切り分けられたキャロットケーキが入っていた。表面には少し焦げ目が付いていたが、それが何とも手作り感を醸し出している。ケーキの横には折り畳まれたメモが添えられていた。開いてみると、そこには手書きで、
──昨日は父がご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。これは色々試しながら作った中のひとつですが、もしよければお二人で召し上がってください。メリークリスマス、です。
あのおっさんの娘とはとても思えないほど、細やかな気の配りようだ。遊び心なのか、ソリを引いて走るトナカイのイラスト付きだ。
折角のいただきものなので、コーヒーを淹れてから、早速食べることにした。すっきりとした甘味が口に広がる。素朴な味だが、何故だか心の奥深くまでじわりと温かくなった。
たまには、こんなクリスマスも悪くないかもしれないな。
「まだ何か入ってるぞ」
兄が箱の底からもう一枚メモを発見した。丸文字とはほど遠い、無骨な筆跡だった。
──良い子の諸君、愛娘お手製のケーキはお楽しみかね。さぞ、一時の幸福感に酔い痴れたことだろう。ところで、どうしてケーキが半分しかなかったのか理由を知りたくはないかね? 知りたいだろう。それはな、
「兄貴、なんで泣いてるんだよ」メモを手にした兄の手が震えていた。兄は唇をわななかせると、拳を握り締め、
「これが……寝取られの極意なのか……。ああ、俺は何かに目醒めてしまいそうだ。クッ、三次なんて、現実なんて、糞ゲーだッ──!!」吠えた。
──キサマらのような青臭いアスホールどもが娘のはじめてを独占するなどおこがましいと思わんかね。わかったらとっととお下がりケーキをありがたく舐め取る作業に戻るがいい。クソッタレなクリスマスに乾杯!
あのおっさん、今度会ったらしばく。もう二度と会いたくはないがな。
そいつは唐突に現れて、俺たちにトラウマと、一人娘の手作りケーキ(食べかけ)を残していった。
女装サンタのおっさんを見かけたら、絶対関わり合いになってはいけないことは、直感以前に自明だということを、ここに教訓として書き残しておく。