「婚礼のドレスは彼女に譲れ」と言われたので、仕立屋さんに鋏を借りました
「婚礼のドレスは彼女に譲れ。君にはもう必要ないだろう」
白い絹の裾を直してもらっているところへ、婚約者が女の人を連れてやってきた。
リュシアンの腕には、その人の手が絡んでいる。二人が並んで立つ姿を鏡越しに見ても、私はすぐに意味が分からなかった。さっきまで母と、当日は髪に何を飾ろうかと話していたのだ。
「……私たち、二週間後に結婚するのよね」
「その話は取りやめたい。ロザンヌを愛しているんだ。君には悪いが、気持ちに嘘はつけない」
彼の隣で、薄紅色のドレスの人が目を伏せた。顔は知っている。春の茶会で私が婚約指輪を見せたとき、よくお似合いだと言ってくれた人だった。
母が椅子から立ち上がると、リュシアンはその顔を見る前に言葉を継いだ。
「父には今朝伝えました。そちらへも近いうちに連絡が行くはずです。それで、衣装のことなのですが」
母の返事を待たず、彼はこちらに視線を戻した。
「僕らもできるだけ早く式を挙げたい。この店で今から注文しては、何か月も先になると言われてね。今朝の君の手紙を見て、ちょうどいいと思ったんだ。君のものを直してもらえば間に合うだろう」
私の足元にしゃがんでいた店員のミナさんが、手を止めた。裾に触れていた指を、そっと離す。
肩を覆うレースも、腰から広がる白い絹も、冬から少しずつ相談して決めた。長く引く裾の縁には、蔦の刺繍が入っている。新緑の季節に結婚するからと、私が選んだ模様だ。
そのドレスを着たまま、私は彼の次の結婚の支度を聞いていた。
「肩はもう少し開けられますか?」
ロザンヌが、奥の作業台にいた店主へ尋ねた。
「私には、こちらの方より少し窮屈そうですし。胸元の飾りも、もう少し華やかな方が……」
「この衣装については、オディール様からご注文をいただいております」
ジュールさんは手にしていた針を針山へ戻すと、こちらへ来た。いつも服の相談をするときと同じ、落ち着いた声だった。
「お直しのご希望は、ご本人から伺います」
「だから、その本人がもう着ないんだ。譲ってもらえば済む話だろう」
リュシアンは困ったように笑った。私にも笑って話を合わせてほしいときの顔だ。
夜会で私を置き去りにしたときも、約束の日を忘れていたときも、その顔をされた。最初の頃には、私が人に囲まれて困っていると、すぐに迎えに来てくれたのに。
去年の雨の日、馬車へ戻る私の肩に自分の上着を掛けてくれた。濡れてしまうと言ったら、君が風邪をひく方が困る、と笑った。あの顔を思い出すだけで嬉しかったから、待たされることが増えても、また元に戻ると思っていた。
「譲りません」
言ってから、自分の唇が冷たくなっていることに気づいた。
リュシアンはようやく、私をまともに見た。
「意地を張るな。しまっておいたって仕方がないだろう」
「あなたの結婚式に、私のドレスを着せるつもりなの?」
「その言い方はよしてくれ。大切な品だからこそ、使う人に渡した方が――」
「大切だと分かっているなら、欲しがらないで」
最後だけ、声が大きくなった。鏡の中の花嫁は、顔を真っ赤にしていた。
綺麗に別れようなどとは、とても思えなかった。私がどれほど今日を楽しみにしていたか、この人は知っている。今朝送った手紙にも、完成が近づいて嬉しい、あなたに見てほしいと書いた。
その手紙を読んで、ここへ来たのだ。
「お代のことでしたら、私の家からお返ししても構いません」
ロザンヌが言った。私の怒りを、値段の相談だと思ったらしい。
母が私の隣まで来て、片手を背中に添えた。
「代金は、娘が祖母から贈られたお祝いで支払いました。リュシアン様にお譲り先を決めていただく品ではありません」
「それは承知しています。ただ、こちらに残っても思い出すだけお辛いのでは、と」
ロザンヌの声が小さくなった。
辛い。とても辛い。それを今、あなたに気遣われたくない。
足元を見下ろすと、白い蔦が光っていた。何度も見本を描いてもらった葉の形。窓にかざして決めた、少しだけ艶のある絹。私はこの服を着たかった。リュシアンの隣で、みんなに見てもらいたかった。
彼の隣にはもう立たない。それでも、私が選んだものまで、あの人の胸に抱かせて帰したくなかった。
「ミナさん。着替えを手伝っていただけますか」
母の手が、背中から離れた。
ミナさんはすぐにうなずき、床に広がった裾を持ち上げてくれた。奥の試着室へ入ると、仕切りの向こうでリュシアンの声がした。
「分かってくれたんだね。ロザンヌ、次は君の寸法を見てもらおう」
私は返事をせず、背中の留め具を外してもらった。
ドレスから腕を抜くとき、指がレースに引っかかった。慌てて引こうとした手を、ミナさんがそっと止める。彼女が絡んだところを外してくれる間、唇を噛んでいた。ここで泣いたら、着替えられなくなりそうだった。
「ドレスを、作業台に広げてください。裾がよく見えるように」
来たときの若草色の服に戻り、私はミナさんに頼んだ。
店へ戻ると、母がリュシアンたちを入り口側に留めていた。母の顔を見るのが怖かったけれど、目が合うと、黙ってうなずいてくれた。
ジュールさんが台の上を片づけ、ミナさんと二人で白い衣装を広げる。長い裾が台から落ちないよう、奥へ畳まれた。
「ジュールさん、鋏を貸してください」
リュシアンの笑顔が消えた。ジュールさんはすぐに鋏を渡さず、台の向こうから私を見た。
「どのようになさいますか」
「後ろを、歩ける長さにしたいんです。外へ着ていけるように。……全部、駄目にしたいわけではないので」
最後のところで、少し声が詰まった。
ジュールさんは広げた裾へ視線を落とし、縁の刺繍を指でたどった。
「でしたら、こちらの高さで。刺繍の縁は外して、短くした裾へ付け直せます。仕上げには十日ほどいただきますが」
彼が白墨で短い線を引いた。
足首を出すような長さではない。床に引きずる部分を減らし、私が一人で歩ける服にする。その線を見て、ようやく息が吸えた。
「お願いします。最初だけ、自分で切ってもいいですか」
「ええ。刃を閉じるとき、布を持つ手はこちら側に。私が向こうを押さえます」
持ち手をこちらへ向けて、鋏が差し出された。
受け取ると、思っていたより重かった。指を通し直す私に、リュシアンが近づいた。
「待て、何を考えている。そんなことをしたら、婚礼に使えなくなるぞ」
「私は着ませんから」
「君が着ないなら、ロザンヌに渡せばいいだろう! わざわざ切るなんて、彼女への嫌がらせか」
ジュールさんが布から手を離し、私と彼の間へ半歩入った。
「刃物をお持ちです。作業台から離れてください」
低い声だった。リュシアンが足を止めると、私は鋏を台に置いた。手が震えている。今のまま動かせば、切りたいところから外れそうだった。
「あなたたちに渡したくないのは、本当よ」
彼の目を見て言った。母が何か言おうとしたけれど、私はその前に続けた。
「結婚をやめると言いに来て、私の服まで欲しがらないで。あなたを好きだった私に、新しい花嫁の支度をさせないで」
リュシアンは口を開いたまま、黙った。
言葉にすると、自分がどんなに惨めだったか、よく分かった。彼が他の人を好きになったと聞くことさえ苦しいのに、役目を終えたように扱われて、笑って品物を差し出せるはずがなかった。
「私は、このドレスを着たかったの。だから、私が着られる服に直します」
ジュールさんの方を見ると、彼は切る位置をもう一度示し、布を押さえた。
私は鋏を持ち直した。絹を刃の間へ入れ、少しだけ閉じる。しゃき、と乾いた音がして、白い布に切れ目ができた。
たった指二本ほどだった。それでも、入れるまではあんなに怖かった切れ目が、自分の手で開いた。
「あっ……」
ロザンヌが声を漏らした。リュシアンは切れた布を見て、それから私を見た。止めれば私が従うと、まだ思っていたのかもしれない。
「オディール。まだ間に合う。金なら払うから、そのままで――」
「売りません。貸しません。差し上げません」
今度は詰まらずに言えた。
私は鋏をジュールさんへ返し、左手の指輪を抜いた。関節のところで少し引っかかったけれど、外れたら掌の中で小さかった。
「これだけ、お返しします。結婚の話は両親を通してください。あなたと二人で話すことは、もうありません」
差し出した手を、彼はすぐには受けなかった。仕方がないので、指輪を台の端に置いた。彼はそれを見下ろしていたが、母が帰るように告げると、ようやく拾った。
「リュシアン様、あのドレスを譲っていただけるって、おっしゃったでしょう」
ロザンヌが彼の袖を引いた。
「あとで話そう」
「でも、ほかのお店にも断られて……。私、あの長い裾が綺麗だと言ったのに」
彼は何かを言いかけ、母とジュールさんに見られていることに気づいたらしかった。赤くなった顔でロザンヌを促し、扉へ向かった。
鈴が鳴って、扉が閉まる。二人の声が通りへ遠ざかってから、膝に力が入らなくなった。
母が抱き留めてくれた。
「……お母様。私、あの人と結婚したかった」
言うつもりのなかった言葉が出た。たった今、あれほど怒って追い返したのに、母の肩へ顔を押しつけたら、涙が止まらなかった。
「楽しみにしていたの。馬鹿みたいに、毎日」
「知っているわ。馬鹿ではないわよ。あなたは、楽しみにしていてよかったの」
母は私の背中を撫でた。私は泣きながら、若草色の袖で目を拭こうとして叱られた。渡されたハンカチに鼻を埋めると、余計に子供のような泣き方になった。
ジュールさんは椅子と水を用意してくれたが、励ましの言葉を重ねたりはしなかった。私が座って落ち着くまで待ち、それから衣装をこのまま預かってよいかと尋ねた。
「お願いします。あと……腰の飾りを、青にしたいです」
彼が顔を上げた。
「最初にご覧になっていた、あの青でしょうか」
「覚えていらっしゃるんですか」
「色見本に、お名前を付けて残してあります。白で決められたあとも、ずっとご覧になっていたので」
リュシアンは、花嫁なら白一色がいいと言った。青を選んだら似合わないと思われるのかと、不安になって引っ込めた希望だった。
ジュールさんが棚から出してくれた細い絹は、晴れた日の空よりも少し濃い。白い衣装に当てられると、泣いて腫れた目にも、はっとするほど綺麗だった。
「これがいいです。大きな結び目を作ったら、おかしいでしょうか」
「お好きな大きさを、次にいくつか試してみましょう。私なら、少し横へ寄せます」
仮に形を作ってみせてくれた手元を、私は母と一緒に覗き込んだ。
涙はまだ止まりきらなかったけれど、青い飾りに触れたかった。
* * *
婚約は、五日後に正式に解消された。
リュシアンの両親から謝罪の手紙が届き、招待客への知らせや贈り物の返却は、父と母が引き受けてくれた。私が彼に会う必要はなかった。
それでも朝起きると、昨日の出来事を彼に話そうと思うことがあった。便箋を出してから、もう書かなくていいのだと思い出す。嬉しい知らせを一番に伝える相手がいなくなったことは、腹を立てるのとは違う辛さだった。
母と婚礼用の手袋を片づけた日は、半日泣いた。翌日は腹が立って、彼からの手紙を全部、箱へ放り込んだ。
何も知らない頃の私が書き留めた、式で流してほしい曲の名前まで見つかった。彼は何でもいいと言ったから、二人のために私が選んだものだ。紙を丸めかけて、やめた。その曲まで嫌いになったわけではなかった。
あの仮縫いから十日後、仕立屋から衣装ができたと知らせが来たときには、早く見たいと思った。
鏡の前で着替えを終えると、ミナさんが青い飾りを腰に結んでくれた。白い蔦は、短くなった裾の縁をぐるりと回っている。元の長さを知らなければ、初めからこういう服だったと思うだろう。
「少し歩いてみてください。後ろを持たずに」
ジュールさんに言われ、私は窓のところまで歩いた。絹が脚に沿って揺れる。振り返っても、床に長い尾を残さない。
もう一度、今度は少し速く歩いた。ミナさんが笑うので、私も笑った。
「すごい。裾を踏みそうになりません」
「できれば、元のドレスでも踏まないでいただきたかったですが」
ジュールさんが真面目な顔で言ったので、つい吹き出した。彼も口元を緩める。
婚礼の仮縫いでは、一歩ごとに裾を気にしていた。リュシアンに粗忽だと言われないように、背筋を伸ばして、いつもよりずっとゆっくり動いていたのだ。
今は鏡へ戻りたくて、普通に歩けた。
「腰の飾りは、こちらでよろしいですか。もう少し小さくすることもできます」
「このままが好きです。ジュールさんは?」
「私も、その大きさがいいと思います。ですが、結び目はあと少し右へ」
彼が場所を示すと、ミナさんが直してくれた。横へ流れた青い絹の先が、白い蔦のそばで揺れた。
「ああ、こちらの方が好き」
口に出すと、ずいぶん簡単なことだった。誰かの顔を見てから決めなくても、私は好きな方が分かる。
鏡から目を離すと、ジュールさんが私を見ていた。衣装を点検する目とは少し違う気がして、急に自分の耳が熱くなった。
「……よくお似合いです」
いつもの滑らかな説明に比べて、短い言い方だった。
私は鏡へ目を戻した。さっきまで何度も眺めていた服を、もう一度よく見るふりをした。
着替えて仕立て直しの代金を支払い、包まれた衣装を受け取ると、母は先に馬車へ乗った。私は店に残り、改めて礼を言った。
「先日は、お騒がせしました。あのあと、仕事にならなかったでしょう」
「いえ。切ったところから先を、どのように直すか決まっていましたので」
「私が、ずっと泣いていたから」
ジュールさんは少し考えてから、台の端へ視線を向けた。
「結び目をどれくらい大きくするか、最後には随分熱心にお話しでしたよ。私が作ったものでは小さいと、二度ほど」
そんなに言っただろうか。言った気もする。泣いていた自分のことばかり覚えていて、そこは曖昧だった。
彼が小さな結び目を指で作る真似をするので、私は笑ってしまった。
「だって、せっかく青にするんですもの。遠くからでも見えるようにしたくて」
「ええ。今の大きさにしてよかったと思います」
話はそれで済んだ。気にしなくていいと何度も言われるより、楽だった。
扉へ向かいかけて、壁の暦が目に入った。日曜日に印がある。店の休みだと、以前ミナさんから聞いていた。
「あの、ジュールさん。日曜日は、何かご予定がありますか」
彼の手が、台の上で止まった。
「次の日曜でしたら、特には」
「川沿いで、小さな演奏会があるんです。母と行くのですけれど、よかったら……ご一緒しませんか」
なぜ誘ったのかと聞かれたら、困ったかもしれない。まだ好きだと胸を張って言えるほどの気持ちではなかった。ただ、この人ともう少し話してみたかった。服を頼む理由がなくなったら会えなくなるのが、残念だった。
彼は一瞬、奥の作業場を見た。
「土曜日でしたら納品があるので難しいですが、日曜日なら伺えます。ただ、私は音楽に詳しくありません」
「私も、好きな曲を聴くだけです。楽器の名前を試験に出したりしません」
言ってから、誘う相手に何を言っているのだろうと焦った。けれど彼は笑った。
「それなら安心です。ぜひ、ご一緒させてください」
馬車へ戻ると、母は私の顔を見て、何も聞かずに少し場所を空けた。私は隣に座り、衣装の包みを膝に載せた。
「日曜日、ジュールさんも来てくださるそうです」
「そう。では、お席を一つ多く取っておきましょうね」
「……まだ、結婚の相手を探したいわけではないの」
自分で誘っておいて、母には言い訳のようなことを言った。
母は私の膝の上の包みが落ちないよう、端を押さえた。
「日曜日に音楽を聴くのでしょう。それでいいじゃない」
* * *
店の外のジュールさんは、髪が少し跳ねていた。
いつもは綺麗に撫でつけられている前髪が、風で額に掛かっている。店で着ている上着より柔らかそうな茶色の服に、紺の襟布。背が高いのは知っていたけれど、作業台が間にないと、目を合わせるのに少し顔を上げる必要があった。
「おはようございます。待たせてしまいましたか」
「いいえ。私たちも今、着いたところです」
今日は仕立て直したドレスを着てきた。ジュールさんの目が青い飾りへ下がり、それから私の顔に戻る。何か言いかけた彼が母に挨拶をしたので、私は聞けなかった言葉が気になった。
演奏会は川沿いの広場で開かれていた。椅子が並び、端には食べ物の屋台が出ている。母は知り合いの夫人を見つけ、広場に面した茶店から一緒に聴くことにしたらしい。私たちには、二人で席を取っていらっしゃいと言い、夫人と腕を組んで茶店へ向かった。
「どこからでも聴こえますが、木陰がいいですね」
ジュールさんが二つ並んだ椅子を見つけ、私に日陰の方を勧めた。もう一つは半分ほど日に当たっている。眩しくないか尋ねると、普段は一日中店の中だから、少しくらい日を浴びたいとの返事だった。
私は座り、彼も隣へ腰を下ろした。最初の曲が始まると、彼は奏者の手元を熱心に見た。やがて私の方へ少し身を寄せ、小声で尋ねた。
「あの大きな弦楽器は、低い音の方ですか」
「そうです。左の、小さいものより低くて」
「なるほど。ずっと左の方を見ていました」
知っているふりをしない人なのだと思った。私も知らない曲では、隣の人が拍手するまで待ってしまうから、楽になった。
よく知っている曲が始まったときは、嬉しくて彼を見た。彼は私の顔を見て、それからまた奏者へ目を戻した。曲の途中だったので話はしなかったけれど、終わると、明るい曲が好きなのですかと聞かれた。
「ええ。でも、今のは最後のところが好きなんです。一度静かになってから、急に賑やかになるでしょう」
「もう終わると思いました。拍手をしかけたので、危なかった」
私が笑うと、彼は本当に困った顔をした。試験はないと言ったのに、これは不意打ちですね、と。
昼には母たちと合流し、屋台で昼食を選んだ。ジュールさんが赤い煮込みを見て迷わず列へ並んだので、私も同じものを頼もうとしたら、彼が振り返った。
「辛いものはお好きですか。ここのは、かなり辛いですよ」
「少しくらいなら」
「私の『少し』は、あまり信用なさらない方がいいかもしれません」
屋台の主人が笑った。どうやら常連らしい。
私は別の店で豆と鶏肉の煮込みを買った。ジュールさんは自分の皿を持って戻ると、こちらを見て一口分だけ分けましょうかと聞いた。好奇心に負けてうなずき、別の小皿にもらった赤い煮込みを食べた。
次の瞬間、水の杯を取った。
「辛いですか」
聞いたあとで、彼は失敗したという顔をした。答えは見れば分かるのだから、その顔が可笑しくて、辛いのに笑ってしまった。
「とても。でも、お肉は美味しいです」
「無理に召し上がらなくても」
「これは私が欲しがったんです。代わりに、そちらも豆をどうぞ。辛くありませんから」
彼は私の皿から取り分けた豆を食べて、こちらも美味しいですね、と言った。それから自分の皿へ戻り、あの真っ赤な煮込みを平然と食べ続けた。
母たちは香辛料の話をしていた。私は水を飲みながら、ジュールさんの横顔を見た。店で縫い目を確かめる顔とは違う。好きな食べ物を食べて、満足している人の顔だった。
もう少し知りたいと思った。休日に何をするのか、何を面白がるのか。私の前で、どんな顔で笑うのか。
帰りに川沿いを少し歩いたとき、向こう岸の礼拝堂から鐘が鳴った。白い花を持つ人たちが階段を降りてくる。その中の長いヴェールに、私はつい目を留めた。
ジュールさんも同じ方を見た。彼の歩く速さが少し緩んだので、気づかれたのだと分かった。
「まだ、悔しくなることがあるんです」
黙っているのが嫌で、私は言った。
「今日、楽しかったのに。あんなふうに歩くはずだったと思うと、急に腹が立って」
「……楽しみにされていましたものね」
彼は、忘れた方がいいとは言わなかった。そうですね、と何でも分かったようにも答えなかった。
川面へ目を戻すと、細かな光が揺れていた。私は欄干の手前で止まり、隣に立った彼へ向き直った。
「それでも、来てよかったです。今の曲も、煮込みも。ジュールさんと話せたのも」
「私もです。曲の終わり方は、今度から慎重に聞きます」
また笑ってしまった。彼は少し得意そうに、三曲目は自分で分かりました、と言った。
最初の一日が、その話で終わってくれて嬉しかった。
* * *
次に会えたのは、三週間後だった。
その間に一度誘った日は、ジュールさんの店で急な直しが入った。彼から届いた返事には、断る詫びと一緒に、次ならこの日が空いていると書かれていた。
私はその日を手帳に記した。会えない理由ばかりが続いていた頃とは違い、楽しみにする日がちゃんとあった。
二度目は母と三人で昼食を食べ、三度目は私たちが散歩する間、母は近くの友人宅へ寄った。
ジュールさんは甘い菓子が苦手なわけではなかったが、私が一番好きな砂糖菓子を食べたときには、長いこと黙ってお茶を飲んだ。感想を聞くと、とても甘かったです、と正直に言った。
その次には、彼がおすすめの胡桃の焼き菓子を持ってきた。私も好きになったので、砂糖菓子ばかり買わなくなった。彼は私に合わせて辛い料理をやめたりせず、私は味見をしたいと毎回ねだったりしなかった。
仕立屋での仕事の話も聞いた。服を仕立てるのは好きなのに、自分の弟の採寸だけは苦手なのだそうだ。何度言っても、腹を引っ込めるから。
私が笑うと、本人は気づかれていないつもりなのです、と彼は眉を寄せた。その顔で、きっと何度も弟さんを叱ってきたのだろう。私はその場にいるように想像できた。
店に寄ることもあったが、用がないのに仕事を止めてもらうのは嫌だった。会う約束をしていない日は、通りの窓から挨拶をするだけにした。
一度、雨の日に彼が外まで出てきて、次の日曜日はどうですかと尋ねてくれたことがある。私がうなずくと、彼はほっとしたように笑った。肩が濡れ始めているのに気づき、早く中へと追い返したあと、私は傘を少し低く持った。道で一人、にやにやしている顔を見られたくなかった。
その頃には、元の結婚式の日はとっくに過ぎていた。
たまに嫌な記憶が浮かんでも、ジュールさんと別れて帰る道では、今日いちばん可笑しかった話を思い返していた。次はあれを話そうと思って、忘れないように手帳に書くこともあった。
母は、私がその手帳を食卓にまで持ち込んだ日に、彼のことが好きなのね、と言った。
「ええ。……好きです」
否定しようとして、できなかった。母の前で言うのは照れくさかったけれど、認めてしまうと嬉しくなった。
「お母様は、どう思いますか。お店の方ですけれど」
「きちんと仕事をして、自分の言葉で話す方ね。お父様も、一度食事にお招きしたいと言っているわ」
私は匙を置いた。
この国で、貴族と町の人との結婚が禁じられているわけではない。それでも、家の名を持つ以上、両親にどう話そうかとは考えていた。
「でも、まだ、そういうお約束はしていないんです」
「それでは、お父様にはもう少し待っていただきましょう。まず、あなたが彼と話さないと」
母は落ち着いてお茶を飲んだ。先回りして縁談を整えるつもりがないと分かって、私はようやく匙を持ち直した。
その夜に書いた手紙は、三度書き直した。結局、いつものように日曜日のお誘いをして、最後に、二人で少しお話ししたいことがあります、と付け足した。
* * *
ドレスに鋏を入れた日から、二か月余りが過ぎていた。
夏が近づき、川沿いの木陰が濃くなった。母はまた、広場の茶店で知人と会っている。私たちは手紙で約束した橋のたもとへ来た。
ジュールさんは、いつもより口数が少なかった。お話というのは、と尋ねかけてやめるのを見て、こちらまで緊張が増してしまった。
「今日は、あの服なのですね」
ようやく彼が言った。
私は青い腰飾りへ目を落とした。外へ着ていくたびに、ミナさんに教わったとおり、少し右へ寄せて結んでいる。
「ええ。好きな服なので」
「気に入っていただけて、よかったです」
そこでまた、会話が途切れた。
ここへ来るまでは、もっと自然に言える気がしていた。ところが彼の顔を見ると、頭の中で考えていた言葉が全部、よそよそしく思えた。
私は両手を前で重ね、指をぎゅっと握った。
「ジュールさん。私、もう、お礼のつもりでお誘いしているのではないんです」
彼がこちらを見た。
「最初は、それもありました。でも今は、あなたと会いたくて。好きなものを一緒に食べたり、次の日曜日を約束したりするのが、すごく嬉しいんです」
途中で息を吸った。ジュールさんは、何も言わずに待っている。以前、私が泣きやむのを待ってくれた人が、今は私の告白を聞いている。そのことが急に恥ずかしくなった。
「あなたが好きです。できれば、お客様やお友達としてではなく……恋人として、会っていただきたいです」
言い終わると、彼が口元に手を当てた。
どうして黙るのだろう。迷惑だっただろうか。胸が冷えかけたところで、彼が大きく息を吐いた。
「すみません。嬉しくて、返事を忘れました」
指の間から、笑っている口元が見えた。彼は手を下ろし、困ったように眉を寄せた。
「私から、お伝えするつもりでした。けれど、お気持ちがまだ辛いところに、余計なことを言ってはと……」
「辛いことは、あります。でも、それであなたを好きな気持ちがなくなるわけではありません」
つい早口になった。自分でも驚くほど、はっきり言いたかった。
ジュールさんはうなずき、私の方へ身体を向けた。
「オディール様が好きです。お店で服を選んでくださるときも、曲が始まって嬉しそうになさるときも。私の知らないことを、隣で面白そうに話してくださるのが好きです」
彼が少し笑った。
「雨の日、お誘いに出たときは、仕事場から弟に追い出されました。窓の外ばかり見ていないで、行ってこいと」
あの日の、少し濡れた肩を思い出した。
私だけが会いたかったのではなかった。そのことが嬉しくて、顔が熱くなって、笑おうとしたら変な声が出た。
「教えてくださったら、傘に入れたのに」
「今度は、お願いします」
ジュールさんが手を差し出した。私は握っていた指をほどき、その手を取った。
何度も布を押さえるところを見た手だった。掌は温かくて、指先は少し硬い。握り返されると、胸の奥が落ち着かなくなり、もう一度彼の顔を見た。
「それから、二人のときは、様を付けないで呼んでほしいです」
「……オディール」
言い慣れないせいか、少し慎重な声になった。私はうなずいた。嬉しくて、もう一度呼んでほしかったけれど、それは欲張りすぎる気がした。
「私も、ジュールと呼んでいい?」
「ええ。ぜひ」
彼が笑って、つないだ手を少し持ち上げた。私はその手を引き寄せ、自分から一歩近づいた。
「口づけしても、いいですか」
低い声で尋ねられて、うなずいた。目を閉じると、唇がそっと触れた。すぐに離れたので、私は思わず彼の上着をつかんだ。
ジュールが目を丸くする。私も、自分の手に驚いた。
「……もう少し、一緒にいたくて」
「まだ、お送りしますよ。帰すのは、もう少しあとです」
彼が私の額へ軽く口づけた。私は上着を離し、もう一度手をつないだ。茶店へ戻ったら、母にはきっと全部分かってしまう。それでも今は、この顔を隠したくなかった。
「次の日曜日、朝市に行きませんか。胡桃のお菓子のお店に、焼き林檎もあるって聞いたんです」
「行きましょう。ただ、私はそのあと、辛いものも食べたいです」
「知っています。私は違うお店にしますから、同じ席で食べましょう」
ジュールが声を立てて笑った。私はその腕にそっと手を添え、並んで歩き出した。
白い裾が揺れ、青い結び目の先が跳ねた。このドレスには、もう何度も外出の約束がある。来週も、その次も、私が着たい日に着ていこう。
隣の恋人に歩幅を合わせてもらいながら、私は焼き林檎に添えるクリームを、二人分頼んでいいかと尋ねた。
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