私の名前を正しく呼べる方は、この宮廷にいらっしゃいますか?
「——フィアーネ嬢との婚約は、本日をもって破棄とする」
玉座の間に、カール・ヴェルナー侯爵子息の声が響いた。
周囲の貴族たちが息を呑む中、私は一つだけ、どうしても気になることがあった。
——フィアーネではなく、フィリーネです。
5年。
この婚約者は5年間、一度も私の名前を正しく呼ばなかった。フィアーネ、フィリーヌ、フェリーネ。月に一度は違う名前で呼ばれた。訂正するたびに「ああ、そうだったか」と言われ、翌月にはまた違う名前になった。
だから私は、訂正するのをやめた。
どうせ届かないのだから。
けれど——今日が最後なら。
「カール様」
静かに口を開くと、広間が一瞬しんとなった。婚約破棄を突きつけられた令嬢が泣き崩れるか、取り乱すか、皆がそれを待っていたのだろう。
「承知いたしました。ただ、一点だけ」
「……何だ」
「私の名前は、フィリーネでございます。5年間、一度もお伝えできなかったことが心残りでしたので」
カールが目を瞬かせた。周囲がざわめいた。
けれど私は、もうそれ以上何かを期待する気持ちがなかった。
「儀典補佐の引き継ぎ書類は、執務室の3段目に入れてございます。——どうぞお元気で」
深く一礼して、私は広間を出た。
涙は出なかった。
5年かけて、もう全部使い切ってしまっていたから。
◇
私が宮廷を去った翌日のことは、侍女のマルタから聞いた。
「大変なことになっております、フィリーネ様」
マルタは私の名前を間違えない。私が伯爵家に来た日から20年、ただの一度も。それがどれほど贅沢なことだったか、宮廷に出仕するまで分からなかった。
「来月の建国祭の席次が、誰にも組めないのだそうです」
「引き継ぎ書類に、過去5年分の席次表を全部入れておきましたけれど」
「それを見た後任の方が、『席次って、上の人から順番に並べればいいんですよね?』と仰ったそうで」
マルタが窓を開けた。
特に理由はなさそうだったが、何かを外に逃がしたかったのだろう。多分、怒りを。
「……それは、まあ、間違ってはいないのですが」
間違ってはいない。ただ、致命的に足りない。
席次とは、序列の順番に椅子を並べることではない。
今期の政治的距離、過去の外交摩擦、宗教上の禁忌、食事の制限、領地間の係争、婚姻関係の冷却度合い——それらを全部頭に入れた上で、「隣同士にしても事故が起きない組み合わせ」を作る作業だ。
たとえば、昨年マルドゥール辺境伯の領地問題で対立したヘルマン伯爵とグレーフェンベルク伯爵を隣席にすれば、晩餐会がそのまま領地裁判になる。ヴェルデン大使には豚肉を出してはならないし、南部三伯の席順を間違えれば一晩で同盟が一つ消える。
それを5年間、私一人でやっていた。
「フィリーネ様がいらした頃は、式典で事故が一度もなかったのですが」
「ええ、まあ——事故を起こさないのが仕事ですから、起きていない間は誰にも気づかれないのですけれど」
透明な仕事だった。
うまくいっている間は存在しないのと同じで、失敗したときだけ名前を呼ばれる——いえ、間違った名前で呼ばれる。
「それで、今どうなっているのですか?」
「建国祭の招待状を300通発送したところ、敬称の間違いが47通、家紋の取り違えが12通、そもそも宛名が存在しない方に送ったものが3通だそうです」
「……宛名が存在しない方?」
「8年前にお亡くなりになった伯爵に招待状を送ったそうです」
「それは——もはや降霊術の領域ですね」
笑い事ではないのだが、笑ってしまった。マルタも唇の端が震えていた。
◇
宮廷の混乱は、日を追うごとに広がっていった。
建国祭の席次が組めないだけではない。外交晩餐会の贈答品の格が合わない。各国大使への書簡の結びの敬語が統一されていない。式典の進行表に「適宜対応」としか書かれていない箇所が14カ所ある。
その「適宜対応」を全部やっていたのは私だった。
マルタが毎日のように報告を持ってきた。
「本日は、ヴェルデンの外交特使がお見えになったそうです」
「ヴィクトル公爵が?」
「ええ。建国祭の打ち合わせだったそうですが、席次表を見て、一言も発さずにお帰りになったと」
私の手が止まった。
ヴィクトル・レーヴェンシュタイン公爵。
ヴェルデン国の外交特使にして、私が——唯一、名前を正しく呼ばれた相手だ。
3年前の外交晩餐会。
私が初めて一人で席次を組んだ大規模式典だった。南部三伯の序列問題、ヴェルデンとの過去の摩擦、食事制限、すべてを織り込んで、72席を配置した。
晩餐会の後、彼が私のところに来た。
正確には、式典場の片隅で片付けをしていた私の前に、静かに立った。
「——席次を組んだのは、あなたですか」
驚いた。式典の裏方に声をかける外交官など見たことがなかった。
「はい。何か不備がございましたでしょうか」
「いいえ。南部三伯の配置が見事だった。グレーフェンベルク伯を窓際から離したのは、日差しを嫌う体質を知っていたからですね」
息が止まるかと思った。
あの配置の意図に気づいた人間は、この3年で彼だけだ。
「失礼、お名前を伺っても?」
「……フィリーネ・クラーフトと申します」
「フィリーネ嬢」
彼はそう言って、一度だけ頷いた。
正しい名前だった。正しい発音で、正しい抑揚で、迷いなく。
——ああ。
私の名前は、こういう音だったのか。
あの日から、彼が宮廷に来るたびに、私は少しだけ背筋が伸びた。彼がすれ違いざまに「フィリーネ嬢」と呼んでくれるから。たったそれだけのことが、あの宮廷で働き続けるための、小さな灯火だった。
その灯火を、もう手放したのだ。
◇
婚約破棄から10日後。
私は伯爵家の別邸で、静かに暮らし始めていた。
庭の手入れをして、読みかけの本を読んで、マルタの淹れてくれた茶を飲む。誰にも名前を間違えられない生活は穏やかで、けれど少しだけ寂しかった。
間違えられることすらなくなったのだ、と思った。
ある午後、マルタが珍しく慌てた様子で居間に来た。
「フィリーネ様。——お客様です」
「私に?」
「ヴェルデンのレーヴェンシュタイン公爵と名乗る方が、正門に馬車でいらしています」
「——え?」
なぜ。
なぜ彼がここに。
動揺する私を置いて、マルタが付け加えた。
「それと、お伝えしておきますが」
「何ですか」
「門番に『フィリーネ・クラーフト嬢にお取り次ぎ願いたい』と正確に仰いました。——合格です」
マルタが笑った。
20年の付き合いで、マルタが来客に笑顔を見せたのは、これが初めてだった。
◇
応接間に通したヴィクトル公爵は、3年前と変わらない静かな佇まいだった。
ただ、その手に一冊の書類綴じを持っていた。
「突然の訪問をお詫びします、フィリーネ嬢。ただ、どうしても直接お伝えしたいことがありました」
「……わざわざ国境を越えて、ですか」
「ええ」
彼はその書類綴じをテーブルに置いた。
「3年分の席次表の写しです。あなたが組んだもの全てに目を通しました」
私は言葉を失った。
席次表など、式典が終われば誰も見返さない。表方の華やかな記録だけが残り、裏方の配置図は書庫の奥に沈む。
「なぜ——そのようなものを」
「最初は、外交官として。あなたの席次には、公式発表されていない政治的判断が織り込まれていた。読めば読むほど、この国の宮廷情勢が分かった」
彼は一拍置いて、続けた。
「けれど、途中から理由が変わりました」
「……と、仰いますと」
「席次表の隅に、いつも小さな書き込みがあった。『グレーフェンベルク伯:窓際不可(眩しがり)』『ヘルマン伯:左耳が遠い(右側に話し相手を)』——配置の理由ではなく、人への配慮が書かれていた」
あれは——ただの備忘録だ。
自分が忘れないように書いていただけの、事務的なメモだ。
「フィリーネ嬢。あなたの仕事を探しに来たのではありません」
彼が立ち上がった。
真っ直ぐに、こちらを見た。
「あなたを探しに来ました」
心臓が一つ、大きく跳ねた。
「5年間、あの宮廷で、あなたの名前を正しく呼ぶ人間が一人もいなかったことを——私は、ずっと怒っていました」
声が震えた——彼の、ではない。私の。
「なぜ、怒るのですか。他人の、それも他国の、名前を間違えられているだけの女に」
「名前を間違えられているだけ、ではない」
彼の声は静かだった。けれど、揺るぎがなかった。
「あなたが透明にされていたのです。名前を呼ばれないということは、そこにいないのと同じだ。5年間、あの宮廷はあなたを消し続けていた」
視界が滲んだ。
泣かないと決めていた。5年分の涙はもう使い切ったと思っていた。けれど——
——正しく見えていた人がいた。
そのことが、何より痛かった。
「あなたの名前を呼ぶために、国境を一つ越えてきました」
彼が、右手を差し出した。
「フィリーネ嬢。——私の国で、正しい名前で生きてはくれませんか」
◇
建国祭は、大変なことになったらしい。
マルタの報告によれば、席次の混乱から始まり、ヴェルデン大使に豚肉の前菜を出し(外交問題になりかけた)、南部三伯の席順を間違え(翌日に抗議書が3通届いた)、招待状の家紋を取り違えた2家が式典中に口論を始めた(これは途中で止まった)。
カール・ヴェルナー侯爵子息は、儀典の最高責任者として全ての苦情を一身に受けたそうだ。
「あの地味な女がやっていた雑務」が、実は宮廷外交の生命線だったと気づいたのは、全てが壊れた後だった。
私は、その報告を聞きながら、少しだけ思った。
——席次って、上の人から順番に並べればいいんですよね?
違います。
でも、もう訂正してあげる義理はない。
◇
ヴェルデンに渡る日の朝。
ヴィクトルが迎えの馬車とともに持ってきたのは、一枚の席札だった。
「これは?」
「私の国の初夏の晩餐会の席札です。——あなたの席です」
手に取った。
白い厚紙に、金の箔押しで名前が刻まれていた。
——フィリーネ・クラーフト
正しい名前。
正しい綴り。
1文字の間違いもない。
「筆跡は——これ、ご自分でお書きになったのですか?」
「席札は儀典官の仕事ですが、あなたの分だけは、自分で書きたかった」
私は席札を胸に抱いた。
たかが紙切れだ。名前が書いてあるだけの、小さな紙切れ。
けれどこの5年間、私が一番欲しかったものが、ここにあった。
「……ヴィクトル様」
「はい」
「私の名前を、もう一度呼んでいただけますか」
彼が微笑んだ。
3年前の晩餐会と同じ声で、同じ正確さで——けれどあの時よりずっと柔らかく。
「フィリーネ」
敬称を落とした、ただの名前。
それが、こんなにも温かい。
「——はい」
涙が一粒だけ落ちた。
5年分は使い切ったと思っていたけれど、嬉し涙はまた別の場所に溜まっていたらしい。
マルタが馬車の扉を開けながら、小さく言った。
「フィリーネ様。——私以外にも、正しくお呼びする方ができて、ようやく安心いたしました」
春の陽が差す中、馬車が走り出した。
膝の上の席札を、私はずっと撫でていた。
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