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私の名前を正しく呼べる方は、この宮廷にいらっしゃいますか?

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/09

「——フィアーネ嬢との婚約は、本日をもって破棄とする」


 玉座の間に、カール・ヴェルナー侯爵子息の声が響いた。

 周囲の貴族たちが息を呑む中、私は一つだけ、どうしても気になることがあった。


 ——フィアーネではなく、フィリーネです。


 5年。

 この婚約者は5年間、一度も私の名前を正しく呼ばなかった。フィアーネ、フィリーヌ、フェリーネ。月に一度は違う名前で呼ばれた。訂正するたびに「ああ、そうだったか」と言われ、翌月にはまた違う名前になった。


 だから私は、訂正するのをやめた。

 どうせ届かないのだから。


 けれど——今日が最後なら。


「カール様」


 静かに口を開くと、広間が一瞬しんとなった。婚約破棄を突きつけられた令嬢が泣き崩れるか、取り乱すか、皆がそれを待っていたのだろう。


「承知いたしました。ただ、一点だけ」

「……何だ」

「私の名前は、フィリーネでございます。5年間、一度もお伝えできなかったことが心残りでしたので」


 カールが目を瞬かせた。周囲がざわめいた。

 けれど私は、もうそれ以上何かを期待する気持ちがなかった。


「儀典補佐の引き継ぎ書類は、執務室の3段目に入れてございます。——どうぞお元気で」


 深く一礼して、私は広間を出た。

 涙は出なかった。

 5年かけて、もう全部使い切ってしまっていたから。



      ◇



 私が宮廷を去った翌日のことは、侍女のマルタから聞いた。


「大変なことになっております、フィリーネ様」


 マルタは私の名前を間違えない。私が伯爵家に来た日から20年、ただの一度も。それがどれほど贅沢なことだったか、宮廷に出仕するまで分からなかった。


「来月の建国祭の席次が、誰にも組めないのだそうです」

「引き継ぎ書類に、過去5年分の席次表を全部入れておきましたけれど」

「それを見た後任の方が、『席次って、上の人から順番に並べればいいんですよね?』と仰ったそうで」


 マルタが窓を開けた。

 特に理由はなさそうだったが、何かを外に逃がしたかったのだろう。多分、怒りを。


「……それは、まあ、間違ってはいないのですが」


 間違ってはいない。ただ、致命的に足りない。


 席次とは、序列の順番に椅子を並べることではない。

 今期の政治的距離、過去の外交摩擦、宗教上の禁忌、食事の制限、領地間の係争、婚姻関係の冷却度合い——それらを全部頭に入れた上で、「隣同士にしても事故が起きない組み合わせ」を作る作業だ。


 たとえば、昨年マルドゥール辺境伯の領地問題で対立したヘルマン伯爵とグレーフェンベルク伯爵を隣席にすれば、晩餐会がそのまま領地裁判になる。ヴェルデン大使には豚肉を出してはならないし、南部三伯の席順を間違えれば一晩で同盟が一つ消える。


 それを5年間、私一人でやっていた。


「フィリーネ様がいらした頃は、式典で事故が一度もなかったのですが」

「ええ、まあ——事故を起こさないのが仕事ですから、起きていない間は誰にも気づかれないのですけれど」


 透明な仕事だった。

 うまくいっている間は存在しないのと同じで、失敗したときだけ名前を呼ばれる——いえ、間違った名前で呼ばれる。


「それで、今どうなっているのですか?」

「建国祭の招待状を300通発送したところ、敬称の間違いが47通、家紋の取り違えが12通、そもそも宛名が存在しない方に送ったものが3通だそうです」

「……宛名が存在しない方?」

「8年前にお亡くなりになった伯爵に招待状を送ったそうです」

「それは——もはや降霊術の領域ですね」


 笑い事ではないのだが、笑ってしまった。マルタも唇の端が震えていた。



      ◇



 宮廷の混乱は、日を追うごとに広がっていった。


 建国祭の席次が組めないだけではない。外交晩餐会の贈答品の格が合わない。各国大使への書簡の結びの敬語が統一されていない。式典の進行表に「適宜対応」としか書かれていない箇所が14カ所ある。


 その「適宜対応」を全部やっていたのは私だった。


 マルタが毎日のように報告を持ってきた。


「本日は、ヴェルデンの外交特使がお見えになったそうです」

「ヴィクトル公爵が?」

「ええ。建国祭の打ち合わせだったそうですが、席次表を見て、一言も発さずにお帰りになったと」


 私の手が止まった。


 ヴィクトル・レーヴェンシュタイン公爵。

 ヴェルデン国の外交特使にして、私が——唯一、名前を正しく呼ばれた相手だ。


 3年前の外交晩餐会。

 私が初めて一人で席次を組んだ大規模式典だった。南部三伯の序列問題、ヴェルデンとの過去の摩擦、食事制限、すべてを織り込んで、72席を配置した。


 晩餐会の後、彼が私のところに来た。

 正確には、式典場の片隅で片付けをしていた私の前に、静かに立った。


「——席次を組んだのは、あなたですか」


 驚いた。式典の裏方に声をかける外交官など見たことがなかった。


「はい。何か不備がございましたでしょうか」

「いいえ。南部三伯の配置が見事だった。グレーフェンベルク伯を窓際から離したのは、日差しを嫌う体質を知っていたからですね」


 息が止まるかと思った。

 あの配置の意図に気づいた人間は、この3年で彼だけだ。


「失礼、お名前を伺っても?」

「……フィリーネ・クラーフトと申します」

「フィリーネ嬢」


 彼はそう言って、一度だけ頷いた。

 正しい名前だった。正しい発音で、正しい抑揚で、迷いなく。


 ——ああ。

 私の名前は、こういう音だったのか。


 あの日から、彼が宮廷に来るたびに、私は少しだけ背筋が伸びた。彼がすれ違いざまに「フィリーネ嬢」と呼んでくれるから。たったそれだけのことが、あの宮廷で働き続けるための、小さな灯火だった。


 その灯火を、もう手放したのだ。



      ◇



 婚約破棄から10日後。

 私は伯爵家の別邸で、静かに暮らし始めていた。


 庭の手入れをして、読みかけの本を読んで、マルタの淹れてくれた茶を飲む。誰にも名前を間違えられない生活は穏やかで、けれど少しだけ寂しかった。


 間違えられることすらなくなったのだ、と思った。


 ある午後、マルタが珍しく慌てた様子で居間に来た。


「フィリーネ様。——お客様です」

「私に?」

「ヴェルデンのレーヴェンシュタイン公爵と名乗る方が、正門に馬車でいらしています」

「——え?」


 なぜ。

 なぜ彼がここに。


 動揺する私を置いて、マルタが付け加えた。


「それと、お伝えしておきますが」

「何ですか」

「門番に『フィリーネ・クラーフト嬢にお取り次ぎ願いたい』と正確に仰いました。——合格です」


 マルタが笑った。

 20年の付き合いで、マルタが来客に笑顔を見せたのは、これが初めてだった。



      ◇



 応接間に通したヴィクトル公爵は、3年前と変わらない静かな佇まいだった。


 ただ、その手に一冊の書類綴じを持っていた。


「突然の訪問をお詫びします、フィリーネ嬢。ただ、どうしても直接お伝えしたいことがありました」

「……わざわざ国境を越えて、ですか」

「ええ」


 彼はその書類綴じをテーブルに置いた。


「3年分の席次表の写しです。あなたが組んだもの全てに目を通しました」


 私は言葉を失った。

 席次表など、式典が終われば誰も見返さない。表方の華やかな記録だけが残り、裏方の配置図は書庫の奥に沈む。


「なぜ——そのようなものを」

「最初は、外交官として。あなたの席次には、公式発表されていない政治的判断が織り込まれていた。読めば読むほど、この国の宮廷情勢が分かった」


 彼は一拍置いて、続けた。


「けれど、途中から理由が変わりました」

「……と、仰いますと」

「席次表の隅に、いつも小さな書き込みがあった。『グレーフェンベルク伯:窓際不可(眩しがり)』『ヘルマン伯:左耳が遠い(右側に話し相手を)』——配置の理由ではなく、人への配慮が書かれていた」


 あれは——ただの備忘録だ。

 自分が忘れないように書いていただけの、事務的なメモだ。


「フィリーネ嬢。あなたの仕事を探しに来たのではありません」


 彼が立ち上がった。

 真っ直ぐに、こちらを見た。


「あなたを探しに来ました」


 心臓が一つ、大きく跳ねた。


「5年間、あの宮廷で、あなたの名前を正しく呼ぶ人間が一人もいなかったことを——私は、ずっと怒っていました」


 声が震えた——彼の、ではない。私の。


「なぜ、怒るのですか。他人の、それも他国の、名前を間違えられているだけの女に」

「名前を間違えられているだけ、ではない」


 彼の声は静かだった。けれど、揺るぎがなかった。


「あなたが透明にされていたのです。名前を呼ばれないということは、そこにいないのと同じだ。5年間、あの宮廷はあなたを消し続けていた」


 視界が滲んだ。

 泣かないと決めていた。5年分の涙はもう使い切ったと思っていた。けれど——


 ——正しく見えていた人がいた。

 そのことが、何より痛かった。


「あなたの名前を呼ぶために、国境を一つ越えてきました」


 彼が、右手を差し出した。


「フィリーネ嬢。——私の国で、正しい名前で生きてはくれませんか」



      ◇



 建国祭は、大変なことになったらしい。


 マルタの報告によれば、席次の混乱から始まり、ヴェルデン大使に豚肉の前菜を出し(外交問題になりかけた)、南部三伯の席順を間違え(翌日に抗議書が3通届いた)、招待状の家紋を取り違えた2家が式典中に口論を始めた(これは途中で止まった)。


 カール・ヴェルナー侯爵子息は、儀典の最高責任者として全ての苦情を一身に受けたそうだ。

「あの地味な女がやっていた雑務」が、実は宮廷外交の生命線だったと気づいたのは、全てが壊れた後だった。


 私は、その報告を聞きながら、少しだけ思った。


 ——席次って、上の人から順番に並べればいいんですよね?


 違います。

 でも、もう訂正してあげる義理はない。



      ◇



 ヴェルデンに渡る日の朝。


 ヴィクトルが迎えの馬車とともに持ってきたのは、一枚の席札だった。


「これは?」

「私の国の初夏の晩餐会の席札です。——あなたの席です」


 手に取った。

 白い厚紙に、金の箔押しで名前が刻まれていた。


 ——フィリーネ・クラーフト


 正しい名前。

 正しい綴り。

 1文字の間違いもない。


「筆跡は——これ、ご自分でお書きになったのですか?」

「席札は儀典官の仕事ですが、あなたの分だけは、自分で書きたかった」


 私は席札を胸に抱いた。

 たかが紙切れだ。名前が書いてあるだけの、小さな紙切れ。


 けれどこの5年間、私が一番欲しかったものが、ここにあった。


「……ヴィクトル様」

「はい」

「私の名前を、もう一度呼んでいただけますか」


 彼が微笑んだ。

 3年前の晩餐会と同じ声で、同じ正確さで——けれどあの時よりずっと柔らかく。


「フィリーネ」


 敬称を落とした、ただの名前。

 それが、こんなにも温かい。


「——はい」


 涙が一粒だけ落ちた。

 5年分は使い切ったと思っていたけれど、嬉し涙はまた別の場所に溜まっていたらしい。


 マルタが馬車の扉を開けながら、小さく言った。


「フィリーネ様。——私以外にも、正しくお呼びする方ができて、ようやく安心いたしました」


 春の陽が差す中、馬車が走り出した。

 膝の上の席札を、私はずっと撫でていた。

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