エメラルドの変貌
カイロのグランド・ハイアット・ホテルのスイートルーム。窓の外にはナイル川が銀色に光り、街の喧騒が遠くの潮騒のように響いている。
ダイアナは、鏡の中に立つ見知らぬ女性を呆然と見つめていた。そこには、砂埃にまみれて刷毛を振るっていた考古学者の影はどこにもなかった。ドミニク……スタッフォード氏が用意させたのは、深い森の奥にある湖を思わせる、鮮やかなエメラルドグリーンのシルクドレスだった。
背中が大きく開いたそのドレスは、彼女の肌の白さを残酷なまでに際立たせ、歩くたびに流れるようなドレープが脚のラインをなぞる。
「……これが、私?」
耳元には、発掘されたばかりの銀の鏡に刻まれていた意匠を模した、特注のピアスが揺れている。彼が何を考えてこれを用意したのか、ダイアナには測りかねた。
「準備はできたか」
ノックもなしに部屋に入ってきたスタッフォード氏の声に、ダイアナは肩を跳ねさせた。振り返ると、彼は完璧なタキシードに身を包んでいた。漆黒の生地が、彼の引き締まった体躯を冷徹に包み込んでいる。だが、ダイアナを捉えた彼の瞳は、一瞬だけ、爆発的な衝撃に打たれたように見開かれた。
「……スタッフォード氏?」
彼は数秒の間、言葉を失ったようにダイアナを見つめていた。その視線は、彼女の喉元から、露わになった肩、そしてドレスの裾へと這うように動き、再びその瞳で止まる。
「……悪くない。投資した甲斐があったというものだ」
ドミニクはすぐにいつもの傲慢な仮面を被り直したが、その声は心なしか低く、掠れていた。
「さあ、行こう。今夜、君はコートニー家の名誉を回復させるための『展示物』になるんだ」
会場のボールルームに足を踏み入れた瞬間、会場の空気が一変した。シャンデリアの光を反射する宝石、高価なシャンパン、そして着飾った社交界の面々。そのすべての視線が、スタッフォード氏の隣を歩くダイアナに突き刺さる。
かつて父を「空想家」と嘲笑った教授たちが、信じられないものを見るような目で彼女を凝視している。スタッフォード氏は、勝利を確信した捕食者のような冷笑を浮かべ、彼女をエスコートした。
「背筋を伸ばせ、ダイアナ。今夜の君は、この会場の誰よりも価値がある」
彼が腰に添えた手のひらから、熱い振動が伝わってくる。
やがて、オーケストラがゆったりとしたワルツを奏で始めた。スタッフォード氏は、当然の権利であるかのように、ダイアナをダンスフロアへと誘い出した。
「ダンスまで『管理』される覚えはないわ、スタッフォード氏」
ダイアナは彼の手を取り、囁くように言った。
「これは不必要なパフォーマンスではないかしら」
彼は強引にダイアナを引き寄せた。互いの身体が密着し、ドレスの薄い生地越しに、彼の堅牢な胸板の鼓動がダイアナの胸へと直接響いてくる。あまりの近さに、めまいがした。彼のまとうサンダルウッドの香りと、独占的な男性の熱が、彼女の思考を真っ白に染め上げる。
「黙れ。今夜の君は……私の計算を狂わせている」
耳元で囁かれたその声は、これまで聞いたどの命令よりも、抗いがたい力を持っていた。
「計算……?」
「そうだ。君をここに立たせたのは、あくまでビジネスのためだった。だが……」
彼はダイアナの手を強く握り、彼女を翻弄するようにステップを踏む。
「これほどまでに男たちの視線を君に奪わせるのは、私の流儀に反する。……今すぐ、君をこの場所から連れ去り、誰の目にも触れない場所へ閉じ込めてしまいたい」
ダイアナは、彼の琥珀色の瞳の奥に、暗く燃える「欲望」を見た。それは、冷徹なCEOのものでもなく、ましてや優しい『ミスター・ガーディアン』のものでもない。
一人の男が、一人の女を激しく求めている、剥き出しの情熱。
「スタッフォード氏……あなたは、一体……」
「何も言うな。……今は、私に身を任せていろ」
ワルツが最高潮に達し、二人の影が会場の鏡に映り込む。ダイアナは気づいた。彼に抱かれ、激しく踊っている今の自分こそが、これまでの人生で最も自由で、そして最も危うい場所に立っていることに。
ダンスが終わり、彼がダイアナの耳元で最後に吐き捨てた言葉は、これまでのどんな罵倒よりも彼女の心を抉った。
「……君を助けたことを、今夜ほど後悔したことはない」
その言葉は、押し殺した呻きのようにダイアナの耳を打った。ドミニクは彼女の腰を抱く手に、一瞬だけ力を込めた。それはもはやエスコートではなく、獲物を離さない捕食者の執着だった。
(どうして……?あなたは私を嫌っているはずでしょう?)
ダイアナの戸惑いを嘲笑うかのように、ドミニクは突き放すように彼女を解放した。
「あんな男たちの視線に、君を晒すべきではなかった」
彼は会場の男たちを、殺意すら孕んだ視線で一蹴する。
「君を砂漠の奥に閉じ込めておかなかったことを、私は心底後悔している。……今すぐ、私の前から消えろ。さもなければ、私は今ここで、君を自分のものにしてしまうだろう」
ドミニクは背を向け、足早にテラスへと去っていった。一人残されたダイアナの肌には、彼に触れられた場所が熱を帯びて残り続けている。彼の言葉は残酷だったが、その裏に潜む、張り裂けそうなほどの「飢え」を、ダイアナは確かに感じ取っていた。




