冷徹な庇護
漆黒のベントレーが巻き上げた砂塵が収まっても、ダイアナの心に渦巻く動揺は収まらなかった。ドミニク・スタッフォードが差し出した数枚の書類。それは、パトロンとしての慈悲深い契約書などではなく、ダイアナという一人の人間の自由を縛り上げる、洗練された「奴隷契約」に他ならなかった。
「……健康管理、摂取カロリーの規定、さらには睡眠時間の報告義務?」
ダイアナは震える声で、目の前の冷徹な男を睨みつけた。
「これは考古学の支援契約よ。刑務所の入所手続きじゃないわ」
ドミニクは、キャンプ用の粗末な椅子に腰を下ろしながら、脚を組み替えた。最高級のサルトリアで仕立てられたスーツの生地が、微かな音を立てて擦れる。
「君の父、ヘンリー・コートニーがなぜ志半ばで倒れたか知っているか?劣悪な栄養状態と過労、そして砂漠という環境への甘い認識だ。私は、自分の投資先が同じような無様な死に方をすることを許さない」
「父を侮辱しないで!」
「事実を言っているだけだ。サインしろ。さもなければ、今すぐその安物の刷毛を置いて、ロンドンに帰るんだな。コートニー家の名声もろとも砂に埋もれるがいい」
ドミニクの琥珀色の瞳が、獲物を射抜く猛禽類のように鋭く光る。ダイアナは、デスクに置かれた父の形見の万年筆を握りしめた。ミスター・ガーディアンから贈られた手紙の言葉が脳裏をよぎる。――『君の情熱を守ってほしい』。もし、彼がこの場にいたら、何と言うだろうか。
「……わかったわ。サインするわよ。その代わり、神殿が見つかったら、あなたは私のやり方に一切口を出さないで」
「結果がすべてだ。それまでは、君は私の『管理物』だ」
ダイアナが屈辱に耐えながらサインを終えると、ドミニクは短く合図を送った。直後、砂漠の地平線から、新たな車両の列が現れた。それはドミニクの直属である「スタッフォード・ロジスティクス」のプロ集団だった。
彼らの動きは迅速かつ正確だった。ダイアナが長年使ってきた、砂の混じる古びたテントは数時間のうちに撤去された。代わって設置されたのは、最新の空調設備を備え、衛星通信すら可能な防塵仕様の可動式オフィスと居住用コンテナだ。
「おい、これを見ろよ!氷の入ったコーラだぜ!」
先ほどまでダイアナに色目を使っていた若手のトビーが、ドミニクの部下から配られた物資を手に、子供のように声を弾ませた。ベテランのアーサーさえも、最新式の掘削機を前にして、ドミニクに媚びるような笑みを浮かべている。
「ダイアナ、あんたも意地を張るな。スタッフォード氏のおかげで、俺たちは命拾いしたんだ」
アーサーの言葉に、ダイアナは言いようのない孤独感と疎外感を覚えた。昨日まで、彼女はこの男たちのリーダーであり、彼らの視線に含まれる欲望すらも、自分がこの場に立っている「女としての武器」としてどこかで利用していた。だが今、ドミニクの圧倒的な財力と権力は、彼女の地位も、女としての誇りも、すべてを等しく「彼に依存するもの」へと変えてしまった。
「君の寝室は、私のコンテナの隣だ。20時には夕食を用意させる。遅れることは許さない」
背後からかけられたドミニクの声に、ダイアナは肩を強張らせて振り返った。
「監視は、もう始まっているということ?」
「保護と言ってほしいものだな。君の細い肩で、この屈強な男たちを御せると思っていたのか?彼らが君を見つめる視線が、純粋に考古学への敬意だとでも?」
ドミニクが一歩近づく。ダイアナのパーソナルスペースを容易く侵し、彼の高い体温が伝わるほどの距離で立ち止まった。
「……君の誇りはいくらだ?私は妥協という言葉を知らない。君がこの神殿の秘密を解き明かすその日まで、君のすべてを私が管理する。身体の隅々までな」
ドミニクの手が、ダイアナの頬に触れようとして、寸前で止まった。彼の指先は熱く、視線は氷のように冷たい。その矛盾した情熱に、ダイアナの心臓は激しく波打った。憎いはずなのに、なぜか彼の支配を拒みきれない自分がいる。
(ガーディアン様……助けて。私は、この男の檻の中で壊れてしまいそうです)
沈みゆく夕陽が、砂漠を燃えるような紅に染めていた。それは、これから始まる二人の、逃げ場のない関係を象徴しているかのようだった。




