星屑の記憶
私の名前はセナ、26歳。目の前のノートに書かれた文字を見つめるが、記憶の半分が霧に閉ざされている。昨日、カイトが笑った瞬間、図書室の静かな空気――覚えているはずなのに、頭の奥で何かが欠けている。左腕の薄い傷が、かすかに疼く。毎週月曜、記憶がリセットされる。医者は「周期性記憶障害」と呼ぶ、原因不明の病気だ。白い錠剤、ネウロスタチンを飲み続けるが、最近、感情が揺らぎ、知らない私が現れる。薬のせい? 誰も教えてくれなかった。ペンを握る手が震える。8年前、高校生の私が壊れた。カイトの愛と私の忘却が、私をバラバラにした。今、半分しか思い出せない私がいる理由。それは、愛したいのに自分を見失ったからだ。日記を開く。そこに書かれた「今日の思い出」が、私を繋ぎ止める。あの高校時代、私がセナだった頃の話だ。
高校の教室は、ざわめきと笑い声が響く場所だった。2年生の春、カイトが話しかけてきた。「セナ、俺、カイト。覚えててくれると嬉しいな。」彼の笑顔は、桜の花びらみたいに柔らかかった。でも、月曜が来ると、彼の名前も笑顔も消えた。葵が冷ややかに笑った。「セナ、また忘れたの? ほんと面倒くさいね。」彼女の声は、教室の空気を冷たくした。真央も続いた。「カイト、なんでそんな子に構うの?」二人の笑い声が、胸に突き刺さった。私はカイトの笑顔を覚えたかった。でも、月曜が来るたび、胸の奥で何かがちぎれる音がした。手を握りしめると、爪が掌に食い込んだ。脳の海馬が、記憶を定着させるのを拒む。シナプスが、毎週リセットされるたび、バラバラになる感覚。医者は言った。「神経接続が不安定。原因はわからない。」科学は私の味方じゃなかった。
高橋先生は、いつも忙しそうだった。「セナ、授業に集中して。」彼女の声は、苛立ちを隠さなかった。私がノートを落としたとき、彼女は拾うのを手伝わず、「早くして」とだけ言った。その言葉は、教室のざわめきに混じって、心に突き刺さった。今なら思う。高橋先生は私の状態を理解しようとしなかった。彼女にとって、私はただの面倒な生徒だった。でも、その無理解が、私の心に小さな亀裂を刻んだ。ある日、彼女が私の詩を手に取り、「まあ、悪くないけど」と呟いたとき、胸の奥で何かが冷たく響いた。私の言葉は、彼女の目には届いていなかった。脳の前頭前野が、感情を制御できず、涙がこぼれた。ドーパミンの分泌が乱れ、感情が揺さぶられた。でも、私にはただ、胸が痛かった。
カイトだけが、私を諦めなかった。「セナ、月曜が来ても、俺はここにいるよ。」彼はノートに書いてくれた。「カイト、幼馴染。セナのことが大好き。」月曜の朝、私はそのノートを握りしめた。カイトの笑顔が、頭の中で揺れた。でも、葵の冷やかしが響いた。「セナ、毎週リセットとか、恋愛無理じゃん。」真央も笑った。「カイト、時間の無駄だよ。」私は「普通」だと思いたかった。でも、月曜が来るたび、胸の痛みが深くなった。カイトの手紙を読み返すたび、彼の笑顔が遠く感じた。心臓が締め付けられるように痛み、息をするのも苦しかった。医者が処方したネウロスタチンを飲み始めた。白い錠剤は、記憶のリセットを遅らせると言われた。副作用? 「気にしなくていい」と医者は笑った。私は信じたかった。
3ヶ月目、カイトと私が近づいた。図書室で、彼がそっと手を握った。「セナ、俺、君のこと好きだよ。」その言葉は、胸の奥に温かい光を灯した。カイトはスケッチブックを持ち、優しく笑っていた。図書室の静かな時間は、私の居場所になった。カイトの手の温もりを思い出すたび、心臓の痛みが少し和らいだ。でも、ある夜、カイトが静かに呟いた。「セナ、君の愛し方、なんか変わったね。」彼の目は、優しく、でもどこか寂しそうだった。私は凍りついた。ネウロスタチンが、ドーパミンやセロトニンを過剰に抑え、扁桃体の過活動を引き起こしていた。私の愛は、衝動的で、時に冷たく、時に激しく揺れていた。カイトの言葉が、頭の中で響いた。「変わったね。」私は誰? セナの私が、カイトを愛しているはずなのに、鏡の中の私が知らない顔に見えた。机の角を握る手が震え、胸のざわめきが増幅した。喉が詰まり、息ができなかった。カイトの笑顔が遠く感じ、胸の奥で何かが砕ける音がした。
その夜、初めて腕に傷をつけた。カッターの刃が皮膚を裂く瞬間、鋭い痛みが脳を突き抜けた。痛みがアドレナリンを放出し、短期的な記憶定着を助けた。カイトの笑顔を忘れたくなかった。日記に書いた。「今日、カイトが笑った。桜の木の下で。」でも、月曜が来ると、日記すら他人事だった。傷の痛みだけが、私をセナに繋ぎ止めた。カイトには見せられない。私の努力は、夜の部屋だけで続く。コルチゾールが脳を傷つけ、記憶の喪失を加速させた。私は日記に書き続けた。「今日、図書室でカイトが手を握った。温かかった。」ページを埋める文字が、私の戦いだった。ネウロスタチンの副作用が明らかになったのは、半年後。医者が渋々認めた。「長期使用で、神経変性が進む。人格の一貫性が損なわれることも。」私の感情は、ジェットコースターのようだった。ある日は怒りに満ちた私が現れ、別の日は泣き虫な私が顔を出した。日記に書く。「カイト、今日もそばにいた。私の名前を呼んでくれた。」でも、書く手が震えた。私の声は、誰?
半年後、記憶のリセットが不規則になり、過去の記憶が徐々に消え始めた。カイトのノートを握りしめても、彼の笑顔がぼやける日が増えた。日記に書く。「カイトがスケッチブックに描いた私の顔。覚えてたい。」でも、ページをめくる手が震えた。腕の傷が増えた。痛みは記憶を一瞬呼び戻すが、すぐに霧に飲まれる。カイトが気づいた。「セナ、腕、どうした?」私は隠した。「なんでもないよ。」彼に知られたくなかった。私の努力、苦しみ、壊れていく私が、彼の笑顔を曇らせたくなかった。葵が図書室で呟いた。「セナ、ごめん。冷たくしてた。」彼女の目は、初めて温かかった。彼女も自分の居場所を探していたんだと気づいた。真央も廊下で言った。「セナ、変わったね。強いよ。」彼女の声は、過去の冷やかしを溶かした。
ネウロスタチンの副作用が、私をさらに変えた。ある日、知らない私が叫んだ。「カイト、離れろ!」別の日は、泣きながら抱きついた。「愛して。」カイトは動じなかった。「セナ、どんなセナもセナだよ。」彼の言葉が、日記に刻まれた。でも、鏡の中の私は、知らない顔だった。カイトが「セナ、愛してる」と言うたび、「私は誰?」が頭を支配した。薬が私の感情を壊し、傷が私の心を削った。痛みがノルアドレナリンを放出し、一時的に記憶を強化する。でも、ストレスホルモンのコルチゾールが、脳をさらに傷つけた。私は壊れていく。日記に書く。「カイトの笑顔、忘れたくない。」でも、文字がぼやける。心臓が締め付けられるように痛み、息が浅くなった。愛したいのに、私は誰? カイトの温もりが、頭の中で揺れる。恐怖と愛が、胸の奥で絡み合った。
1年後、病は残酷に進行した。記憶は断片化し、人格は崩れていた。カイトのノートに書かれた「セナ大好き」が、他人事に見えた。日記に書く手が震え、文字が乱れる。「今日、カイトが抱きしめてくれた。覚えてたい。」でも、翌朝、ページは空白に感じた。腕の傷は増え、皮膚科医が警告した。「感染症のリスクが高まる。やめなさい。」でも、痛みだけが私をセナに繋いだ。カイトに隠れて、私は戦った。ネウロスタチンは、神経を無理やり安定させる代償に、前頭前野と扁桃体のバランスを崩壊させた。私の「セナ」が、消えていく。カイトが言った。「セナ、薬、やめよう。」でも、私は首を振った。記憶を失うより、人格が壊れる方がマシだった。
私は書くことを選んだ。詩が、私の存在を証明した。「私の欠片は、バラバラでも光になる。」日記に刻んだ言葉が、私を繋いだ。葵先生が私の原稿を手に取り、微笑んだ。「セナ、これ、誰かの心に届くよ。」彼女の眼鏡の奥の目は、私を見ていた。カイトは図書室で笑った。「セナの詩、読みたい。」彼の笑顔が、私の欠片を繋いだ。私は小説家になった。周期性記憶障害も、ネウロスタチンの副作用も、私の一部だ。「星屑の記憶」を出版した時、誰かが手紙で書いてきた。「セナ、君の声、届いたよ。」その言葉が、私の光になった。カイトがそばで微笑む。「セナ、君の愛、変わっても大好きだよ。」彼の手の温もりが、私の隣にある。私は書く。私の欠片は、誰かの光になる。あなたが読むなら、私はここにいる。
END