第11話 圏外の集落
この章より現代デジタル+山の怪異を書いていきます。
その日、Aは一人で山に入った。
初心者向けの登山道で、標高もさほど高くはない。登山アプリで確認したルートも問題なし。日帰りのつもりで、軽い気持ちで入山した。
――のはずだった。
昼を過ぎた頃、急に山の天気が変わった。濃い霧が立ち込め、風の音すら霧に吸い込まれるように消えた。目の前が白一色に染まり、視界は5メートル先も怪しい。
焦ったAは、スマホを取り出して位置を確認しようとしたが、GPSが大きくズレている。電波も完全に圏外だった。
「……マジかよ、道迷った?」
不安を押し殺しながら足を進めていくと、霧の向こうに屋根が見えた。古びた瓦屋根。さらに進むと、それが一軒だけではなく、いくつかの民家が並ぶ小さな集落であることがわかった。
「……こんなとこ、地図にあったか?」
登山アプリにも紙の地図にも載っていなかったはずだ。
呼びかけながら近づくと、最も手前の家の引き戸が、まるでタイミングを見計らったようにすっと開いた。
「よく来なすったなぁ」
出てきたのは、腰の曲がった老婆だった。
肌は不自然なほど白く、目元には不気味な光があった。それでも、口調は穏やかで笑顔を浮かべていた。
「道に迷って……ここって、どこですか?」
「ここは“影岩”っちゅうとこさ。あんた、分岐を間違えたんだろうな。昔はこのあたりにも道が通ってたんだけど、もう長いこと使う人もいなくなってねぇ」
「分岐……? じゃあ、今はもう?」
「今は誰も住んじゃいないさ。ただ、たまに“知らせ”が来るからね。そういう時はこうして戸を開けるんだよ」
“知らせ”という言葉に、Aは妙な引っかかりを覚えた。
「知らせって……何の?」
老婆は首を傾げ、柔らかく笑った。
「スマホでしょ?」
Aはゾッとした。電波のないこの山奥で、なぜ彼女がそれを知っている?
「……今、圏外なんですよ。連絡なんて――」
言いかけたところで、Aのスマホが突然ブルッと震えた。通知音は鳴らない。ただ、何かに触れられたような、妙な感触とともに画面が光った。
画面には、**未読メッセージ:『こっちに来て』**の文字。
「……なんだよ、これ……」
老婆がふいに顔を近づけてきた。
「そろそろ帰りなさい。山が怒る前にね」
Aが目を見開いた瞬間、老婆の姿はふっと消えた。周囲の集落も、音も、すべてが白い霧に吸い込まれていた。
それでも、Aはなぜか、帰り道が“分かる”気がした。
霧の中、まっすぐ後ろへと足を向けると、徐々に木漏れ日が差し、視界が開けていく。
道の先には、見覚えのある登山道入口の標識があった。
麓の公衆トイレまで戻ったとき、スマホに電波が戻った。画面を見ると、先ほどの“未読メッセージ”は消えていた。履歴も通知も残っていない。
けれど、写真フォルダには一枚だけ、見知らぬ写真が保存されていた。
濃霧の中、背を向けて山に消えていく老婆の姿が、ぼんやりと映っていた。