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心臓音


最終話







瞼の向こうの先に光が差し込み目が開く。

アイボリー色と同色の模様がかった天井が視界に入る。

寝心地の良い寝台とふわりとする触り心地の良い寝具。

瞬きを数度繰り返して首を動かす。

真っ白なレース調のカーテンは外から入る日差しを和らげてくれている。



「う…痛っ…」



逆方向を向こうとして、軋むような鈍痛が身体中に響き、思わず目を閉じて眉間に皺を寄せる。どこかしこも体が重苦しく感じる。すると近くからがたんという音が聞こえたので、ぎしぎしする首をゆっくりと動かす。



「ラヴィ…!目が覚めたか」



近くにあったシンプルな机に備えられた椅子から立ち上がった男性が早足でこちらに向かってきて、寝台の側で跪いた。薄いグレーのシャツに黒のトラウザーズを履いた美丈夫の男性で、漆黒の長い髪はそのまま下ろしている。そして何より気になったのが角度によって色合いが微かに変わる彼の印象深い紅い瞳だ。



「ラヴィ」



先ほど発した言葉をもう一度繰り返す彼の艶やかで魅入られるような瞳を見つめながら、口を開く。



「…ラ、ヴィ…?」



声が上手くだせず喉から漏れるような掠れた声でそう返すと、彼の紅い瞳がゆらりと濁ったように翳る。同時に何か痛むかのように見えた一瞬の表情に、つい無意識に手を伸ばす。



「どこか、痛いの?大丈夫?」



紅い瞳の目元の下にそっと指で触れると、紅い瞳の翳りが少し和らいだのがわかり、どうしてか安堵する気持ちになる。彼は何かにぐっと堪えているかのような切ない表情で、ゆっくりと目元を触れている少女の手をそっと握る。



「俺は大丈夫だ。ラヴィ、はお前の名前だ」

「名前…私の?」



紅い瞳の男性は頷く。



「…ラヴィ。私の名前、は…ラヴィ」

「ああ、ラヴィだ」

「…名前…ラヴィ」



名前だと言われる単語を繰り返す。すると、心の中にぽっと温かいものが灯り、ふわっとそれが広がって満たされていくような気持ちに思わず握られていない方の手で胸を押さえる。



「ここが、温かくなった」



押さえながら彼を見ると、彼の視線が蕩けるように優しくなり口角が僅かに上がる。その表情が何だかとてもラヴィの胸をざわつかせて意味もなく叫びたくなるような、のたうち回りたくなるような不可解な衝動に駆られそうになる。



「俺が付けた名前だ」



彼が付けた名前。ラヴィに名前をくれた人。彼はどんな関係で…彼は―――――



「なま、え」

「ああ」

「名前」

「ん?」



微かに首を傾げた彼に再度尋ねる。



「あなた、の名前」

「……ロイ」



ラヴィは視線を下げてロイ、と声は出さずに口の中だけで復唱する。



「呼んでみろ」



すると、彼からそう声をかけられる。



「呼んでも良いの?」

「ああ。呼べ、ロイだ」



再度言われ、ラヴィは声色に乗せて言葉をゆっくりと引き出す。



「―――――ロイ」

「ああ」



今度は胸の奥底が形容し難いむず痒い気持ちに溢れ、体全体がうずうずとするような、思わず膝を抱えて丸まってごろごろしたくなるが、できない代わりにラヴィはもう一度呼んでみる。



「ロイ」

「…ああ」

「とても、むずむずする」



胸元をぎゅっと掴んで伝えると、ロイの紅い美しい瞳が潤んだように見えた。



「そうか」



彼は握っていた手をそっと伸ばしてさらりとラヴィの頭を撫でてくれた。心地良い香りがすっと鼻腔を擽る。撫でるその姿に既視感を覚え、とくんと胸が鳴る。もっと撫でてほしいと願ってしまうほど。



(何でだろう)



心臓の不思議な鼓動の動きが分からないラヴィは、撫で続けてくれるロイの手を感じながら、とても満たされた何かに浸るように享受しふぅと息を吐く。一定のリズムで撫でられる感触に段々と瞼が重くなり、目を閉じた。


それから数日間はまだ起き上がることさえ難しく、寝台の上で過ごすことになった。



ラヴィは記憶の大半を失っていた。



日常の動作や物の名前などは大体理解できるが、今まで生きてきた経緯や、この屋敷にいる人達の誰一人も知らないし分からない。それを伝えるとロイは一瞬能面のように表情が消えたが、すぐにさらりと頭を撫でてくれた後にラヴィを知る一人の男性を呼び、共に色々話してくれた。


呼ばれた青年は目を覚ましたラヴィの姿を見ると、瞳を僅かに潤ませながらスーリと名乗り、幼馴染だと教えてくれた。すらりとした細身の体型ながら動きに特化した筋肉が無駄なくついていて、薄い茶色の緩やかな巻き髪をサイドに編み込んでいる。切れ長の三白眼は鋭く見えるが、瞳の奥がラヴィをとても心配している様子が伝わってきて、何だか少しくすぐったい気持ちになった。


ラヴィはこの国、ダージェス国のスラム街で育った。物心ついた時から親が居ない者が殆どでラヴィも例外ではない。スーリとはスーリの兄、ユーリと共に幼い頃にスラム街で出会った。三人で何とかその日その日を生き、ユーリが揉め事に巻き込まれて命を落としてからも、二人は切磋琢磨して暮らしていたそうだ。



身体中にある傷はその頃の生き抜いた証だと言う。ラヴィが13歳、スーリが12歳になった時、ラヴィが珍しいオッドアイという理由で狙われたところをロイが助けてくれて、スーリと共にロイ率いる組織に雇われた。


ロイはこの国の暗部と言われる組織、パジェスという名の頭領だそうで、ここに居る人間の殆どが工作員と呼ばれる偵察や諜報、隠密や暗殺など様々な特化した能力のある者で、日々任務を遂行している。


スーリはまだ17歳ながら特等工作員の一人として最近昇格して活躍しているらしい。本人も自分の性分に合っていると言っていた。ラヴィは偵察をしていたが、主にロイの側仕えとして世話係のようなものをしていたらしい。


生々しい傷と数々と脇腹の銃創は今回パジェスと対立していた暗殺組織との抗争でロイを庇って重傷を負ったそうだ。その時のことが身体的にも精神的にも大きなダメージを受けたらしく、記憶を失ったのではないかというのが医師の診断だそうだ。


一通り説明を受けたラヴィは、今では記憶もない、何もできないお荷物の状態なのかと思わず俯いてしまう。それに対してロイは「ラヴィが来てくれたことで一気に形勢が変わったのは事実だった」と。そして誰でも任務で負傷したら休養を取るのは当たり前なのだと聞いて少しだけ安心した。



「今は完全に治りきるまで我慢して。ラヴィは元々物覚えも良いし、手先も器用なんだからすぐに色々できるようになる。今までは俺の方こそがお荷物だった。少しくらい格好つかせて」



スーリの声と瞳には偽りを言っているようには感じられなかった。なにはともあれ今は完治させることが最優先だと、ラヴィは気持ちを切り替えた。スーリが退出するのと入れ替えでリリィという女性が入ってきた。


ラヴィが目を覚ましてから、自分で動けるようになるまでの世話係として付けられている。まだ傷の具合から入浴はできないが、頭髪だけは洗ってもらい、他は清拭をしてもらって、着替えも手伝ってもらった。歪で不格好な長さだった髪はロイに綺麗に顎あたりで揃えて整えてもらった。


ロイとスーリ以外にこの部屋に入ってきたことがあるのは、リリィという女性だけだ。他にもドアの外で男性がロイと話す場面を何度か見かけたが、男性達始めリリィも、痛ましい表情や、自責のような念を持つような表情や態度なのだ。ラヴィもロイとスーリ以外には何故か引っかかる不可思議な気持ちになってしまうのは何故だろう。なんとなく接し辛いような、どう関われば良いのかが上手く説明がつかなく、もしかして仲が良くなかったのかと思い、一度リリィに聞いてみたが、逆に恐縮されてしまいラヴィはどうしたらいいかわからない。



更に数日過ぎた頃、パジェスに新しく入ったラウロという工作員とは気兼ねなく気楽に話せて、初めて会ったような気がしないくらいだった。


周りの工作員からは彼への敵対心のようなものを感じるが、本人は「元天敵だったからね。これは引き抜きのようなものだから」と飄々とした態度で気にも留めず日々を謳歌しているようだ。「僕と瞳の色も髪の色も似ているよね。もしかしたらどこか遥か遠くを遡れば血が繋がっているのかもね」と、少し顔を近づけて見せてくれた瞳は翡翠色と空色だ。自分以外に同じ境遇の人が近くに居ることはとても心強かった。


怪我と体の内部の衰弱、体力低下と盛り沢山の中、動けない暇な時間を潰すためにリリィが沢山の色々なジャンルの本を持ってきてくれたので読んでいた。物語からこの国や周辺国の地理や歴史、言語の本もある程度は読めても知らない言葉がこんなに沢山あるものだと驚いた。物語を数冊読み終えた頃には何となく人間の感情の動き方が理解できてくるようになった。



(私の表情は殆ど動かない。感情に乏しかったのかもしれない)



鏡で自分の口角を無理矢理上げてみても、笑顔というには程遠い。歪な笑顔になるくらいなら、無表情の方がましだなと思うくらい酷いものだったので諦めて自然に任せることにした。


動いても怪我に響かない程度に回復し、体調も戻ってきたのはそれから一ヶ月後のことだった。ずっと世話になりっぱなしだったラヴィは、せめて今の状態でできることをやりたいとロイが様子を見に来た時に話した。


ロイは渋る様子だったが、ラヴィが何でも良いからと押し切り、側仕えとしてロイを朝起こして世話をすることと、日中書類仕事をする時に短時間だけ手伝うということに決まった。ロイが「思ったことを言えるようになったのは重畳だな」と呟いていたのはようやく役に立てるという気持ちでほっと息を吐いていたラヴィの耳には入らなかった。



ロイが「ああ、そうだ」と思い出したようにラヴィを見つめる。



「前にラヴィが願っていたことがあった」

「願い?」

「ああ」



何でもラヴィは仕事の報酬である金貨はここで暮らせているだけで十分だから不要だと、その代わり頭を撫でて欲しいとお願いしていたそうだ。今では毎日のように頭や時には頬までも撫でてもらっている。



「いつも撫でてもらってるから沢山仕事しないと」

「俺は報酬として撫でてないぞ。褒美と考えていたのはラヴィだけだ」

「そうなの?」

「ああ。願いは何かしないと貰えないわけじゃない」

「そうなんだ」

「お前の言う願いを俺は叶えてやりたい」



ラヴィが願ったこととは何だろう。

首を傾げていると、ロイがラヴィの正面に歩いてくる。



「おいで」



そう言って両手を軽く広げてきた。

どくんと胸が鳴る。



「記憶を失くす前に願ったのは…抱きしめて欲しいと」

「…え」



ラヴィは目を丸くした。自分はそんなだいそれたことを言っていたのか。でも想像してしまい胸がとくとく早く鳴る。ラヴィはロイの側仕えだが、彼はこの屋敷の頭領で一番偉い人だ。頭を撫でてはもらったがこれは流石に無礼なのでは。視線を彷徨わせている珍しいラヴィの姿を見たロイは目元を和らげて更に手を広げた。



「ほら」



ロイも基本無表情が殆どだが、今は綺麗な紅い瞳が優しく柔らかに感じてラヴィはとても嬉しくなる。



「俺の願いでもある。おいで」



ロイの願い。

ラヴィと同じ願い。



(良いのかな)



一歩前に進む。


彼からいつも漂うのは香水なのか本人独自の香りなのかわからないが、それに包まれたらどんな心地なのだろう。


もう一歩前に進む。


目の前にいるラヴィよりずっと背の高いロイを見上げる。ロイの表情はさっきと変わらない。

優しい…それよりもう少し熱い、何か。



(良いんだ…ぎゅっと抱きしめてもらって……いや、私もだ)



そこでラヴィは何より自分も抱きしめたい気持ちなのだと気づく。その思いが誘発させ、ラヴィは最後の一歩を踏み出して両手を前に出してロイの胸に飛び込んで腕を背中に回した。同時にゆっくりとラヴィの肩から背中に彼の腕が回り、怪我に響かないように緩く抱きしめてくれた。


瞬間。


身体中から。

心臓の、心の奥底から。

急激に噴き出すような、言葉にできない嬉しいを超えた感情が噴出して。

心臓が物凄い速さで脈打つのを感じながら、更に頭の中に浮かんだ言葉は一つだった。

ラヴィは目を瞑り湧き出て止まらない感情を堪能しながら囁くように伝える。



「ああ、やっぱり。やっとわかった」

「どうした」



ロイの聞き心地の良い低音が彼の胸元から直接耳に響いてくる。

嬉しさと同時に切なさと喜びが暴走したくなる抑え難い感情。



「ロイが抱きしめてくれるだけでわかった。凄く心臓がどきどきしている」



そう言って抱きしめている手に力をきゅっと込めた。



「私、もの凄くロイのことが大好きなんだって、わかった。心臓…心は正直だね」



温かく優しく包んでくれるロイを堪能していると、ぎゅっと苦しくない程度に腕に力が籠もった後、頭頂部にふわりと熱が触れる。



「ロイ?」

「……同じだな」

「ロイも?どきどきするの?」

「ああ。耳を澄ませてみろ」



そう言われ、ラヴィは彼の胸に耳を当てる。



とくとくとくとく


ラヴィと同じくらい早鳴る鼓動が心地よく耳朶に響く。



「本当だ。一緒」

「そうだな」

「し、あわせ…幸せだね」

「―――そうだな」



そう言ってロイは片手で頭を愛おしそうに撫でてくれる。その仕草に嬉しさも好きも倍増する。

もう一つだけ願ってみる。



「もうちょっとだけこのままが良い」

「ああ、俺も足りないからいくらでも」



その言葉に心が歓喜で叫び暴れたくなるのを抑えてぎゅうっと更に手に力を籠めて顔を胸元に押し付けた。頭上では蕩けるような愛しくて堪らないというロイの表情は見られなかった。






最後まで読んでいただき感謝です

不定期でロイSideと後日談を投稿します

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