潰える
(あの漆黒服……は大丈夫。…何が大丈夫?)
薬の多量摂取により、ラヴィの記憶には異変が起きていた。
記憶が曖昧になりながらも殺気を放って向かってきた相手に対し本能で迎撃態勢になっていたラヴィは最上階に昇った頃には、口の中は何かの粒が溶け始めていて物凄い苦みと血の味が充満していた。
身体の節々が痛み、あちこちから熱く何かが滴るのを気にも留めず、一番奥にある毳毳しい血のような色の扉に向かう。途中で廊下のあちこちに転がって血を流して倒れている人間だったものも、障害物程度の認識でラヴィは進んでいく。口の中に広がる苦いものを唾液で少しずつ飲み込む度に漲る感覚とは反対に、何かが潰えていくようなおかしな感覚を味わいながら、まだ残る微かな記憶。
本能でぽそりと呟く。
「会いたい」
漏れ出た言葉を声にすると、心臓がドクンと鳴り何かに満たされた気持ちになり、ラヴィは首を傾げる。思い出そうとすると靄がかかったように薄れてわからない。その靄がどんどん頭の中に拡がり濃くなる様を感じながら、扉へ進んでいく。
そこの扉は半開きになっており、そこから頭を差し入れたすぐ先に見えた者は。
「…ラヴィ!何故ここに…」
ドアの内側近くに寄りかかるようにして座りこみながら掠れた小さな声でラヴィに声をかけたのは、漆黒服のあちこちが切り裂かれて鉄の匂いを放つ、薄茶の髪をサイドに編み込んだ目つきの鋭い青年だ。
(ラヴィ…?)
そう心の中で呟くとほわりと胸が温かくなり満たされるような気持ちになる。その青年の満身創痍な様子を見て、無意識に巾着袋に手をかけて逆さまにすると、黒い錠剤が一粒だけ出てきたそれを彼の前に差し出した。
彼はそれを見た後ラヴィを見返して切れ長の瞳をこれでもかと見開いた。
「……ラヴィ。残りの薬は…どこだ?」
その言葉とほぼ同時に耳に入った鋭い斬撃音に部屋の奥に目を向けた時だ。
「っ!ラヴィ!」
奥には重厚な机とその椅子の影に隠れている強面顔の男が潜んでいて、その手前には双方武器を鳴らしながら、距離をとったばかりの二人が対峙している。
一人は濃紺の軍服姿のすらりとした青年と、もう一人は長い漆黒の髪を一つに結った真っ黒な装いで毅然と立つ紅い瞳の男だ。
それを目で捉えた瞬間、考えるよりも体が動き、座り込んでいる青年の叫び声を背に駆け出していた。
少女は迷うことなく矛先を濃紺服の青年に向け、近くのソファを踏み台代わりにして体を撓らせながら蹴り飛び、片手から数本の飛び道具を放ち、それを咄嗟に回避した彼に更に小型ナイフで斬りかかった。青年に対する感情は激昂だった。紅い瞳の男を害そうとしていると理解した時、その感情が限界を優に超えた。
軍服の青年は手に収まる程度の円月輪のような鋭利な武器でそれを受け止め、その衝撃で少女は後方に飛び体勢を整えてすぐに飛びかかる。本能的に自分が勝てる相手ではないことはわかるのだが、頭の中には紅い瞳の男が攻撃された怒りと守らなければという概念しか思い浮かばない。
鬱陶しかった口に残る粒と苦みと血を全て飲み込んだ直後、ぶわりと身体が迸る漲りを通り超えて戦慄き、何か大事なものが崩れ、何か大切なものが消えていくような空虚な崩壊と心の大事な脆い部分が喪失されていくような感覚が少女を蝕むが、それでも漆黒に包まれた紅い瞳の人を危険から回避しなければというただそれだけの思い。
「ラヴィ!」
心地の良い低音が耳朶に響く。
底から溢れてくる何か。
じゅわっと心臓からじわりと滲み出る何か。
(嬉しい)
頭の中に響いたのはその言葉だ。
(嬉しい)
「ラヴィ!!」
何度も呼ばれるその声を聞きながら少女は青年に攻撃し続ける。相手は困惑したような表情をしながらも、全ての攻撃を受け流していく。何度身体を捻って隙を狙っても全身で挑んでも、全部受け止められてダメージを与えられない。何故か反撃もされない。
これでは駄目だ。これでは助けられない。何かあったらどうしよう。傷ついて倒れたらどうしよう。死んでしまったらどうしよう。
――――哀しい。寂しい。辛い。
目元が熱くなる。頬に温かいものが流れ落ちる。体はとうに限界を超えているのに、心が、頭の中がそれを許さずに青年への攻撃は止められない。視界がぼやけても手を止めてはいけない。紅い瞳の男に矛先を向かわせてはいけない。目の前の青年の翡翠色の瞳が見開いた時、机の椅子の後ろから怒号が響く。
「ラウロ!そこの若造も小娘も早く殺せ!オッドアイだろうが、そんなもん俺の命に比べたら屑だ!早くしろ!俺を守らず何を守る!!!」
安全な場所から怒鳴った男は焦りと歪みきった醜い顔で口から唾を飛ばしながら、叫んでいる。
(こんなのが命令?)
少女は攻撃を繰り出しながら不思議に思う。この中で一番弱そうなのに。
「やれやれ。潮時か」
ぼそっと目の前にいる青年から呟きが聞こえたのと同時に、焦れたのか椅子に隠れていた男が腕だけを出して、何かを紅い瞳の男に向けた。その手の先にあるのは鉛玉の入った銃器だ。ひゅっと少女の喉が鳴る。
(だめ!!!)
少女は身を翻して青年から離れ、急いで駆けて紅い瞳の男の前に飛び出した。
「終いだぁぁぁぁ!!!!!」
そこからはまるでスローモーションのようで。
すぐ目の前には少女を見て驚愕している紅い瞳の男。彼の前に立ちはだかった直後に数発の破裂するような音と同時に身体が跳ね、ブツンと何かが、下に落ちる。
脇腹に灼熱の痛みが走り、頬にぱらりと髪が触れ落ちる。崩れそうになる足元を踏ん張って、ローブから取り出した飛び道具をその銃器を持つ腕と少し椅子から覗き出ている顔に目掛けて放ち、ぐらりと前方に体が傾いた瞬間何かが少女の体に巻き付いた。
すぐ近くでふわりと良い匂いが漂う。
どこかで香ったことのある匂い。
きっと好きな匂い。
「ぐ!ぅあぁぁぁ……!!!」
どすんという音と共に絶叫が耳に迸り、前傾状態で見えた足元を見ると紐で結ばれた群青色の髪の束が目に入る。
これは誰のだろう。
ぼんやりとそれを見ながら体に力が入らないと思っていると、戸惑いと恐怖の声色を出す男の声。
「…ぅ…っおい、な、何を…っ…!!!」
少女のすぐ後ろからシュッという風音とドスッという何かが刺さる音、続いてザシュッという何かを切り裂く音、そしてゴトンと何かが落ちる音。
とても重たく感じる頭を何とか持ち上げると、椅子の側には豪華なスーツ姿の男だった胸元に深々と刺さる小型の湾曲剣。そしてスーツ姿の首の上にある筈のものは、床に目を見開いた苦悶の顔で転がっている。その隣には人差し指で回す武器を持った青年。その青年からはもう殺気が消えていた。
(これで…安心…って何が…?)
背後からお腹に回る誰かの腕は温かい。ふぅと安心できてしまうような心地良い匂いがするのに、体が痙攣し始め震えだした。そしてようやく異様に寒いということに気がつく。
「ラヴィ、しっかりしろ。目を閉じるな」
耳朶にじっくり染み渡る少し焦りのある低音。体を向きをゆっくり変えられ、目の前に深い闇を纏ったような紅い瞳の美しい男がいる。顔に少しの切り傷はあるが、大きな怪我はないようにみえてとても安堵する――――――?この人は、誰だろう。何故そんなに苦しそうな顔をするのだろうか。こっちまで苦しくなる。
でも目の前の人を見てると胸がとくとくと高鳴る。脇腹の痛みの伴う熱さとは違う優しい何か。冷たくなって震える頬が彼の手で包まれる。胸の中の温かさと実際に肌に感じる温かさに瞼が熱くなり何故か視界がぼやける。
(…誰だっけ…何だっけ)
胸がぽかぽかする。
何でだろう。
心がぎゅっと軋んでふわふわと揺れる。
苦しいのに嬉しい。
「うれ、し……い…ね」
視界には滲んで歪む綺麗な顔。紅い瞳。徐々に周りが黒くなっていく。段々と暗くなっていく。
「おい!目を瞑るな。ラヴィ!」
『ラヴィ』
知らない言葉なのにとても嬉しくなる。
まるで特別な魔法の言葉のようだ。
薄れる意識の中で少女は何かに包まれて誰かに抱えられ、誰と誰かかが話す声、誰かと誰かの沢山の足音を浮遊感と共に感じながら意識が深く奥底へ沈んでいった。
顔も体も全部が熱くて堪らない。体全体が悲鳴をあげるように軋んで頭も割れるように痛い。
でも何時でも何ともないような顔をするのは得意なんだ、昔から。
表情も動かないし感情も動かない。動いていた頃なんて覚えていないしあった記憶すらない。
額に冷たい何かが覆われる。でも、すぐに温くなってしまう。首元にも欲しい。焼け付くような痛みがある脇腹にも。
真っ暗な闇の中に沈んでいる意識の中。
誰かの声が聞こえる。
誰かが手を握ってくれている。
誰かが頬を撫でてくれている。
誰かが頭を撫でてくれている。
優しい優しい手。
嬉しい。
心臓あたりがほくほくと温かい。
ここも熱があるのかな?
熱いというよりは温かい。
嬉しい。
何故だろう。
ふわりふわりとゆっくり感じる浮遊感の中、真っ暗闇の先にふわふわと数多に浮かぶ何かが現れる。
少年が二人、幼い女の子を守っているのが見える。
背の高い少年が攻撃を受けて倒れ、それを呆然と影からみる背の低い男の子と女の子。
背の高い少年の復讐を成し遂げ血だらけの尖った石を持っている女の子。
小さい男の子がもっと強くなるからと目を潤ませて言う姿。
屈強な大男に汚され執着される少女。
嫉妬した女に多勢に無勢で傷めつけられる少女。
異なる色を持つ瞳を忌み嫌われた少女。
それを布で隠して過ごしていた少女。
助けてくれた紅い瞳の男の人。
素敵な名前を付けてくれた紅い瞳の男の人。
大きな屋敷で働くようになった少女。
小さな少年だった彼と共に毎日訓練に励んだ少女。
綺麗な少女に歪な眼差しで見られる少女。
いつの間にか周りから疎まれていた少女。
沢山頑張ると頭を撫でてくれた紅い瞳の男の人。
公園で細身の青年に何か話している少女。
決意の眼差しで月を見ている少女。
ぱちん。
ふわふわ漂う一つが弾けて霞んでいく。
ぱちん。
ぱちんぱちん。
それを見てると何とも言えない喪失感に陥る。
ぱちん……ぱちんぱちん
それは次々に弾けて霞んで。
中には消えていってしまうものもある。
何だか切なくなる。
あの、紅い瞳の人は消えて欲しくないな。
あの、小さい少年も。
あの、公園で話した人も
紅い瞳の人とのふわふわした何かはとても言葉にできない程、綺麗な色で包まれていて。紺と紫と黄緑の淡い色合いがとても綺麗で。それもぱちんと弾けて霞んでいく。
心臓が更にぎゅっと切なくなる。
嬉しい…違う。
悲しい…?…ちょっと違う。
寂しい。
とても寂しい。
消えないで欲しい。
消さないで欲しい。
ぱちん、ぱちんぱちん、ぱちん……ぱちん
弾けて霞んで、時には消えて。
止まらない。
叫びだしたくなる。
瞼が熱くなる。
目が霞む。
少しで良いから残ってほしい。
お願い。
いつのまにか喉を震わせてひっくひっくと止まらない。
初めての経験にそれが嗚咽だと気づかないまま少女の意識は深淵に呑まれていった。
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