嬉しい
それからスーリと共に日々訓練に励んだ。予想通りスーリの身体能力は別格で、あっという間にラヴィを追い抜いていき、二月も過ぎるともうラヴィでは相手にならないくらいだった。凄いと褒めるとスーリ曰く「対象が障害物くらいの感覚しかないからね」と無表情で呟く程度だった。
ラヴィも人を殺めることを好んでいるわけではないが、それを実行することによって特に心が病む訳でもない。ラヴィにとって身を守る一つの術であり、手段だというだけだった。世の中には人を殺めず傷もつけずに命を終える人間の方が多いのかもしれない。だがラヴィの生まれた所では、その日を生き抜く為に己を汚していく方法しかなかった。
生きる場所も環境も何もかもが違う。
それをまざまざと思い知らされたのは、ナリエとの出会いだった。
屋敷に来てから二月後を過ぎた頃のことだ。ラヴィが訓練の後、布で汗を拭きながらシャワーを浴びようと自室に向かっている時のことだった。
「あ!あなたね!」
鈴を転がすような高い声が聞こえ、振り向くと長い廊下から水色に淡いクリーム色のレースを施した華やかなドレス、輝くようなシルバーブロンドの緩やかな巻き髪に真っ青な瞳の人形のような美少女が早歩きで近づいてきて、にこっと微笑む。
「あなたが最近ここに来た子ね。私はナリエ。会えて嬉しいわ」
眩しいくらいの可憐な笑みの少女を見ながら、ラヴィは屋敷にきた当初に渡されたマナー本の内容を思い出す。
「…初めまして。ラヴィ、です」
普段から使ってないとすぐに出てこないものだなと思いながら、ラヴィは何とかそう返す。
「ラヴィ、というのね。とても素敵な名前ね」
「…主がつけてくれた」
そう答えると、ナリエの笑顔が一瞬固まったように見えたが、すぐに話を続けてきた。
「そう…名前が無かったなんて、とても可哀想。私はロイ兄様の側近のアルナドお義兄様の義妹なのよ。お母様が違うの。あなたとても小柄なのね。私と同い年かしら?私は今年13歳になったの。あなたいくつ?」
名乗ったのに名前で呼ばないんだなと何となく思いながら彼女を見る。ナリエはアルナドと半分血が繋がった兄妹らしく、シルバーブロンドの髪の色はなんとなく似ているなと思った。
「多分13歳。ちゃんと数えたことないから」
「まあ…」
ナリエは両手で口を押さえながら眉を下げ首を振る。汗をかいているからシャワー浴びたいなと思いながらもラヴィは彼女が話し終えるのを待つ。
「私はとても恵まれているのね…感謝をしなければ。あなたはここで働くのよね?色々辛いことが沢山あるだろうけど頑張ってね!」
そう言ってラヴィの側を横切り通り過ぎようとした時、廊下の奥からアルナドが歩いてきて「ナリエ、こんなところで何をしているんだ」と声をかけてきた。
「お義兄様!」
ナリエがアルナドに気づき近づいて、アルナドに抱きついた。
「今日は帰る日だろう。準備はできているのか?」
「もう!お邪魔虫のように言わないで。ちゃんと帰るわ。その前にロイ兄様にご挨拶しに行かなきゃ」
アルナドに軽く抱擁されながら、彼を見上げたナリエはころころと笑う。彼がすぐ布を持ったままのラヴィを一瞥してナリエに視線を戻す。
「ラヴィに声をかけられたのか?」
「お義兄様から彼女のことを聞いていたでしょう?気になってしまって。ようやく会えたわ。でも、あまり会話を返してくれなくて…きっと私と同い年なのに、あまりにも色々違うから嫌な気分にさせちゃったかもしれないわね…本当にごめんなさい」
ナリエはラヴィに体を向けて少し俯き加減に謝ってきた。その不可解な行動にラヴィは表情には出ないが困惑した。謝った義妹の姿にアルナドは僅かに眉を顰めた。
「何か言われたのか?」
「ううん、何も言われてないわ。でもきっと色々見比べてしまって思うことがあったのかもしれないのなら、私がいけないのよね…そろそろ準備に取り掛かってからロイ兄様にご挨拶しにいくわ。じゃあね、お義兄様」
そう言って、ナリエはラヴィに対し綺麗なカーテシーという挨拶をしてから去っていった。彼女を見送り振り向いたアルナドの表情は何故か蔑むようなものだったことに些か不思議に思う。会ってはいけない人だったのだろうか。遭遇してしまってはいけないのなら言ってくれれば気をつけられたのに。
「ナリエは私の義理の妹です。社交シーズン以外には何故かここに入り浸る節があります。社会勉強だとは言って主から許可をとってはいますがね。天真爛漫で幼いところもありますが、人を貶めるような人間ではない」
その言葉の内容と彼の発する軽視する視線から、明らかにラヴィに原因があるのだと主張していることは想像に難くない。ラヴィは挨拶と聞かれたことにしか答えていないが、どこか間違っていたのだろうか。そんな失礼なことは言っていないはずだ。
綺麗なドレスに光るような髪の貴族の輝きを見せるナリエ。スラム街の孤児あがりのラヴィ。目の前にいるのは元貴族のアルナド。彼は仕事柄、貴族籍を抜けてはいるがナリエの義兄ということである。
アルナドがラヴィに向ける良いとは言い難い感情、そしてナリエとラヴィの言葉をそれぞれ聞いたと仮定した時に、彼がどちらを信じるかは考えるまでもないのだろう。ラヴィは彼の視線を受け止めて黙ることにした。その様子を見たアルナドは溜息を吐いた。
「同年代で自分との格差に相手を妬むのは仕方のないことかもしれませんが、あなたとは違う世界の人間だと考えを切り替えた方が幸せですよ」
そう言って離れていくアルナドを見つめながらラヴィは首を傾げる。
(私はそんなに可哀想な人間なのだろうか)
ナリエも同じことを言っていたが、名前も無く年も定かではないラヴィは彼らから見たら可哀想な子に見えるのだろう。でも実際ラヴィは特に自分を可哀想だとは思っていない。そういうものだと受け入れて13年間そういう場所で生きてきたし、今では寝床と食事があって、任務への訓練もできて、温かい湯で体も洗えて充分な生活を送らせてもらっていると思っている。
そしてラヴィの名前の理由を知った、ナリエの綺麗な真っ青な瞳の奥に垣間見えた濁るもの。あれには見覚えがあった。昔スラム街の子供の半数以上を掌握していた同じ環境の青年が俺の女にしてやると執着してきたことがあり、何一つ興味がなく躱していた。それなのに何故か青年に惚れている女が生意気だとか気味悪い目だとか散々詰られ、執拗な嫌がらせを受けたことがあったのだ。
ナリエはその時の女と全く同じ目をしていた。
考えられるのはラヴィが同い年の同じ性別であることか、ロイに名前をつけてもらったことが発端なのだろう。何故自分の方が恵まれているだろう環境で、相手が可哀想な子だと思っているのに、そんな感情を向けてくるのだろうか。
考えても答えは出てこなかったので、ラヴィは自室に足を向けた。歩いていく中、ふとナリエの言葉を思い出し立ち止まる。
(…主に会いに行くのか)
ラヴィはここに連れて来られてからロイと一度も会っていなかった。
(早く使える人間になって、役に立てば…また頭を撫でてくれるかな)
そんなことを思っていると、背後に気配を感じ振り向くとスーリが立っていた。
「スーリも訓練後?」
そう尋ねるもスーリは無言でラヴィに近づいてきた。
「あいつ何?」
「あいつ?ナリエって女の子のこと?」
そう聞くと頷いたので、ナリエのことをかいつまんで話そうとすると聞こえていたと返ってきた。
「ラヴィに非があるような会話が不愉快」
「あー…」
スーリもそのあたりの人の機微には聡い。スーリも感じたならそうなんだろうなと確信がとれた。
「まあ良いよ。主に余計なこと報告されて迷惑かけたくない」
それに報告するのはアルナドだろうから、間違いなくラヴィが原因だと断定して話すだろうことをロイが聞いて、彼にもそう思われたらとても嫌だなと内心思ってしまった。その心境すら見透かすような視線でスーリが見つめる。
「ラヴィはあいつに知られたくないの?」
「あいつでなくて主だよ、スーリ」
そう諌めてもスーリは何処吹く風だ。相変わらずラヴィ以外は誰とも話さないし興味もないらしい。アルナドが報告はしているのだろうが何も言われないのなら大丈夫なのだろう。スーリはぶれないなぁと思いながら、ラヴィの考えを言う。
「他はどうでも良いけど、主にだけは面倒かけたくない。スーリもだから。誰にも言わなくていいの」
そう言ってその場から離れようとした時、ふとスーリから不思議な質問を受けた。
「この仕事。ラヴィが望んだんだよね?側近から他にも仕事があるような話ってしたことあった?」
「ないよ。それしかできることないから働きたいと言って、後日にあなたがやりたいことは工作員で良いのですねって確認されて返事をした」
「ふぅん、そう」
スーリは含みを持たせるような返答をした後に「じゃあね」といって去っていった。ラヴィは首を傾げながらも自室に向かった。
半年の月日が過ぎ、ラヴィ達は様々な訓練をこなしていった。
ラヴィは主に小型のナイフと細長い針のような飛び道具の扱いに長けていた。飛び道具に関しては毒の類を塗布させて相手の動きを止めることに特化した戦闘方法を学んだ。スラム街時代に色々なものを口にしていたからか、ラヴィは毒の耐性も強い方らしい。
それに併せて、気配を消す能力と俊敏な動きから偵察から始めることになり、初日の任務時に久しぶりにロイに面と向かって会うことができた。訓練中や屋敷内で彼の気配を感じたことはあるが、顔を合わせることはなかったのだ。
緩く結った漆黒の髪と深い紅い瞳の変わらない姿のロイを見て、ラヴィは久々に話すことができるという気持ちから心臓が早鐘を打っていて、温かく思わず体を揺らしたくなるこの気持ちは何なのだろうか。
「ラヴィ、今日から任務開始だ」
耳朶に染み入るような低音も久しぶりで、ラヴィは思わず目を瞑って堪能したくなったが、命令時にそれはできないので一つ頷いた。アルナドから一通り偵察先や内容の説明を受け、ラヴィの手にも収まるくらいの小さな巾着袋を手渡された。中身を確認すると黒色の錠剤らしきものが入っていた。顔を上げるとアルナドが説明し始めた。
「これはとある信用ある魔女から仕入れた特別に調合された薬です。今後あなたが万が一捕まりそうになったり怪我をして動けなくなったり殺されそうになった時に、一粒だけ噛み砕いてください。その錠剤は一時的にですが、心身の動きを著しく活発にさせて行動に移せるものです。ですが、効果がかなり強いので、その後副作用として倦怠感や頭痛に発熱、間隔を開けずに何粒も摂取すると記憶障害や精神障害に陥って最悪死亡したりするので服用の際には十分お気をつけください。飲まずに帰還することが大前提ですが」
そう言われて再度袋に入った錠剤を見つめる。いざ危険になった時にこれが助けてくれるのかと思うと、これのおかげで主に不利な状態にならずに済むということだ。有事の際には迷わず服用しようと心に決める。
説明が終わった後、ロイが手で自分の片目を覆った。
「仕事中はどちらかの目を覆え。その瞳は狙われる可能性があるからな」
ラヴィは数月経った後から訓練中は布で片方の目を隠すように命じられていて、初めは少しやりづらかったが、程なくして慣れて両目の時と同様の動きができるようになった。これが理由だったのかと納得いってもう一度頷く。ロイから漆黒の眼帯仕様の布を渡された。少しだけ艶のある肌触りの良い黒い布。
(主の髪の色みたい)
何だか心がもぞもぞするような気持ちになり、じっとその布を眺めた。一つ瞬きをしてから、それで片方の目を覆ってからロイと視線を合わせる。
「行ってきます」
そう言うと、ロイが一つ頷く。ラヴィにとってロイは出逢った時からどこか特別なのだと前々から感じてはいたが、久々に会ったロイを見て確信に変わった。ラヴィは軽く一礼してから部屋を出て行った。
数日後、無事に対象者の偵察を完了させた。ロイの執務室で任務の報告を終えた後、彼から「だいたい報酬は金貨だが、問題ないか?」と問われたので、ラヴィは少し目を伏せたあとに金貨より欲しいものがあることを伝える。
「金貨はいらない。なくてもここで暮らせるから。代わりに…」
深い沈むような紅い瞳を見据える。
「頭、撫でてほしい」
「…頭?」
少し首を傾げたロイにラヴィは一つ頷く。
「うん。それで…それが良い」
もう一度頷くと、僅かにロイの紅い瞳が揺れた気がしたが、すぐにそれは消えてしまう。彼が立ち上がり執務用の机を廻ってラヴィの傍まで歩いてきた。ラヴィも少しは背が伸びたのだが、ロイは相変わらず背が高くて近くにいると見上げる形になってしまう。ゆっくりとロイの腕が動き頭を優しく撫でてくれた。
「良くやった」
たった一言の言葉と頭を撫でるロイのほんのり温かい手の感触。
ざわざわと身体中が歓喜して心がざわめく。
(…しい。嬉しい)
凄く満たされて嫌な感情が一切ないこの気持ちが嬉しいという感情で、そういう時に使う言葉なのだと初めて知った。その言葉がするっと自然に出る。
「嬉しい」
思ったままの言葉を伝えると、ロイが目を丸くしたので普段無表情の彼にしては珍しいこともあるなぁと首を傾げているとすっと目を逸らされて「報酬の金貨はちゃんと貰え」と言って執務の机に戻ってしまった。
後方に控えていたアルナドに呼ばれて一礼して部屋から出ると、「調子に乗らないように」と開口一番に言われたが、驚いた様子ではあったがロイから嫌がる感情は伺えなかったし、それでもアルナドが言うなら今度本人に直接尋ねてみると言うと、苦虫を噛み潰したような珍しい表情をされ「主が決めたならそれで」と言い捨てて去っていってしまった。
それから毎度ではなく、任務によって危険度が高い時に臨機応変に動いたり、一緒に任務を遂行した相手に危険が迫った時に応戦して上手く援護でき、報告時にロイから臨時報酬の話をだされた時だけ、ラヴィは頭を撫でてもらうことをお願いした。
その時も金貨の報酬は要らないと言ったが、「それとこれとは別物で正当な報酬だ」とロイに頭を撫でられながら諭され、胸をむずむずさせながら頷いた。頭を撫でられる度に「撫でてもらうの嬉しい」「むずむずする」と胸元を押さえながら思ったままを伝えると、ロイは微かに紅い瞳を細めながら「そうか」とだけ答える。近くで声を聞けるだけでラヴィはとても満たされていた。
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