初めて
「着いたぞ」
お腹から響くように聞こえた低音でラヴィは目が覚めた。目の前には人の背中、自分の体が折り畳まれているような格好でいる状況を数秒後に理解した。ふわりと降ろされ地面に足を着ける。痺れていた足の感覚は殆ど戻っていた。それよりも人の肩に担がれ眠っていたことに内心で驚き、口元に手を当てて涎を垂らしていなかったことに安堵する。
周りを見ると、どこかの大きな屋敷の中の庭のような場所に居た。
「アルナド。これに一通りを教えておけ」
側に控えていたアルナドと呼ばれた銀髪の男にそう言って紅い瞳の男が去ろうとするのを「あの」と声をかけて留める。振り向いた彼にラヴィは自分を指して口を開く。
「ラヴィ。あなたがつけた。あなたの名前」
自分を指した手を彼に向ける。後方からアルナドの殺気を感じたが、目の前にいる男の表情は崩れずに、ラヴィに近寄りゆっくりと腕を上げてさらりと頭を撫でて口を開いた。
「―――ロイだ」
そう言って踵を返して屋敷の中に入っていった。
ラヴィは口元だけをロイ、と動かして触れられた頭を自身の手で触れた。怖くなかった彼の手。心臓がとくんと鳴り、何だか温かい。
(ロイ。私を助けてくれて、名前をくれた人)
そう心の中で呟くと、またじわっと温かくなった心臓に今までに感じたことのない感覚に何とも心許ない上手く処理できない気持ちになる。
その後アルナドに目の前に見える巨大な規模の屋敷に連れて行かれた。ラヴィが住んでいたスラム街から離れた閑静な貴族専用の屋敷よりも広大で堅牢な様だ。何より貴族の屋敷と異なるのが、要所に護衛のような人間が立っていて、誰もがその辺の貴族から雇われている護衛よりも格段に隙のない人間ばかりだった。
玄関を通ったところで、ロイのことや暗部組織の塒として使用している屋敷のこと、掟の項目など右腕として主に屋敷を取り仕切っている銀髪に銀色の瞳のアルナドから説明を受けた。
初っ端から、「名前で呼ぶことは許しません。主と呼びなさい」と釘を差された。ロイの態度から、間違いなく一番上の存在なのだろうし、単にラヴィに名前をくれた人の名前を覚えておきたかっただけなので、頷いておいた。名前を聞いて心臓がそわそわしたことは話す必要はないだろう。アルナドは僅かに眉を寄せたが、話を続けた。
この屋敷は国が関連する暗部組織であり、そのトップは頭領のロイだ。主にダージェス国の重要な人物とその周辺を守り、時には制裁するために創られたものらしい。重要な人物に繋がりを担っているのがロイである。
そしてラヴィが捕まりそうになった鈍色服の相手こそが、ロイ率いる【パジュス(国で粛清という意味)】という組織の対抗勢力である暗殺組織【アルディス(破壊)】であるらしい。恐らくそこで対抗勢力に襲われていたラヴィを助けたのは、多少なりとも動けそうで使えるかもしれないと助けたのかもしれないし、忌避されがちなオッドアイの存在を何かに有効活用しようとしたのかもしれない。
アルナドが「たまたま運が良かっただけですので、勘違いしないように」と念押ししてきたのはそういうことだろう。今まで無条件で手を伸ばしてくれたのはユーリとスーリだけだ。そしてスーリの唯一の身内をラヴィのせいで死なせてしまったのだ。スーリが一人前になるまでは何としてでも見守っていきたい。
工作員は元騎士や傭兵、個人で活動していた暗殺者、元貴族など様々で、スラム街出身や奴隷も居たことがあるらしい。アルナドの言動を聞いている限り粗暴な感じは全く見られなかったので、元々の身分は低くはないのだろうと思う。
スーリを探すことは数日待てとアルナドからは聞いた。額を押さえながら「何故こんな子供をもう一人も―――」とぼやいていたので、主の命令は聞くがきっと納得も賛成しかねるのかもしれない。
(まあ、スラム街出身の何もできない子どもを二人も育成させるのはきっと大変なのだろう。でもスーリは間違いなく強くなるのに)
ラヴィが考えるのはこの程度だ。生まれから望まれた人間でないことは物心つくころから嫌でも理解してきた。今回のきっかけがなかったらラヴィは名前もずっと無いままスラム街で息絶えるか、どこかで誰かに殺されているか、屈服させることを好む下品な男の玩具としてそれこそ奴隷のような生活を送っていただろう。
(でも、今ここにいる。あの人…ロイ。触れられても気持ち悪くなかったし、良い匂いのする人。主は私を拾ってくれた。私にできることは使える人間になること)
頭を撫でられた時に心にじわっとくるあの温かさ。…ラヴィが沢山役に立てるくらい使えるようになったら、もしかしたら頭を撫でてくれることがあるかもしれない。
「使える人間になるには?ここで強くなれる?」
部屋に案内してから屋敷の詳しい説明しようと移動を始めたアルナドに向かってラヴィは尋ねる。彼はラヴィの言葉に対して何を思ったのか、目を少し丸くしてから怪訝そうな表情になった。
「使える、ですか?」
ラヴィは一つ頷く。
「お前程度が使える人間になれると?」
口調も言葉も馬鹿にしたようなアルナドに対しラヴィは気にもならない。貶められる言葉は日常茶飯事だったし、そんな陰惨な生活を送れば感情も表情も欠落するというものだ。ラヴィもスーリも双方乏しい。ただ訂正したいところがあったから言葉を返す。
「ラヴィ」
「は?」
「ラヴィ。ロ…主がくれた。私の名前。お前、じゃない」
アルナドが目を細めた。ロイがくれた名前だ。無かったことにされるのは嫌だ。暫しラヴィを見つめつつ、彼はすっと視線を外して溜息を吐く。
「―――ラヴィは自分が使える存在だと言うのですか?」
その言葉にラヴィは僅かに首を傾げる。
「屋敷の外からここに来るまで見た人間には誰にも勝てないのはわかる。隙がないし気配を上手く調整していたし。今は無理でも練習すればもうちょっと動けるようになる。最悪特攻くらいの役割にはなれる」
その言葉にアルナドが固まる。何かおかしなことをいっただろうか。使えないと判断されれば良くて使い捨てにされるのがラヴィの生きてきた場所では常識だったからだ。
「ご飯と寝床があるなら何でもやるし、主の役に立つなら何にでもできる。なんなら使い捨てに――」
「ちょっと待ちなさい」
ラヴィの言葉を遮るようにアルナドが被せてきた。
「なに?あとスーリの方が多分私よりかなり強くなるよ」
「わかりましたから。私の話を聞きなさい」
アルナドがまたもや溜息を吐きながら額を押さえたので、ラヴィは口を閉じる。
「おま…ラヴィは工作員として働きたいのですか?」
「工作員…暗殺者のこと?」
「…まあそのようなものです」
「それ以外に私を連れてきた理由があるの?」
ラヴィは首を傾げる。小柄とはいえ多少は使えそうだからだと思っていたが、違うのだろうか。それともラヴィ程度の能力では通用しないのかもしれないし、その場合は追い出されるかもしれないと思うと、少し憂鬱になった。
「…人を殺した経験が?」
ああ、そういうことか。物心ついてから10年以上過ぎているはずだ。ラヴィが恐らくあまりにも幼く見えるから使えないと思ったのだろうか。それならば、できるだけ使えると思われるように伝えなければ。
「物心ついた時からスラム街にいて親っぽい大人なんて居なかったから捨てられたと思う。たまたま面倒見てくれたのが、もう一人連れてきて欲しいって言ったスーリの兄。彼は私を守って死んだ。私は女で人より小さくて、目の色が人と違うから良く標的になった。スーリの兄から色々習って既に死んでしまった人間以外には全員やり返した。生きる為に何でもやったし、何人も殺している。そうしなければ明日森の死体置き場に重なっているのは自分だから」
何とか使えると思ってもらえるように、ラヴィは一気に話した。アルナドは静かな視線をラヴィに向けている。まだ足りないかと更に言葉を重ねる。
「スーリは私より一つ年下だけど、間違いなく強くなるよ。でも今のところ私以外には話もしないし心も許さない。私は力はない分、少しは素早く動けるし身のこなしは良いはず。沢山練習させてくれる所があるなら強くなって主の役に立つ」
畳み掛けるように伝える。アルナドは見定めるような視線を向けて何も言わない。ひ弱に見えるラヴィでは無理なのだろうか。
「もし私を追い出すならスーリだけでも。私の言う事なら聞くと思うから」
ユーリを失ったスーリはその原因を作ったラヴィに対してただの一度も恨み言を言わずにいつも側に居てくれた。せめて彼には寝床と食べ物に困らない生活をしてほしいのがラヴィの本音だ。
「…近況はわかりました。スーリという少年は近日探してこちらに連れてきます。そして、ラヴィ。あなたはここに居るなら主の為に、工作員として働きたいという考えも把握しました。私の一存では決められないので後日伝えます。まずは身なりを整えなければ。ついてきなさい」
冷たい視線のまま、アルナドが顎で方向示して歩き始めたのを見て、ラヴィも立ち上がり後に続いた。屋敷の中は華美な装飾もなく無駄なものを一切省いているシンプルな内装だ。護衛に佇む者やすれ違う工作員は全員が漆黒の装いで、二階に上がったところで一人の背の高い女性に出会った。
「リリィ。この子はラヴィです。身綺麗にして終わったら私の書斎に」
長い茶色い髪を頭頂部で一本に縛って垂らしているリリィと呼ばれた女性はラヴィをちらっと見てから、アルナドに視線を向けて一つ頷いた。彼が去っていくとラヴィに向かって「ついてきて」と一言だけ発し、背筋の伸びた綺麗な姿勢で歩き始めたので、ラヴィもその後についていった。
その後、ラヴィの自室になるシンプルな造りの部屋に連れて行かれ、その中に併設されている浴室に入る。初めて湯が出るシャワーというものを知り、湯船というものに体ごと浸かった。使い方が全く分からないラヴィは都度尋ね、リリィはそれに対し必要最低限の言葉で説明し、他は一切喋らなかった。
シャワーを浴びた体から流れる湯は汚水のように濁り、何度も液体石鹸を使っては湯で流し、三度目にようやく泡立ってきた泡が気持ち良い。軋んで指の通らない顎あたりの長さの黒っぽい髪は違う石鹸とオイルという良い匂いのもので洗われ、元の群青色を取り戻していた。湯から上がった後は今までに触れたこともないふわふわの白い布で拭かれてから下着とダークグレー色の上下服を渡された。
「女の子用の服はないから、取り敢えずこれを着て。後日仕入れておくから」
それはシンプルに頭から被る上着と下のズボンは少し緩かった。「細いな」と言いながらズボンの内側の紐をぎゅっと絞って調整してくれた。ラヴィは少し首を傾げてからリリィを見つめて声をかける。
「あ、りがとう…?こういう時に言う言葉で合っている?」
リリィは少し目を丸くしてから一つ頷いた。彼女はラヴィに対しての負の感情はアルナドほどは無く、どうでも良いという無関心な感じだ。着替えの後に連れて行かれた部屋は長いテーブルに椅子が幾つも並べられ、その奥からは良い匂いがしていた。
その匂いにくぅぅとラヴィのお腹がなる。ここ二日ほどまともに固形物を口に入れていなかったことを思い出す。リリィが奥に向かって歩いていき誰かに話しかけている間、きょろきょろと周りを観察した。
(この長い机のところで皆がご飯を食べている?のかな)
そんなことを思っているとリリィが戻り、隣にはガタイは良いが、足を少し引き摺った白いエプロンをした男が両手に皿を持って来た。
「おう。おめーが新入りか?俺は料理人のジャイルだ。よろしくな」
はきはきとした声音での挨拶という初めての儀礼的な言葉にラヴィは気圧されたが、なんとか「よろ、しく」と返す。ジャイルは「小せえ声だなぁ。沢山食ってしゃきっと喋れよ」と朗らかに笑い、テーブルにことんと持っている皿を置いて厨房に戻っていった。
「ここに座って」
リリィに呼ばれ引かれた椅子に座る。置かれた皿には今まで盗んでいた物とは比べものにならないくらいの柔らかそうなパンと湯気のたつ白い液体に色々な食材らしきものが浮かんでいた。
「今食べられるものはこれだけ。カトラリーの使い方は?」
「カトラリー?」
その返しで知らないことを理解したのか、リリィはスプーンとフォークというものの使い方を簡潔に教えてくれた。食器同士あまり音を立てるなと言われ、ゆっくりとスプーンを動かしながら白い液体、クリームシチューと言う食べ物を口に含もうとすると、「熱いから息を吹きかけて冷ましてから」と更に言われ、恐る恐る吹きかけると顔に温かい空気が顔に舞う。口に含んでみると口内にとても濃厚な優しい味が広がって舌がびりびりと震え唾液が出るのがわかった。
「なにこれ。美味しい」
そう言いながらずずっと音を出し、リリィに都度食べ方を教わりながらも、なんとかカトラリーなるものを使いながらあっという間に食べきった。食べる前と後の挨拶も教えられ、こんなに美味しい物の為ならいくらでも感謝の挨拶をしようとラヴィは思った。
食事を終え、アルナドの書斎に向かうと、今後の話をされた。彼から「暗殺者として働きたい。これがあなたの願いですね?」と聞かれた。その為に連れてきたのに何故何度も聞かれるのだろうと少し首を傾げたが、頷く。するとアルナドが微かに安堵するように息を吐いたことに気づいたが、ラヴィにはその理由がわからなかったので流すことにした。
それから数日間、普通の暮らしとしての最低限のマナーから始まり、どれくらい動けるか、何に特化しているかをあれこれと試しながら調べられていた。
ラヴィが来てから十日経った頃、スーリが屋敷に来たと知らされ会いに行った。屋敷のある一室に呼ばれ、ノックをして返答があってから入ると、そこにはアルナドを無表情に見つめて佇んでいるスーリがいた。大きな怪我もなく無事な姿にラヴィはほっとした。
「スーリ。無事で良かった。あれから誰かに襲われたりしなかった?」
その声でラヴィを認識したスーリは、振り向いて僅かに目を見開いてすぐに側に来てくれた。
「それはこっちのセリフ。会えて良かった」
スーリの口から出る言葉を耳にして、アルナドが「話せるんですね…」と呟いている。スーリはと言うと、そこにアルナドが居る存在そのものを忘れているかのようにラヴィを見つめている。相変わらずのようだ。
「奴らに追われて危なかったところをここの主に助けられたの。ラヴィって名前もつけてくれた」
そう言うと、スーリの眉が微かに動いた。
「ラヴィ?ずっと名前いらないって言っていたのに?」
「うん。私の名前。スーリもそう呼んで」
その言葉にスーリは少し思案したような感じのあとに、一つ頷いた。
「良かった、無事で」
「うん。ここで工作員として今訓練中」
「…工作員?」
スーリの声変わり前の掠れたような声色が僅かに低くなり、そして気にも留めていなかったアルナドの方に視線を移した。彼はその視線を受け肩を竦める。
「彼女の希望ですよ」
それを聞きスーリがラヴィの方を再度見てきたので、頷いた。
「それくらいでしか助けてもらったものを返せないから。他にできることなんてないし」
「―――そう」
そう返したスーリは何故かアルナドの方に視線を移す。
「私はスーリもあそこから助けて欲しくて頼んだ。私より強くなるはずだからって。でもスーリがそういうの嫌いなら無理はしないで」
確かにラヴィよりも才能も能力もありそうだが、そのものを嫌悪しているなら話は別だ。それに他に仕事があるかもしれない。スーリは静謐な眼差しでじっとラヴィを見つめて一つ瞬いた。
「やる。ここで働けばラヴィと一緒でしょ」
「嫌じゃない?我慢していない?」
「うん」
スーリの表情から見るに嘘はついていなさそうだ。ラヴィも一つ頷いてアルナドの方に視線を移す。
「では、スーリ。主との顔合わせをするので私についてきてください」
二人が出ていくのを見送ってから、スーリの姿を見て安全を確保できたことに安心してラヴィも午後の訓練の為に部屋を出た。