出逢い
華やかで活気のある街並み、街路樹や花壇には季節折々の木々や花々。街道は様々な店が立ち並び、売り買いの声が賑わい毎日が盛況だ。その周囲には綺麗に整えられた広場や国立公園、演劇場や巨大な図書館に美術館なども近辺に併設されている。
周辺国からは豊かな国と評されるダージェス国だが、貧富の差の名残が未だに区別されている状態だった。数年前までは先代国王の杜撰な政治と享楽に呆け、国民の血税から成る国庫を私利私欲で散財、数々の愚昧な行いで国は傾き国民は嘆き、憤り、苦しんでいた。
暴動一歩手前まで国民が追い詰められた時、その国の王太子が国王としての在り方と落ちぶれた威信に対して反旗を翻した。既に周りの臣下の殆どを取り込み、国王始め甘い汁を吸っていた一部の臣下を共に葬ったのだ。
それから年々国は少しずつ息を吹き返し豊かになりつつあるが、それでも手が回らない所は多々にある。華やかな街並みから外れ、更に小さな森林地区を抜けて進んだ所。そこは盛んな街並みとは真反対な環境が犇めいている。
今にも壊れそうなひびばかり入った壁と、そこかしこに穴や腐って所々崩れた屋根。補修することもできない廃れた家屋の中には血の繋がった家族でもない、どこで生まれた誰なのかもわからない多くの子供たちが身を寄せてひしめき合っている。
整備されていないガラクタや土と様々な汚物が混ざる道、壁や道を彩る血痕や腐臭する何かの残骸。ここは国の最下層、スラム街だ。その場所でさえ弱肉強食の権化となっていて、劣悪な環境を住居として日々犯罪が繰り広げられている。
弱い者から息絶えていき、近くの雑木林に投げ込まれる。葬る方法などないのだ。強い者が弱い者を使い屈服させ、時には犯罪を犯させ捨て駒として扱い、一日一日が死ぬか生きるかの争いが蔓延しているのだ。
少女は物心ついた時から、このスラム街で暮らしていた。物乞いをする年端もいかない子供たち、自分より強い者からの理不尽な暴行、ここでは非情にならなければ食い扶持すら賄えず、餓えて死んでいく日常。必然と犯罪に手を染め生き残る為に手を汚し、時には蹂躙され、相手に隙を与えさせない為に身のこなしを磨き、小柄で非力な少女でも相手の弱点を感情や行動から読んで如何に有利に動けるかを日々学んだ。
加えて少女は容貌が少し特殊だった為、良く標的にされた。
瞳の色が左右違うのだ。その珍しい瞳を悍ましいとか忌み子だと貶す者もいれば、人買いに売ろうと捕まえようとする者もいた。
そんな劣悪な環境でも少女が何とか生き抜いてこられたのは、ある程度自ら動けるようになるまで守ってくれた年上の少年だった。その少年は物心ついた頃から少女の傍に居てくれて様々な生きる方法を教えてくれた。その少年はひょろっとした細い体型に見合わず、喧嘩が強く頭も良かった。
だが、少女がある程度自分の食い扶持が稼げるようになった頃、とある組織の下っ端構成員がスラム街に子ども誘拐目的で襲来した際に、その少年が返り討ちにした後、その仲間に報復されて死んでしまったのだ。
その少年には弟が居て、少女は自分より一つ年下の弟、スーリを守ろうと日々犯罪に手を染めていた。元々の運動神経の良さと、攻撃を俊敏に躱せる動体視力と身体を靭やかに使い、その辺に落ちている木や石、盗んだ小型のナイフ等で相手の急所を突いて攻撃していた。
壮絶な生い立ちから、相手が自分へ向ける感情の善悪が判断できるほどには、否が応でも様々な経験を積んできた。だいぶ能力がついて来た頃、たまたま遭遇した少年を殺した鈍色の服を着た構成員の一人を、隙をついて葬ったのはスーリに内緒だ。彼の家族を奪った残りの奴らもいつか報復してやると思いながら。
数年後、少女は目をつけられやすい瞳をいつも布で片目を隠して行動して、最近ようやく自分で食い扶持を稼げるようになったスーリと共に日々しのぎを削っていたのだが、最近少女を狙う者が現れた。少女の瞳の噂を聞きつけたのか、はたまたその辺の男よりも殺傷技術を持つ能力を欲したのだろうかは定かではないが、その正体はスーリの兄を殺したあの犯罪組織だった。
運が悪いことに、今回襲来した相手は以前の下っ端構成員ではなく実力の高そうな気配の相手で、しかも複数だった。少女は唯一共に行動して奴らに仲間だと知られていないスーリだけは標的にならないようにと策を弄した。
それでも所詮たった一人の小娘だ。自分が捕まるのは時間の問題だと思った少女は、とある廃屋でスーリと共に息を潜めていた。無事に逃げ切れたら必ず迎えに来ると言っても、猛然と反論してくる彼を不意打ちで気絶させ、薄汚れた薄っぺらい毛布で包み、夜中の静けさに彼等の気配が紛れていないか確認してから立ち去った。
暫くはなんとか逃げ隠れしていたのだが、徐々に追い詰められとうとう逃げ切れなくなった。殺すつもりはないらしく、捕獲目的らしい。麻痺毒が塗られたナイフで斬りつけられた足を引き摺りながらも、白骨化された骸が積み重なる生い茂った林の中でついに動けなくなってしまった。
「あー疲れた。…ここまでかな」
何時間も強者の一人に追いかけられ、いつの間にか瞳を隠していた布も外れてしまっていた。既に息は切れぎれで限界を超えており、少女は呟きながらカラカラに乾いた唇を噛んだ。足音はしないが気配が近づいてくるのがわかる。体のあちこちが傷だらけ状態だが、傷や流血を気にするほどの神経を持たない少女は処置もせずに自分の体に無頓着だ。
(捕まる前に自分で喉を引き裂くか…)
今の環境は良い生活とはお世辞にも言えないが、連れて行かれたとしても見世物や玩具扱いになるか、更に過酷な環境で働かされるかで、碌な所ではないだろうことは明らかだ。あの鈍色服の奴らの行動はどれも真っ当だとは思えなかったからだ。速い呼吸音と脈打つ心臓を感じ、生きていることを実感しながらも、少女は自分の命を断つことに特に何の感慨も浮かばなかった。
(今度生まれ変わるならその辺の虫でも良いから、のんびりした生き方ができれば。スーリに害が及ばないと良いな)
もうこうやって考えることもなくなるのだろうと、近づいてくる気配の方を向いて傷だらけの手で握っている錆びたナイフの刃を脈打つ首筋に当てた。茂る林の奥から鈍色を纏った一人の男が現れた。相手も少し息が切れていて手こずらせた煩わしさからか、ぎらぎらと瞳孔の開いた眼差しを見て、少女は首に当てたナイフに力を込める、矢先のことだった。
「止めとけ」
耳元のすぐ側で抑揚のない低音が聞こえ、そんな近くに居るのにも関わらず気配を探れなかったことに怖気が奔ったと、思った瞬間。その声の持ち主は既に側に居らず、少女の視線の先にいる鈍色服の男の隣に移動していた。
鈍色服の男が僅かに戦闘態勢に入ったような格好で固まっていると思うや、崩れるようにどさっとその場に倒れたのだ。その男は瞳孔が開いたままの状態で絶命していた。その胸からは血が流れていて、立っている男の手には小型の湾曲剣。
(…あの一瞬で?)
少女は数回瞬きをして、ようやく理解した。多少動体視力がある少女ですら、倒れた鈍色服の男を見下ろす彼が何をしたかの動きが全く見えなかったのだ。倒れた者よりも背が高く、漆黒一色の纏いに同じ漆黒の長めの髪を後ろで緩く結っている男が、少女に視線を向ける。
美麗な顔の表情は造られた彫像のように動かず、闇夜に鈍く煌めく濃い紅色の瞳には一切の感情は見られず。まるで先が見えない深い闇のよう。少女は瞬きもせずに彼を見つめる。彼の表情や瞳からは何も感じない。何も読み取れない。
少女は味わったことのない状況に心臓がぐっと掴まれたような錯覚に陥り、思わず息を止めてしまっていたことに気づく。呼吸を再開させながらナイフを持っていない手で胸元をぎゅっと掴む。その男は表情を動かさないまま、ほんの僅かに首を傾げた。
「紫と黄緑の瞳か」
そう言われ、布を失くしたことを思い出した少女は目元に思わず触れた。
(この男も私の目を気味悪いと思うか、金目的に売り飛ばすか、殺すつもりなのか)
少女は彼から視線を外さなかった。恐らく逃げようと動いても何もできないくらい能力の差が圧倒的だと言うことくらいは理解できる。表情も紅い瞳も全く動かない男は首を傾げたまま、視線はそのままで一つ瞬きをした。
「残りは」
視線は少女に向けられたままだが、話しかけたのは違う方向にいた相手にだったらしい。いつの間にか紅い瞳の男の側に片膝をついた男が侍っていたことに気づきひやりとする。その男も黒づくめで、髪の色は銀色だった。
「二人いましたが、一人は仕留めました。もう一人はそろそろ終わるかと」
銀髪の男が答える。紅い瞳の男は片手を軽く振ると、銀髪の男はまた音もなく闇の中に消えていった。その様子を感じながら少女はその男から視線を逸らさないままでいた。何故かと聞かれてもわからない。吸い込まれるようにその瞳から目が逸らせないのだ。もしかしたらこの後彼に殺された場合、最期にその綺麗な紅い瞳を見ていたかったからかもしれない。
「この周辺にいる限り、幾らでも湧いてくる」
良く通る低めの声音で彼が話してくる。追手の仲間のことを言っているのだろう。彼が言うまでもなくそうだろうなと少女も思う。あの鈍色服はどこまでもしつこかったからだ。でもここのスラム街しか生きる場所を知らない少女は他の場所なんて知らない。逃げたとしても更に手練れを差し向けられたら間違いなく捕まるだろう。今までのようには暮らせないだろうことは察している。
そう思いながら眼の前に佇んでいる男を見る。過去の醜悪な大人のように直感的な嫌悪はない。何も感じないといった方が正しい。なにしろこちらを見ている紅い瞳が何を思っているのかさえ分からないのだ。
何も映さないような紅い瞳。少女は彼を見続け、また彼も少女を見続けている。
どれくらいそうしていただろうか。数十秒かもしれないし、もっと短かったかもしれない。ふと彼が少女より少し遠くに目を向けた。
「…終わったか」
何のことだろうと思ったが、先程の銀髪の男との会話から残りの一人を仕留めたのを気配で察したのだろうか。先程の手際の良過ぎる手腕と気配の消し方、跪かせる風格のある佇まい。そして闇夜に溶けるような漆黒を纏う。
彼は暗殺者だろうか。少女を守ってくれていた少年から数年前に聞いたことがあった。この国には巨大な暗殺組織が二つあり、詳しい理由は分からないが双方で対立しているとだけの情報は入ってきていた。目の前にいる人物と鈍色服の男がもしかしたらそうなのかもしれない。
少女は男を見ながら思う。このまま逃がしてくれるか殺されるか。どちらにしろ少女の行く末は彼が握っている。感情の無い紅い瞳が揺らめく。
「一緒に来るか?」
少女は瞬きを一つする。声を発する前に彼が再度言葉を紡ぐ。
「お前の動きは途中から見ていたが、子供とは思えない動きだな」
その言葉を聞き、先程の予想はもしかしたら当たっているのかもしれない。
「…暗殺、組織?」
「ああ」
間を置かずに返ってきたことにやはりと思った。少女は自分が年の割に動けるのは理解していたが、それもスラム街かそれ界隈の中だったからだ。それでも多少でも使えるのかもしれないと考えたのだろうか。
「敵視しなければどちらでも構わん。縛られはするが、今よりはまともに暮らせるし、奴らからは守ってやれるだろう」
どうやら共に行かなくても見逃してくれるらしい、といったところで先程の対立勢力のこともある。今までのようには暮らせない。でもそれならば。
「置いてきた弟分も。でも本人が来たくないと言ったら放っておいてあげてほしい」
これだけは伝えなければ。気絶させて置いてきてしまっているのだ。男は視線を動かさないまま少女をじっと見つめる。
「姉弟か?」
「違う。私を守ってくれた人の弟。きっと私より強くなる」
スーリはまだ幼さが残るが、体幹や素質は少女よりも間違いなく上だ。でも暗殺組織の一員となりたいかは本人にしかわからない。そこは彼の気持ち次第だ。
「すぐに動くと残党がいた場合に勘付かれるから後日になる。どんな奴だ?」
「…目つきが鋭くて切れ長。薄い茶色の髪。私と同じくらいの背で名前はスーリ。この名前を知っているのは私だけ」
「お前の名は」
「ない」
「…名はないのか?」
少女は頷くのを見て男は黙った。そんなに珍しいことなのだろうか。少女から言わせれば孤児で名前がある方が珍しい。スーリとスーリの兄、ユーリには名前があったが、殆どの孤児は名前が無い。いつの間にか名前がある人間もいたが、少女はずっと名無しのままだった。ユーリが名付けると言ってくれたが断っていた。
「名がなければ今後に影響がでる」
少女はそういうものなのだなと頷く。無表情で見てくる男の濃い紅い瞳を見つめながら首を僅かに傾げ、閃いた考えを口にした。
「名前つけて。何でも良い」
男の瞳が微かに見開く。
「俺が?」
少女は頷く。どうせ何かしら付けられるなら、この男が考えた名が良いと思ったからだ。暗号のようなものでも何でも良い。男は思案するように少し目を伏せ、また視線を少女に合わせた。
「ラヴィ」
「ラヴィ?それが私の名前?」
「ああ」
少女は心の中で自分に付けられた名前を紡いだ。
(ラヴィ。私の、名前)
そう認識すると、何だかすっと心の中に染み渡るような不思議な感覚に陥った。
(ラヴィ…うん、良いな)
少女は男を見つめて一つ頷いた。男はその様子を無表情で見返しながら「もう動けるか」と視線をラヴィの後方に動かして呟いた。
「終了しました」
少女の後方から先程の男と思われる声が聞こえてきた。そちらの気配もまるで感じずラヴィは態度には出さずともぞっとする。
「この娘の名前はラヴィだ。こいつも連れて行く」
「―――畏まりました」
少し間をおいて返してきた後ろの男は何故か納得はしていないような感じに少女は聞こえた。これでも人の機微や感情には敏感だ。
「立てるか?」
紅い瞳の男から尋ねられ、少女は頷いて立ち上がろうとしたが、片足が思うように感覚がないことに気づく。先程受けた傷からの麻痺毒が原因なことを思い出し、これではまともに動けないではないかと、折角名前をつけてもらった心地良い気持ちが下降した。
麻痺よりも痛みが増せば動けるだろうと、持っていたナイフを動かない足に突き立て…ようとしたが、ナイフを持つ細い手が誰かに掴まれた。何をするんだと見上げた先には紅い瞳。
「何をしている」
「麻痺毒のナイフで切られたから、上手く動かない。痛みが強ければ少しは動く」
そう返すと、その紅い瞳が僅かに揺らぐ。早くしないと追手がきたらどうするんだと、ラヴィは掴まれた手のナイフを持ち替えて再度構えるが、その手も男の手によって阻まれたかと思ったら、ふわっと体が浮き、とすんとお腹に軽い衝撃を受けた。紅い瞳の男の肩に荷物を担がれたのだ。男はラヴィからナイフを奪い取って、控えていた男に「持っていろ」といって投げた。
「それがないと困る」
相手を確実に仕留められる唯一の手持ちの武器だ。ラヴィが訴えると「着いたら返してやる」と彼は言い、まるで風のように殆ど音を出さず、ラヴィを担いでいることなど障害にもならない様子で軽やかに走り出した。
お腹が彼の肩にあたり圧迫感があるが、今日は朝から何も口に入れていないので戻すものはなく、進行方向と逆向き状態だが、あまり揺れないのもあって不思議と不快感もなかった。
そして今更ながら担がれている彼に嫌悪感がない自分に驚く。そして彼の漆黒の髪なのか服なのか不明だが、安心できるような香りが鼻腔を擽る。
ラヴィは人に触れられるのが殊の外嫌いだ。それは過去の理不尽な暴力や蹂躙による。唯一触れられるのはスーリとユーリだけだった。その二人ですら、急に動かれると体が強張ったり防御態勢をとったり反撃してしまうのだ。
だが、紅い瞳の彼に対しては何も沸き起こらなかった。彼の動きがあまりにも素早かったのもあるが、それでも時間差で暴れて逃れるという選択肢は存在したはずなのに、それがなかったということだ。更にいうなら担がれて体勢的にも楽ではないのに、何故かここは大丈夫だという安心感のようなものがあった。
何故だろうとラヴィは逆向き状態で首を傾げながらも、一日中鬱陶しい相手に追われてかなり体力的にも消耗していたことと、彼から香る匂いに纏われ担がれた状態であろうことか、うとうとしてきた。
(疲れた…眠、い)
そんなことを考えながら警戒心が薄れていき、耐えていた瞼を閉じてしまった。暫くして意識が深く沈もうとする直前、「…寝るか?この状況で」と呆れたような声が聞こえたのはきっと気のせいだと思うことにした。
作者的にはハッピーエンドですが、読み手によってはメリーバッドかもしれません