8、それを知っている理由
パンとスープを持って行ったあの日以来、私はミハイル様の生活リズムを考えて、午後の執務室へ適当な食べ物を持ち込むのが日課になっていた。
執務の邪魔にならないよう、気楽に食べられて手の汚れないもの。それでいて、栄養も摂れるもの。
料理長のアンヌさんも毎日一緒に工夫を凝らして考えてくれていた。
今日もアンヌさんと相談していると、いつの間にかマリーが隣にやってきて、私の用意した軽食を見ていた。
「どうしたの? これ」
マリーは不思議そうな顔で尋ねてくる。
「あ、公子様の軽食を用意したの」
私は準備をしながら答えた。
「……そうなんだ。いつも召し上がるの?」
「うん、手軽に食べられるものなら大丈夫みたい」
「ふーん」
そう言ってマリーは軽食を眺めている。
どうしたんだろう。
浮かない顔をしているマリーを不思議に思っていると、彼女は私の顔を見てハッとしたように笑顔を作った。
「すっかり公子様の信頼を得たのね! すごいわアリシア」
「あ、うん、そうかな……?」
信頼、というほどの大袈裟なものではない気がするけれど……。
でも、マリーが満面の笑顔で讃えてくれているので曖昧に笑って応えた。
「ほらほら早く持ってお行き。公子様は時間に厳しい人だからね」
アンヌさんは優しく促す。
そうだ、ここ最近はこの時間に運ぶというルーティンができている。
ミハイル様は自分のペースを崩されるのを最も嫌う人だ。
「はい! 行ってきます」
私が元気よく答えると、マリーとアンヌさんは笑顔で送り出してくれた。
執務室に着くと、ミハイル様は相変わらず忙しそうに仕事をこなしているので、いつものように机の片隅にそっと軽食を置く。
ミハイル様は、当たり前のようにその軽食をつまみながら仕事を続ける。
ぱくぱくと食べている姿のミハイル様は、なんだか可愛い。
そんなことを思い、ほっこりした気持ちでミハイル様のその様子を眺めてからお茶を入れに作業台へ戻ろうとした。
あ……。
ふと、机の上にある処理済みの書類が目に留まり、文末にあるはずの文字が無いことに気づく。
この国では、公爵家が王宮に提出する公的な書類には、当主のサインの横にあらかじめ決めた宣誓文を入れるのが慣例だ。
「公子様、ここ宣誓文が抜けていますよ」
私は笑顔でその書類を指差してから、お茶を淹れるため作業台へ戻ろうとした。
「待て」
そう言って、ふいにミハイル様は私の手首を掴んだ。
わっ。
突然の触れ合いに、私は胸がドキッと跳ねる。
「これは公爵家の当主かもしくはそれに準ずる者でなければわからないだろう。君はなぜそれを知っている?」
ミハイル様は鋭く目を光らせながら質問してくる。
手首に添えられたミハイル様の感触に気を取られ、反射的に口を開いた。
「ええ、前、」
そこまで言って、私は慌てて自由になっている片手で口を押さえた。
「ん? ぜん?」
ミハイル様は不思議そうな顔で聞き返してくる。
あ、あぶない……!!
前世でやってたから、って言いそうになっちゃった。
この単語、ミハイル様の前では絶対禁句よね。この前も相当怒ってたし。
2度目の前世で公爵家の女当主になったから知ってることだけど、確かに田舎の貧乏子爵家出身のメイドが知ってたらおかしいよね。
「い、いえ、ぜん……全然偶然なんですが、私、本を読むのが好きで、この前、流行りの推理小説に書いてあったのを読んだんです! やっぱりこういう公的文書にはそういった文言が必要なんですね!」
「……推理小説が好きなのか?」
ミハイル様が意外そうな顔をして聞いてくる。
「はいっ!」
「そうか、どんな作家が好みなんだ?」
「え、えーと、最近は、モスキート・パブロフ……が好きです」
この前、来客の貴族男性たちが本の話しをしていた時に聞こえた名前を思い出して言ってみる。
「ほう、最近話題の気鋭作家だな。私も彼の作品は好きで全て読んだが、そんな話があったかな……」
わっ、全部読んでるの?しかも内容まで全て把握してる……?!
どうしよう、これ以上突っ込まれたら返しようがないよ。
うまく誤魔化さないと……。
えーと、えーと、ミハイル様が絶対読まなさそうな本はあるかしら。
あっ!恋愛小説なら絶対に読まないだろうから、そっちにしよう。
恋愛小説が好きなことは嘘じゃないし!
「ああ! 間違えてました、最近好きになった恋愛小説家のピエール・ラッセンという作家の小説でした!」
「ふむ、恋愛小説か。私は詳しくないジャンルだ」
ミハイル様は馬鹿にするでもなく、真剣に受け止めてくれた。
「ええ、とても素敵なお話でした。身分違いの恋を描いた作品なんですけど、ヒロインの恋する相手がすごく素敵なヒーローで、」
先日読み終わった小説を思い出して、思わずうっとりしてしまう。
「ほう、どんな風に素敵なんだ?」
「ある時ひょんなことから夜会に参加することになった二人は、ドレスの買えないヒロインのために、ヒーローが予約の取れない国一番のドレス店を貸し切って着飾ってあげて迎えに来るんですよ! まるで王子様とお姫様みたいですよね!」
興奮して話す私に引いたのか、ミハイル様は無表情で私を見ている。
「…………」
し、しまった。
「ええっと、そういうわけで、恋愛小説でも世の中の色々なことを知ることができて意外と勉強になるんですよ〜」
私は慌てて愛想笑いを作りながら早口で捲し立てた。
「……もういい。行け」
ミハイル様はそんな私の様子に呆れたように溜め息をついて、掴んでいた手をパッと離し、顔も見ずにそう言い放った。
う、危なかったよう。
でも、これ以上追求されなくて良かった。
大慌てでお茶を出してから部屋を出て扉に寄りかかり、ホッと胸を撫で下ろす。
先ほど触れられた手首を、もう片方の手でそっと触れた。
そういえばまだ、ミハイル様の大きな手の感触が残っている気がする。
そう思った瞬間、胸がとくんと小さく跳ねた。
ふと、先ほどぱくぱくと軽食を食べていたミハイル様の無防備な様子を思い出して、思わずくすっと笑ってしまう。
無愛想で冷たいところもあるけれど、生真面目で可愛いところもあるのよね。
なんだかんだ言いながらも、私の提案にも真摯に向き合ってくれるし。
こんな、穏やかな日々がずっと続いていくといいな。
そんな風に思っていた矢先にあんなことに巻き込まれるなんて……。
私って本当にツイてない……!