7、ピットパン
ホールでの会話の一件から、私はミハイル様の中で『変な人』になったようだ。
私としてはあまりいい印象ではないように思えるけど、以前に比べたらとっても話しやすくなったので良いことにしておこう。
今日も相変わらず時間に厳しいミハイル様に、きっかり午後3時のお茶を届けるために準備中だ。
ここのところ忙しさを極めているミハイル様にはハーブティーだけでは足りないような気がして、アロマを炊いたり花を飾ったり、できるだけ疲れが取れるような環境作りに専念している。
少しでも元気になって欲しいんだけど……。
午前中に見かけたミハイル様は、特に顔色が冴えなかった。
ちゃんと寝てるのかな。
そんなことを考えながら厨房でお茶を準備していると、料理長のアンヌさんが傍にやってくる。
彼女は、『まるで娘のようだ』と私のことをいつも気にかけてくれていた。
「公子様のハーブティかい?」
「はい。お疲れのようなので、疲労回復のハーブをブレンドしました」
「それはいいね」
アンヌさんは優しく微笑んでから、少し困ったような顔になる。
「公子様はここのところ特にお忙しそうだからね。お身体が心配だよ」
「そうですね」
「夜のお食事も外での会食や打ち合わせの場でしか召し上がらないようだから、最近は張り合いがないねえ」
あれ?そうなの?
私は不思議に思って問いかける。
「家でお食事を召し上がっていないのですか?」
「ああ、ここのところずっと外で済まされているよ」
アンヌさんがそう答えると、執事さんが顔を出し食材の卸し業者さんが来ているからと呼び出されてアンヌさんは行ってしまった。
……おかしい。ミハイル様は外でお食事をなさることはあまりしない。
ミハイル様のお世話が増えてから知ったことだが、外食自体が好きで無い彼は、夜会に参加しても極力飲食をしないし、仕事の場でも基本的に食事は抜きにする。
常に仕事ばかりしているミハイル様は朝も昼もまともな食事を摂らないことが多い。
ここ最近は、屋敷内の別の仕事を任されることも多くなっていたので、ミハイル様の食事事情についてまで把握できていなかった。
今のアンヌさんの口ぶりからすると、ほとんどご飯を食べていないということになる。
だからあんなに顔色が悪かったのね。
まったく、そんな状態であれだけの仕事をしているなんて……!
私はハッと思いつき、厨房の食材を念入りに見回した。
そんな私の目に飛び込んできたのは、こんがりときつね色に焼き目のついたつやつやのパン。
あ!ピットパン!
これは1度目の人生でも、あの教会で食べて命を繋いだ素晴らしいアイテムよ!
あの1度目を生きた時代に、ピットさんという有名なパン職人が生み出した、この国では知らない人はいない平民から貴族まで愛するパンなのだ。
うん、お腹が空いた時はこれこれ!
お鍋にはちょうどスープもあったので温めてからお皿に盛ってパンを添える。
そうして私は意気揚々とミハイル様の執務室へ向かった。
部屋へ入ると、やはりミハイル様は顔色が優れない。
私はお茶の準備の前に、パンとスープをミハイル様の机に置いた。
「これは何だ?」
いつもの感情の見えない表情で私に問いかける。
「これだけでも食べてください」
「必要ない」
冷たく言い放ったミハイル様に少し戸惑うが、身体を心配する気持ちの方が上回り不思議と怖くはなかった。
ずっとこんな生活をしてたらいつか倒れてしまう。
「いいですか? 食べることは生きることです!」
私の押しの強さに気圧されたのか、ミハイル様はペンを持つ手を止めて私を一瞬見てから、目の前に置かれた食事をじっと見つめた。
「これはピットパンか……?」
あ、さすがに高級な食材を食べ慣れたミハイル様にはこんなものじゃダメだったかな。
一瞬、怯む気持ちが芽生えたが、後には引けない。
もし怒られてもしょうがない。でも、食べないのは体に悪いから。
「あ、ええ……公子様のお口には合わないかもしれませんが、空腹を満たすにはちょうどいいんです。少しでも食べてください」
お、怒られるかな…………?
ちらりとミハイル様の顔を窺うと、ピットパンを見つめてぼーっとしている。
「あの、公子様?」
「あ、ああ。分かった」
そう言って、ミハイル様は私を咎める様子もなく大人しく食べ始めた。
よかった!
怒られるかと思ったけど、意外に素直に食べてくれた。
私はほくほくした気分でその様子を確認してから、ハーブティーを入れる準備を始める。
ミハイル様は、私のその様子を見ながらぼそりと何かを呟いた。
「まさか…………」
「えっ??」
私は何かをご用命なのかと思わず声を出して顔を上げると、ミハイル様は慌てて目を逸らした。
「い、いや、何でもない。気にするな」
「あ、はい」
??
どうされたんだろう。
やっぱり私の行動がお気に召さなかったのかな。
そんな不安をよそに、その後ミハイル様はパンとスープを全部しっかりと平らげてくれて、私はひと安心していつものようにお茶を出したのだった。