5、前世はお嫌いのようです
あの日、鞭打ちにはならなかったものの、粗相をしたことでミハイル様周りの担当から外されてしまうのではないかと少し心配だったが、特にお咎めもなく仕事を続けていた。
やはり、人が足りないというのは切実らしい。
お茶を運ぶのも、お食事の用意も日が経つにつれて慣れてきたので、目立った失敗もなくこなせている。
そつなくこなせているおかげで、相変わらず冷たく厳しい様子ではあるものの、ミハイル様は私にはやましい意図がないということを認識してくれたようだった。
い、いや、やましい気持ちが無いことはないんだけどね……。
美しいそのお顔を見れるだけで十分!
今日も、ミハイル様の麗しいお姿を見られたことに満足しながら、使用人専用の食堂で昼食を摂っていた。
「隣いいですか?」
声を掛けられ頷くと、同じ年頃と思われるメイドの女の子たちが数人、近くの席に座った。
「新しい人よね? もう慣れた?」
「あ、はい、なんとか」
「公爵様も公子様も顔は怖いけど、ミスさえ気をつければ大丈夫よ」
そう言ってみんな笑って頷いている。
「そうね。もう屋敷内で迷っちゃだめよ」
そう言って、私に笑いかけてくる可愛いメイドさんが目に入った。
肩まで伸ばした栗色の髪はゆるやかなウェーブが当てられていて、とてもキュートな魅力を放っている。
あ、この人は、初日に厨房までの道のりを教えてくれたメイドさんだ!
「あの時はありがとうございました」
「ふふ。初めての人はみんな一度は迷うから」
「今度は気をつけます」
彼女は私の言葉にくすっと笑ってから、ハッと思い出したように言う。
「あ、私はマリー・ボナールです。マリーって気楽に呼んでね」
その名前には聞き覚えがあった。彼女はボナール男爵家の令嬢なのね。
私はまだ自己紹介していないことに気づき、みんなに挨拶をした。
「あ、私はアリシア・ルリジオンです」
「よろしくね、アリシア」
マリーはとても人懐っこい笑顔で答えてくれた。
「はい、マリー」
私も思わず笑顔で答える。
他のみんなともそれぞれ挨拶をして名前を教え合う。
年も近そうだし、みんないい人そうで良かった。
そんなホッとした気持ちでみんなと他愛もない会話をしながら食事を続けていると、突然メイドの一人が青い顔をして慌てて食堂に入ってきた。
「だ、誰か、王宮の正装着を着付けられる人はいませんか?!」
彼女はとても焦った様子で叫んでいる。
「公子様の着付けを担当している侍従が高熱で倒れてしまったので、できる人がいないんです!」
王宮の正装着といえば、この国特有の貴族の正装だ。
王宮に上がる際には必ずその正装で向かう必要がある。
独特な決まりがあるのよね、特にタイの結び方がややこしいから慣れている人でないと難しい。
貴族男性の場合、本来ならそれは妻の役目であるが、事情があって不在だったり独身者であると、特別に教えを受けた専属のメイドに着付けてもらうことがほとんどだ。
なるほど、女性嫌いのミハイル様はいつも男性の侍従に着付けてもらっていたのね。
私は、昔からお母様のお手伝いで飽きるほどお父様の着付けをしてきたからよく分かってはいるけれど……。
雇われてまだ日も浅いし、あまりでしゃばるのもどうなんだろう。
他に誰もいないのかな……?
そう思って辺りを見回すが、名乗り出る人はいないようだ。
それもそのはずで、先ほどの会話から聞くところによると、ここに来ているメイドの多くは王国のメイド学校を優秀な成績で卒業した者ばかりだったようだが、そのほとんどが平民である。
王宮の正装着を手伝う機会などはほとんどなかったであろう。
男爵家のマリーはどうなのかしら?
彼女の様子を伺うが、焦る表情を浮かべるばかりで知った様子はない。
みんなに焦りの色が出ていることに意を決して、私はおそるおそる手を挙げる。
「あ、あのう、私できますが……」
青い顔をしていたメイドさんは瞬時に顔を輝かせて私に駆け寄って来た。
「良かった……!! ではすぐに公子様のお部屋へ向かってください!」
そう言って私の手を引っ張り、扉の前まで追い立てた。
ああ、まだご飯が――――。
振り返る間もなく、そのメイドさんに背中をぐいぐいと押され、私は食堂から押し出された。
「急いでお願いします!」
うっ、仕方ない、ここは早く終わらせてまた後で食べよう。
そう思いながら急いでミハイル様の部屋へ向かい、乱れた呼吸を落ち着かせてから扉をノックした。
「入れ」
私が入るとミハイル様は少し驚いたような表情で迎える。
「なぜ君が?」
私が事情を説明すると、仕方なさそうに頷く。
「分かった。では急いで頼む」
予め執事が用意していたらしき衣装のチェックをしてみる。
うん、完璧に揃ってる。さすが公爵家だけあって、小物まで全て一流の品ばかり。
まずはシャツのお着替えからしないと。
そう思って白いシャツに手を伸ばそうとすると、ミハイル様は横からサッと取り上げた。
「自分でやる。君は小物の装着とタイを結んでくれたらそれでいい」
私を警戒しているかのように、ささっと着替えている。
ああ、はいはい。
ミハイル様の裸を見ようとなんてしてませんよ。
視線を逸らし、ミハイル様がシャツを着るのを待ってから小物の装着から始めた。
なるべくミハイル様に触れないよう、慎重に衣装を着付けていく。
タイも素早く丁寧に結ぶ。これは私の得意技なのよね。
うん、いい出来。
「ふむ。悪くない」
鏡の前で仕上がりを見たミハイル様は、タイの結び目にそっと触れながら満足したように言った。
ふふ。お父様に鍛えられましたからね。
しかし、なんて格好いいの……!!
私は改めてミハイル様の正装姿を見て感激する。
さすが王国で指折りの美青年と言われるだけはある!
ああ、メイドになって良かった。
着付けているときは必死で忘れていたけれど、こうして眺めるミハイル様はいつもに増して美しい。
それに、家でお手伝いしていたことも役に立って本当に良かった!
「よくやった」
そう言って、ミハイル様は私に優しい表情を向ける。
初めてミハイル様との間に、和やかな空気が漂う。
珍しく柔和な表情を見せるミハイル様に、私は親近感を覚えた。
「きっと前世は着付け職人だったのかもしれません。ふふふ」
いや、本当は教会の下女と公爵家の女当主と聖女だけど。
ミハイル様の珍しく穏やかな様子に油断していたのだと思う。
役に立てたことに満足して気を良くしていた私の、うっかり気を抜いて言ったほんの冗談のつもりだった。
次の瞬間、ミハイル様はその美しい顔をサッと曇らせたのだ。
「……なんだと?」
ん?なんか空気が変わった?
「今、『前世』と言ったのか?」
「あ、はい」
「そんな言葉を軽々しく使うな……!」
ミハイル様はひどく傷ついたような切ない顔で、私に向かって厳しい口調で言い放った。
一瞬にして張り詰めた空気が漂う。
な、なんで……?!
さっきまであんなに和やかだったのに。
『そんな言葉を使うな』ってことは、前世という言葉がお嫌いなのかな……。
「す、すみませんでした」
私が慌てて頭を下げて謝ると、ミハイル様はハッと我に返ったように言った。
「あ、ああ」
ちょうどそのタイミングで別のメイドがやってきて、迎えの馬車が来たことを告げる。
そのままミハイル様は王宮へと向かって行った。
ふう、なんだったんだろう、あれは。
でも、あの様子だと、私が前世を覚えてるなんてうっかり言おうものなら、それこそバカにしてると思われてどんな仕打ちを受けるかわからないわ。
絶対にバレないように気をつけなくちゃ……!!