18、公爵令嬢のダンス
ヴェルネ公爵令嬢――――。
名前はよく聞いたことがある。
ラバドゥーン公爵家に次ぐ家門だ。
彼女はこの国で王族を除くと、ほぼ一番といえる高貴な令嬢となるだろう。
わあ、綺麗な人。
艶のある漆黒の長い髪にルビーのような美しい赤い瞳。
華やかなドレスに身を包み、その高貴さは溢れんばかり。
気づけば貴族男性との話を終えてこちらへやってこようとするミハイル様と私の間にヴェルネ公爵令嬢がすっと立ちはだかるような形になっていた。
令嬢はミハイル様を熱のこもった瞳で見つめている。
「ミハイル様、お久しぶりです」
「ああ、ヴェルネ公爵令嬢。よく来てくれた」
「ええ、ラバドゥーン公爵家……ミハイル様のためでしたらいつでも駆けつけますわ」
そう言ってヴェルネ公爵令嬢は頬を赤らめながら潤んだ瞳でミハイル様を見つめる。
控えめに言っても、相当美しい。
これほど綺麗な令嬢にこんな風に見つめられて虜にならない男性なんてこの世にいるだろうか。
「それは光栄だ、楽しんでくれ。それでは失礼する」
ミハイル様は手短に答えて令嬢の脇を通り抜けた。
えっ、それだけ?
相手は高位貴族のご令嬢だというのに。
いくらラバドゥーン公爵家が権威ある家門とはいえ、さすがにマナーに反するのでは……。
ミハイル様のあまりにはっきりとした態度に見ている私の方が焦ってしまう。
そ、それに、いくら女性嫌いでもあんなに美しいご令嬢がストレートに好意を持って接しているのに、あんなに冷たくできる……?!
女の私から見てもドキドキしてしまうほどの美貌だというのに。
最近ミハイル様の態度が柔和だから、もうてっきり女性嫌い、人嫌いが治ったのかと思っていたけれど……。
そう考え込んでいると、ミハイル様が私の目の前までやってきて、恭しく手を差し出しこちらを甘い瞳で見つめながら言った。
「アリシア、私とダンスを踊ってくれるか?」
ヴェルネ公爵令嬢と話していたのは別人かと疑いたくなるような変貌ぶりに、令嬢も近くにいた人々も唖然としている。
「あ、ええと、」
みんなの視線が気になり言葉に詰まってしまう。
「ダメなのか……?」
そう言ってミハイル様は私を悲しげな瞳で見つめる。
出た!子犬フェイス。
思わずぷっと吹き出すと、ミハイル様も笑顔になって差し出した私の手を取った。
「行こう」
ミハイル様はそう言って、彼の笑顔を見て唖然としている貴族たちや引き攣った顔のヴェルネ公爵令嬢を尻目に、ダンスの輪の中に私を連れていく。
デュバン伯爵令嬢はそんな私たちを面白そうに眺めていた。
なんだかミハイル様のペースにすっかり乗せられている。
でもそれは、とても心地いい。
踊り出すと、ミハイル様の完璧なリードのお陰もあって軽やかな足取りになった。
音楽に自然と身体が反応していく。
懐かしい、この感じ。
身体はちゃんと、2度目の公爵家当主時代の記憶を残しているみたいだ。
そういえば、2度目の過去世で招かれたベレーラ商団のパーティーでダンスをしたこともあったなあ。
あの時、立場の違いもあって彼とは踊ることができなかった。
ダンスをしている私を見つめる彼の瞳を見て、私は自分の中にある想いを自覚したんだっけ。
私は彼が好きなのだ、と。
身分の違いがあるから、仕事相手だから、恋愛や結婚なんて考えている暇はないから、そんなことは全部言い訳に過ぎなくて。
私はとっくに彼に惹かれ始めていたんだ。
その気持ちを自覚した帰りの馬車に乗る時、見送りにエスコートしてくれた彼と見つめ合った瞬間に人生の幕が閉じた。
私は不思議なことにミハイル様の腕に包まれて踊りながら、あの時の記憶が蘇っていた。
こうして彼と踊りたかったんだ。
そんな想いが頭を駆け巡った瞬間、なぜか涙が出そうになった。
「あの時、君の踊る姿は美しかった」
ミハイル様がぼそりと何かを呟いた声が聞こえて私は我に返った。
「えっ?」
「いいや……。アリシアは綺麗だ」
そう言いながら私の顔を見つめるミハイル様のその表情は、これまで見たどれよりも優しく愛に満ちていた。
踊りながら、自分の心が温かい何かで満たされていくのが分かる。
「公子様も素敵ですよ」
込み上げる気持ちに嬉しくなって笑顔でそう返すと、ミハイル様は握る手にぎゅっと力を込めた。
「名前で呼んでくれ」
「え?」
「ミハイルと」
「ええ! そんな……」
「いいから早く」
ミハイル様は踊りながら私の腰にあてた手に力を込めて体をグッと引き寄せ、耳元で甘く囁いた。
心の中では勝手に呼んじゃってたけど、いざ本人を目の前にしてそう呼ぶなんて緊張する……!
そう思っていたけれど、『早く』と急かすミハイル様はきっと私が名前を呼ぶまで体を離してくれそうにない。
彼の美しい唇がもうすぐにでも耳に触れてしまいそうな距離に、ドキドキしすぎて心臓がもたないと感じた私は観念した。
「……分かりました、ミハイル様」
真っ赤な顔でそう言った私を見て、ミハイル様は心底嬉しそうに笑う。
「ああ、アリシア」
こんな笑顔見たら、やっぱりなんでも許しちゃうよ。
ダンスを終えてから喉が乾いた私を気遣ってミハイル様は軽食スペースに連れてきてくれた。
美味しいシャンパンで乾杯をして二人で話していると、気品のある貴族男性がミハイル様に話しかけてくる。
どうやらお仕事の話しみたいだ。
場所を変えたいと促されたようで、ミハイル様は一瞬戸惑ったような視線をこちらに向けた。
「大丈夫ですよ。行ってきてください」
公爵家の跡取りですもの。社交の場での役割を邪魔してはいけないものね。
安心させるように笑顔でミハイル様を送り出す。
すると、去っていったミハイル様と入れ違いになるようにヴェルネ公爵令嬢が目の前に現れた。
令嬢の傍には3人の貴族令嬢が彼女を援護するように立って私を冷ややかな表情で見ている。
あ――――。
先ほどヴェルネ公爵令嬢がミハイル様に向けていた熱っぽい視線を思い出し、私は瞬時に理解した。
これは、マズい。
穏やかではないこの状況に笑顔を作り身構える。
ふう、こういうのも2度目の公爵家当主時代を思い出して懐かしいわね。
あらゆる感情を隠して戦わなければならないのが社交界だもの。
こんなに警戒心をあらわにされているのなら尚更、警戒を持たれるような言動は慎まなければ。
「お初にお目にかかります公女様、ルリジオン子爵家の長女アリシアと申します」
貧乏子爵家の令嬢にしては完璧すぎる所作が意外だったのか、ヴェルネ公爵令嬢たちは一瞬怯んだように驚きの表情を浮かべる。
これも2度目の人生の賜物ね。
さっきのダンスもそうだけど、こうして夜会に来てみると身体に染み込んでいる完璧な淑女の所作が自然と出てくるとは不思議なものだ。
妙な感慨に耽っていると、ヴェルネ公爵令嬢が気を取り直して威厳ある表情を整えた。
「あなた、ミハイル様のパートナーとして参加されているそうね」
「はい」
私がそう答えるとヴェルネ公爵令嬢は一瞬顔を引き攣らせてから笑顔を作った。
「あらそう。ミハイル様とはどこでお知り合いになられて?」
「ええ、私が公爵家で勤め始めてからです」
「お勤め?」
「はい、公爵家でメイドをしておりますので」
「は????」
ヴェルネ公爵令嬢と取り巻きの貴族令嬢たちは、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
「……。いやですわ、令嬢ったらご冗談がお好きなのかしら」
ヴェルネ公爵令嬢は引き攣りながら取り巻きたちに笑いを誘うように言った。
周りの令嬢たちも彼女に調子を合わせて乾いた笑いを浮かべている。
「いや、ほんとなんですけど……」
「私とお話しする気分ではなさそうですわね。それでは失礼するわ」
「あ……」
ヴェルネ公爵令嬢たちはあっという間にどこかへ行ってしまった。
あらら。
私が揶揄ってると思っちゃったのかな。
私の答えはさすがに彼女の想定外だったようだ。
まあそうだよね。
私だってこんな身分でミハイル様のパートナーになるなんて思ってもみなかったもの。
私はそんな複雑な気持ちでヴェルネ公爵令嬢の後ろ姿を見送った。