9、公爵家女当主のノート
「ちょっと! アリシア来て!」
この数日の間、雨が降り続きなかなか洗えなかった大量のシーツを干し終わったと同時に、同僚のメイドが慌てた様子で私を呼びに来た。
何事だろう?!
「どうしたの?」
一緒に洗濯を干していたメイドたちもキョトンとしている。
質問に答えてもらう間もなく、そのまま私は厨房へと引っ張られて行った。
厨房へ入ると、メイドたちがアンヌさんを囲んでいる。
その傍には執事のポサメさんもいた。
「連れてきました」
私を呼びに来たメイドが言うと、皆が一斉に振り向く。
アンヌさんは私を見て、困った顔をしている。
一体どうしたんだろう?
不思議に思う私の傍へポサメさんがカツカツと歩いてきた。
「実はですね、ここ最近、仕入れの材料の質が落ちていることが発覚しまして――」
??
「よくよく調べてみると、当家指定の食材が全てグレードの低いものに差し替えて発注されていたのです」
食材の質が落とされていた……?
「仕入れ先の書類を取り寄せて照合してみたら、どうやら犯人はその差額分を懐に収めていたことが判明いたしました」
なるほど、勝手に仕入れ先とコンタクトを取って操作したってことか。
悪いことを考える人がいるものね!
そう思い、内心憤っていると、ポサメさんは私の前に紙の束を差し出して言った。
「その書類には全て、アリシアさんのサインが入っていたのです」
?!?!?!?!?!
な、何ですって?!?!?!
驚きすぎて声にならない私に、ポサメさんはサインの部分を見せるようにすっと束を広げた。
書類を凝視すると、確かに私の名前のサインが連なっている。
何、これ?!一体どういうこと?!
すると、集まっていたメイドの一人が、か細い声で呟いた。
「その……アリシアの……ルリジオン子爵家は厳しい経済状況を抱えているって噂を聞いたことがあります」
うっ。今そんなこと言われても…………確かに私の家が貧しくて厳しい状況だっていうのは嘘じゃないから否定できない。
でも、こんな身に覚えのないことが起こるなんて……!!
「私は誓ってそのようなことはしておりません!」
必死にポサメさんに訴える。
「そうですね、あなたがそんなことをするような人ではないと、料理長のアンヌさんも訴えておられます……。ただ、このように状況証拠が揃ってしまっている以上このままにはできません」
そんな……。
「この件に関しては、公子様にご報告して対処していただく必要があります。アリシアさん一緒に来ていただけますか?」
ポサメさんの紳士でありながら有無を言わせない迫力に、私は為す術もなく頷いた。
どうしよう。私、どうなっちゃうの?!
パニックに陥った私は、ポサメさんに連れられてミハイル様の執務室までやってきた。
ポサメさんはこれまでの経緯をミハイル様に淡々と説明している。
私は、冷静に話を聞いているミハイル様の顔を見ていたら、段々と落ち着きを取り戻すことができた。
ふう、どうしよう。
私じゃないって証拠をはっきり提示できないと、ここには居られなくなってしまう……。
そう考え、落ち込みかけた私は机に広げられた書類に目を落とし、偽造されたサインをぼんやりと眺める。
もう、誰がこんな偽物のサインを書いたのよっ。
ひどいなあ、偽物のサイン……。
ん?!
そうよ、これは偽物のサイン!!
私はハッと閃いて、難しい顔をしている二人に向かって話しかけた。
「あの……。これ、私が書いたものではありません」
「それが証明できるのか?」
ミハイル様は、冷静な様子で私に尋ねた。
「あ、はい」
そう言って、私はいつも仕事のメモをしているノートをポケットから取り出した。
実は私、左利きなのである。
ペンとインクを使って、右利きの人と同じように左から右へ文字を書こうとすると、どうしても手が汚れてしまう。
それを回避するために、私が最終的に編み出したのは、右から左へ縦に文字を書いていく方式だ。
この国では左利きということ自体かなり珍しく、さらにはこの私の書き方にいつも驚かれる。
これは一つ目の前世から変わらない。
特に2度目の人生の公爵家当主時代は、一緒に仕事をする人によく驚かれていたっけ。
この書き方は、一つひとつの文字が独立しているこの国だからこそ可能な方法で、文字に区切り目のない遠い異国では難しいのだとか。
それは、2度目の人生で一緒に仕事をしていた取引先の商団の新人だった青年から聞いた話だ。
先日、この公爵家にも来ていたベレーラ商団がまだ出来たばかりの頃。
そして、その商団の新人であった彼こそが2度目の人生で恋に落ちた相手である。
そんなことを懐かしく思いながら、ノートを開いてミハイル様に手渡し、自分が左利きであることを説明した。
「なるほど……。これなら彼女ではないのは明らかですね。筆跡も全く違う」
横からノートを覗き込んでいたポサメさんが、深く頷きながらミハイル様に言う。
ミハイル様は、驚愕した表情で私のノートを凝視していた。
あ、珍しい書き方だからびっくりしたのかな。
「公子様?」
ポサメさんが声をかけると、ミハイル様はハッとした表情で慌てて答えた。
「あ、ああ。そうだな。彼女はそのようなことはしていない」
ミハイル様は私とポサメさんに向き直り、普段通りの威厳ある態度で続けた。
「この件は引き続き調査して、アリシア・ルリジオンの名誉回復に努めよう」
ミハイル様は私へ気遣うような視線を向ける。
「君はもう戻っていい。今日はゆっくり休んでくれ」
その一言に安堵して私は深い息をついて言った。
「はい、ありがとうございます」
あああ、助かった……!
私、左利きでよかった……!
心の底から安心して、私は二人に一礼をして部屋を出た。
そんな私の後ろ姿を、考え深く見つめるミハイル様のお姿など、今の私には目に入れる余裕もなかった。