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後編

 朝、目が覚めると、やはり彼はいなかった。

 私は起き上がり、少し伸びをした。

 彼は去ったが、何故か清々しい気分だった。

 体もどこか軽い。

 不思議なことに、彼が無事ならそれでいいとすら思っていた。

 そんな時、いきなり家の扉がゆっくりと開いた。


「あ、ごめん。起こしちゃった」


 アベルだった。

 昨日までの薄汚い獣のような彼ではない。土塗れで乱れていた髪も少し整い、顔つきも些か優しくなったように見える。おそらく水浴びをしたのだろう。獣のような鋭い彼の目は、もうどこにもない。

 私は一瞬固まった。状況を飲み込むためには、やむを得なかった。

 その後、私は急いで返事を返す。


「いや、先程から起きていたので」

「なら良かった」


 視線を落とすと、彼が両手に持っている桶が目に入る。桶には目一杯の水が入っていた。


「あの、それ」

「あぁごめん、勝手に水汲んできちゃって」

「いや、そんな。わざわざ、ありがとうございます」

「お世話になったから」


 彼は笑顔で言った。

 その後、彼に連れられて川まで歩き、そこで焚き火を起こして焼き魚を食べた。魚はアベルが素手で捕まえた。

 干し肉以外の物なんていつぶりだっただろうか。

 味付けも無いただの焼いた川魚だが、その柔らかさと美味しさは今でも忘れられない。


「俺は家で待ってるから、川で水浴びして支度しといて」

「支度?」

「旅支度。妹さんを助けにいくから」


 寝起きで頭が働かないのか、状況が理解し難いからなのか。

 私は返事を返すことすらできなかった。

 いや、本当は自分も妹を助けに行くことになるなんて思っていなかったからだろう。

 心のどこかで、自分は待っているだけだと思っていたに違いない。



 アベルが私の家へ戻った後、服を脱いだ私は足先からゆっくりと川へ入った。

 川の水が少し冷たかったが、それ以上に久々の水浴びが気持ち良かった。

 前は川に入る元気すらなかった私が、こうして水浴びをしているのは魔侵食が治ったからに他ならない。

 水浴びの途中で腕や体に痣がないことに気づいた時は1人で思いっきり喜んだ。


 川から上がり、服を着て家に戻るとアベルが家の中で待っていた。

 彼は私を見てこう言った。


「水浴びどうだった?」

「気持ちよかったです」

「冷たかったでしょ」

「確かにちょっと冷たかったかも」

「ちょっと?」


 彼の眉間に少しだけ皺が寄る。


「あれはもう氷水でしょ」

「それは大袈裟ですよ」


 私は何気なく言い返していた。

 気持ちまで元気になっていたことは言うまでもない。

 そんな他愛もない話をした後、彼は本題に入った。


「妹さんを助けに行くのに一つ頼みがあるんだけど」

「頼み?」

「そう。この家を売って欲しい。お金が必要なんだ」

「え?」


 この時にはもう眠気なんてなかった。

 それでも理解が追いつかなかった。

 この時点で一つ確信したことがある。

 彼は少し変わっている。


 彼には計画があった。

 私達はお酒を売る商人のふりをして、人攫いが集まる屋敷に入り込む。人攫い達にたくさんお酒を飲ませ、寝静まったところで妹を助け出す。というものだ。

 私は一瞬悩んだが、妹を助けられる可能性があるならと、私は彼に全てを任せてみることにした。



 彼は朝の間に町に来ている何人もの旅商人を確認し、馬車で町に来た酒を売る商人を見つけ出していた。彼は既にその商人から馬車を手に入れている。屋根がある馬車に、馬が2匹付いた立派な馬車だ。

 どうやら昨晩眺めていた指輪と交換したらしい。

 妹のために、そんな高い指輪を売ってまで助けてもらうのは気が引けたのだが、彼は「食べ物くれたから」と言って私の言葉を退けた。

 荷馬車の中には、羊の乳の酒の樽が一つと野菜と果物が置いてあった。どうやら荷馬車の荷物の一部も手に入れることができたらしい。

 旅商人の命とも言える馬車を差し出しても余りある程の価値がある指輪。この時の私にはなんの指輪なのか分かるはずもなかった。



 私の家を売ったお金で服装と身なりを整えた後、酒の入った樽に綺麗な川の水を継ぎ足す。

 なんでも酔っ払った人には少しくらい酒を薄めて出しても気付かれないんだとか。量も多いに越したことはないからと、躊躇なく酒樽に水を入れていた。

 町を発つ前に少しだけ時間をもらい、母を流した川で祈りを捧げた。妹の無事を祈り、別れを告げた。


 そして、出発の時。

 彼は馬車を見つめながら立ち止まっていた。

 気になった私は思わず声をかけた。


「アベル?」


 私の声に反応した彼が口を開く。


「馬、苦手なんだよね」

「...え?」


 彼の話についていけないのは、この時始まったことではない。

 気になることは山程あったが、私はあえて口にはしなかった。


「引けるは引けると思うんだけどね」


 そんなことを彼が口にした時、私はついに吹き出してしまった。

 色々と可笑しかった。色々と。

 そんな私を気にもせず、彼は続ける。


「ロバなら自信あるんだけど」


 可笑しくて仕方ない。

 私は笑いながら聞いた。


「ロバ?」

「ロバ乗りなら誰にも負けない」


 真面目な顔をして、そんなことを言っている。

 余計に意味が分からず、私は笑っていた。

 彼のことを理解したと思った瞬間、彼のことがまた分からなくなっていく。しかし、それを楽しみだしている私がいたのも事実だ。そして、こんなにも笑ったのは久しぶりだということもまた事実だった。

 この人となら妹を助け出せる。私はそう確信していた。頼りになるのかはよく分からないが、きっと上手くいく。自然とそんな気になっていた。


「馬、引ける?」


 本当に苦手なのだと分かった。

 苦手なのが分かるほど面白かったが、私はなんとか笑い抑える努力をした。


「まぁ少しなら」


 何度か馬には乗ったことがあった私はそう答えた。

 彼は、ほんの一瞬嬉しそうな笑顔を見せたが真顔に戻り、「あ、でも商人のふりしないといけないし、俺が引くわ」と言っていた。

 結局アベルが不安な顔をしながら手綱を掴んだ。



 昼前には町を発ち、馬車に置いてあった野菜や果物を齧りながら妹がいるであろう場所へ向かった。


 町から王都へ向かう途中、少し道の外れたところに大きな屋敷がある。

 有力な騎士家の一つであるジーラミン家の配下の屋敷だ。

 悪い評判しか聞かないような者達の集まりであり、妹を攫ったのもジーラミン家の配下で間違いなかった。

 王都から遠く離れれば離れるほど山賊と騎士の境界線は曖昧になっていく。

 騎士家の配下と言っても、山賊と言って相違ない。しかし、厄介なことにどんなに蛮行を行っていても私達が楯突いていい相手ではない。

 だからこそ、私は狩人に妹の救出を頼んでいた。

 犯罪まがいのことも金のためなら平気で行い、権力に縛られることを嫌う狩人に。



 アベルは道の途中で馬を休ませながら、日が沈む前には屋敷に着くよう馬を走らせ続けた。

 彼が側にいてくれるのは心強かったが、屋敷が近づくにつれて私の表情は強張っていった。


「大丈夫。昨日の夜に人数とか色々確認しといたから。問題無い」


 彼が大真面目にそんな話をするので、私はまた少し笑ってしまった。


「夜中に?」


 彼は頷きながら答える。


「もう完璧だから」


 馬車を引いてる馬でも半日かかる道のりを、人間の足で往復。それも夜中のうちに、だ。前の日に屋敷の話はしたが、それにしてもあり得ない。


「そんな嘘までつかなくても大丈夫だから」


 私が笑顔で答えると、「本当に?」と、彼は笑いながら答えた。



 夕暮れ時、私達は屋敷に着いた。

 彼からの言いつけは2つ。絶対にお酒を飲まないこと、偽名で呼び合うこと。そして最後に、「俺は俺の仕事をやる」そう言って、何かを訴えるように私の目を見ると、彼は馬車から降りた。

 その後、商人になりすましたアベルはて門番の2人に話かけ、銀貨を渡す。賄賂だ。賄賂を受け取った門番の2人は私が乗る馬車を屋敷の敷地内へと案内した。

 そのままアベルは、門番が呼んできた家主と話を済ませ、私達は簡単に屋敷に入り込むことができた。


 屋敷の中は夜とは思えないほど明るく、大男達は酒を飲んでは騒いでいた。男達の酒を飲んでいる器や、武器、太い指にはめてある指輪、どこを見ても山賊としか思えなかった。

 私はすぐに妹の姿を探したが、屋敷の中を見渡しても妹どころか、女の人が1人もいない。

 どこを見ても大男ばかりで、小柄なアベルは子供にしか見えなかった。もし、戦いにでもなったら勝ち目がないのは明白だった。

 私達は持ってきたお酒を注ぎ回り、とにかく屋敷の男達にお酒を飲ませた。

 ワインばかりの男達は羊乳酒(ようにゅうしゅ)を珍しがりながら飲んでいた。

 アベルがお酒を注ぐ姿はどこか慣れており、商人を装う彼を疑う者は誰もいなかった。

 彼と比べてこういう場に慣れてない私は、商人見習いか付き人のように見られていたに違いない。



 場の空気にも慣れ始めた頃だった。

 家主は突然私を呼び寄せ、「俺が色々教えてやる」と言って、常に私を横に置き酒を注がせた。

 酔った家主は、ご機嫌な様子で色々なことを自慢気に語り始めた。

 明日は攫った女の人達を売りに行くこと、売り物である彼女達を仲間が傷物にしないよう別の部屋で監禁していること、この仕事を終えれば騎士に叙任されるということ。

 私は顔を作るのに必死だった。

 家主が酔うに連れ、体を触ってきたり、酒を口移しで飲ませようとしたりしてきた。

 私は笑顔を壊さないよう気をつけながら、家主の手を振り解く。

 周りを見てもアベルは見当たらない。

 痺れを切らした家主は私を強引に引っ張り、別の部屋へと強引に連れて行った。屋敷の男達は盛り上がった。


 私は小さな部屋に押し込まれ、家主に押し倒された。

 私は何度も「やめて」と言ったが、それすらも家主は楽しんでいるようだった。

 私はその場から逃げ出そうと踠いたが、力の差を見せつけられるだけだった。

 家主は私の両腕を掴むと、強引に私の頭の上へ持っていった。

 そのまま私の両手首を重ね合わせ、右手だけで押さえつける。

 家主は空いた左手で私の頬を掴み、力ずくで私の顔を固定しながら顔を近づける。

 息が荒くて酒臭い。

 私はそれでも踠き続けたが、私が踠くことも楽しんでいると気づいた私は、抵抗するのを諦め黙って家主を睨みつけた。

 踠くことを止めて冷静になった私は、家主の視点が定まっていないことに気が付いた。

 酔いが回ってきているのだと思った私は、残りの力を振り絞り、私の両手を掴んでいた家主の手を振り解いた。

 家主が何か言っているようだったが、呂律が回っておらず、言葉にはなっていなかった。

 私はその隙に這い出るようにして覆い被さっていた家主の腕から抜け出した。

 家主は俯せのまま動く様子がなかった。

 その間に私は連れ込まれた部屋を足早に出た。


 外に出るには大広間を通るしかなかったので、私は仕方なく大広間へと戻った。

 見つかるかもしれない恐怖と緊張で、鼓動が聞こえてくるようだった。

 私は波打つ胸を抑えながら、他の男に気づかれないよう、ゆっくりと大広間の方へ近づく。

 大男達の騒ぎ声が聞こえない。

 恐る恐る大広間を覗くと、大男達は力尽きたように眠っていた。

 私は大きく息を吸って胸を撫で下ろした。

 その時、顎下を何か冷たい物が触った。


「これはお前の仕業か?」


 恐る恐る左を向くと、ターバンを深く被った細身の青年が剣を私の首元に当てていた。

 全く気付かなかった。


「何かありました?」


 前方からアベルが歩いて来た。

 私は少し安心したが、剣を向けられていたため体は固まったままだった。


「何を飲ませた?」


 ターバンの青年の質問にアベルは臆することなく答える。


「羊乳酒、羊の乳のお酒です」

「何を混ぜた?」

「狩りの仕掛けで使う睡眠薬が混ざってます。酒の味の邪魔をすることなく、飲めばすぐに眠りにつける。私の新しい商品です」


 もちろん彼の出まかせだ。


「なぜそんなものを飲ませた?」

「攫われた人達を助けに」


 アベルは口調を変えることなくそう言った。

 一瞬、時が止まったかのようだったが、青年は「そうか」

 と言って剣を降ろした。

 私はアベルの元は走った。


「いいんですか?見逃して」


 ターバンをした青年の行動を疑問に思ったアベルが質問した。


「君がやらないなら僕が逃していた。君達のことは黙っておく。正しい行動が報われるよう祈っているよ」


 先程と様子が変わり、青年の口調と表情に柔らかさを感じた。


「助かるよ。恩に着る」


 アベルは淡々とそう答えたが、私にはどこか身構えているように見えた。


 どうにかその場をやり過ごせた私達は、大広間の後ろに隠れていた捕まった人達を連れて馬車へ戻った。

 もちろん妹の姿もあった。

 私は安堵の涙を堪えながら妹と抱き合った。

 その間アベルは助けた人達に囲まれながら感謝の言葉を受けていた。

 その後、私も感謝を述べにアベルの元へ向かった。

 妹は先にアベルに感謝を述べると、すぐに皆んなの元へ向かってしまった。


「本当にありがとう」

「約束だから。それに、昨日は俺が助けられたし」

「いや、私の方こそ...」

「まぁこれで貸し借りなしってことで」

「うん」


 私はそう言って頷いた。


「王都を目指しなよ」


 彼は急にそんなことを言った。


「王都?」

「そう。そこなら追われることは絶対ないから。それに王都じゃ今、深刻な侍女不足だから教養のある人なら引くて数多だと思う」

「私に教養なんて...」


 言い淀んでいた私の言葉を彼が遮る。


「元々の身分は高いだろ?」

「え?」


 予想外の言葉に私は驚いた。


「言葉遣い。気をつけてたのは分かったけど、たまに気品が漏れ出てた」

「それは...」

「育ちの良さってちょっとしたところで出ちゃうよね。食べ方も上品だったし、馬にも慣れてるみたいだし」


 私は黙るしかなかった。


「もし職が見つからなかったらゲムニス家のルドルかドルシーって奴に雇ってもらえばいい。アベルがって言えば多分雇ってくれるから」

「貴方は?」

「嫌いなんだよね、王都」


 なんとも彼らしい。


「あ、あとこれ」


 そう言って彼からポーションの入った小包みを渡された。


「ポーションは一応ね。妹さんにも飲ませてあげて」

「本当にありがとう」

「それじゃ、後は頑張って」


 私は小さな溜め息をした。

 自信が無かったからだ。


「本当はできるだろ?頑張れよ、応援してる」


 私は小さく頷きながら、「うん、ありがとう」と答えた。


「それじゃ」

「うん、気をつけて」


 彼は何も持たず、来た道を歩いて戻っていった。



 そんな彼を私は見送り、彼の姿が見えなくなってから、攫われていた人達と話をした。

 攫われた人達は私や妹と歳が近く、身寄りの無い人ばかりだった。元々攫っても騒ぎにならないような人ばかり狙っていたのだろう。

 帰る場所が無い私達は、全員で王都を目指すことにした。

 私は手綱を握り、王都へと馬を進める。

 真っ暗な夜道を月明かりが照らす。

 屋敷の蝋燭は消えることなく燃え続けていた。

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