前編
ここに私が知るうる限りの事実を書き記します。
真実を自らの口で話すことができない私を、どうかお許しください。
彼と出会う2日前の朝、妹が攫われた。
幸か不幸か、私は病を患っていたおかげで攫われることはなかった。
妹が攫われ、私は町行く人を見つけては声をかけて妹の助けを求めた。
ほとんどの人が話を聞いてはくれなかったが、2人組の狩人の男達が私の言葉に耳を傾けてくれた。私が前金を払って妹の助けを依頼したのが、妹が攫われた日の夜のこと。
2日経っても妹が戻ってくる気配はなく、金を持ち逃げされたことは私にでも想像ができた。
それでも私は懲りずに町中で妹の助けを求め続けた。
病と空腹のせいで満足に動けない私には、助けを求めて待つことしかできないからだ。
そもそも、この時私が元気だったとしても、自分から妹を助けるなんてことはしなかったかもしれないが...。
人に助けを求めては突き飛ばされる。その繰り返しにも慣れた頃、私の腕を誰かが掴んだ。
後ろを向くと、ふらつく青年と目が合った。
まるで獣のような鋭い目つきだった。
青年は私の腕を離し、膝に手をつきながら口を開く。
「頼む、食べ物をくれ」
今すぐにでも何か食べなければ彼はきっと死んでしまうと思った。
「着いてきて」
無意識のうちに、私の口からそんな言葉が飛び出していた。なぜこの時こんな言葉が出たのか、今になって考えてみてもよく分からない。
私は青年を家に上げた。
家具と言えるような物はほとんど売り払ってしまったが、屋根も扉も壁もある。家と呼ぶには充分だ。
私は彼に水と干し肉を出した。
彼は水をあっという間に飲み干し、質の悪い干し肉に齧り付く。
干し肉は売り物にもならず、捨てられた獣の死骸の肉を切り取って干しただけの劣悪なもの。正直に言えば臭くて不味い。
彼はそんな硬くて不味い干し肉を貪るように噛み千切り、感謝を述べながら食べていた。
「私はフォルタ。貴方は?」
私が気兼ねなく話しかけられたのは、私よりも若干小柄な彼を、同い年か歳下だと思ったからだろう。
死にかけていた見知らぬ男を迷いなく家に上げたのもそのせいかもしれない。
彼は干し肉を飲み込んでから自己紹介を始めた。
彼の名前はアベルティルダージャ。名前が長いため、人からはアベルと呼ばれているらしい。年齢は18。予想通り歳下で、私の方が1つだけ歳上だった。
彼の話によると、彼は近くの森に狩りをしに来た狩人で、獣に襲われて武器を失ってしまったらしい。
たくさんの狩人が暮らすこの町ではよくある話だ。森で命を落とすことも珍しくはない。
ただ、よくある襲われた狩人の話と違うのは、彼は大きな怪我をしていないところだった。擦り傷や切り傷で済んだのは、不幸中の幸いだろう。
「それ」
アベルは私の腕にある痣を指差した。
外では気をつけていたのだが、家に帰ってきて気が緩み、無意識のうちに腕まくりをしていたらしい。
「ごめんなさい!」
私はそう言って急いで腕の痣を服の袖で隠した。
「いや、謝ることじゃ...」
アベルは、不気味な色をした痣だらけの私を気味悪がることもなく、冷静に質問を投げかけてきた。
「顔にも出てる、重症だろ?」
私は黙って頷いた。
「食欲は?」
「ない...けど、無理矢理」
「何を食べてる?」
「今貴方に出した物と同じ物を」
「そっか」
「お金がないから、食べ物はそんなものしかなくて。ここなら、狩人が捨てた獣の死骸で簡単に干し肉作れるし。水は近くに綺麗な川があるから、いくらでも飲めるんだけど...」
アベルは腰に着けていた小物入れから、琥珀色の液体が入った瓶を取り出して私に渡した。
かなり上質なポーションだった。ポーションなんて高価な物は、私の住んでいた辺境の町ではまずお目にかかることはできなかった。
「それは貰えません」
「これ飲めば治るから」
「え、治る?」
始めは断ろうとしたが、私は「治る」という言葉を聞いた瞬間、希望を抱いてしまった。
私はこの病で死んでいく人を何人も見たし、助かった人を見たことはない。巷では不治の病とも呼ばれていたくらいだ。
「魔侵食は不治の病じゃない」
「魔侵食?」
「そう、魔力が引き起こす病気だよ」
"魔力"
この頃、町でも頻繁に耳にするようにはなっていた。
当時、魔力についてまだよく知らなかった私は、彼から魔力と魔侵食について詳しく教えてもらうことになる。
魔力とは全ての生物に宿る力のことであり、魔法を使うために必要だということも、この時初めて知った。
生物や個体によって魔力の性質が違い、中でも魔獣と呼ばれる獣は、普通の生物とは比べものにならない程の魔力を持つという。
そして、その魔獣の肉を人間が食べると、元々の人間に宿る魔力と魔獣の魔力がぶつかり合って体に害を与える。これを魔侵食というらしい。
初期症状では発熱や腹痛といった症状が見られ、末期になると段々と赤紫の痣が体に現れていずれは死に至る。
魔獣の魔力が皮膚にまで影響を及ぼした時に赤紫色の痣になるらしい。
この時の私の状況に全てが当てはまっていた。
「このポーションに入っているのは優しい魔力で、魔獣の魔力と人間の魔力の間に入って衝突を和らげる。だからそれを飲んで寝れば明日には治る」
私は口を右手で覆い、目頭が熱くなったのを覚えている。
この時の私はすぐに死ぬとばかり思っていた。
死ぬまでこの病による苦痛に苦しむのだと思っていた。
私は涙を堪えながらポーションを飲み干した。
「ありがとうございます」
声は乱れに乱れていた。
彼は静かに優しく微笑んだ。
しかし、彼の微笑みは長くは続かず、段々と真剣な表情になる。
「妹さんの話...」
彼の口調が急に重くなった。
「これ以上貴方にご迷惑をかけることは...」
正直、私は迷っていた。
何か見返りを求めて彼を助けたわけでは断じてない。
ただ、妹のことが心配で頭から離れなかったのも事実だった。
助かるとは微塵も思ってなかった自分の命を救ってもらい、その上に妹のことまで。
病になるような食べ物しか出せなかった私に、これ以上何を出せるのだろうか。
私より歳下の彼に、命の危険すらある妹の救出なんて頼んでいいのだろうか。
私はこの時、今まで妹の助けを必死に求めてこれていた自分を見失ってしまっていた。
「食べ物くれたから」
彼は私の言葉を遮ってそう言い放ったが、彼1人で妹を助け出せるとは到底思えなかった。
善意で妹を救ってくれるという彼を前にして、そんなことを思っていた私を今では恥じている。
辺りが暗くなり始めたが、私の家に火は灯らない。火を灯す蝋燭なんてありはしない。
薄暗い家の中で、私はいつの間にか自分の身の上話をアベルに語り始めていた。妹が人攫いに攫われたこと、女手一つで育ててくれた母が冬に死んだこと。
母のことまで話すつもりは無かったが、いつの間にか話してしまっていた。
それでも、母が魔侵食で死んだことだけは、絶対に口にはしなかった。
「3人で身を寄せ合ってるだけで良かった。こんなことになるなら、春なんて来なければ...」
本音だった。
春が来なければこんな場所まで人が来ることはない。
妹が攫われることもなかった。
春が来て欲しくなかったなんて、狩人の彼の前で言うようなことではないのは分かっていた。
それでも言ってしまった。
他人だからこそ、何もかも話してしまいたくなったのだろう。
結局、私は自分のことばかりだ。
私が一通り話し終えると、もう夜だった。もちろん家の中に灯りは無い。窓穴から入る月明かりだけが、干し肉を齧る彼を照らしていた。
彼には泊まる場所がないようなので、私は彼を家に泊めてあげることにした。
私は布団で寝るよう勧めたが、彼は床に寝そべった。
「明日、妹さんを助けに行こう」
彼は寝る前にそう言った。
私は口を閉じたまま、頷きながら「うん」とだけ答えた。
私は彼の言葉を本当に信じているわけではなかった。
あんなに妹を助け出したかったのに、嘘でもいいと思い始めている自分もいた。
私にはこの時の感情を正確に表す言葉を知らないが、私の知っている言葉の中では罪悪感という言葉が一番近いように思う。
私は寝ている彼の様子が気になり、彼の方を向いて寝転がった。
彼は仰向けになり、右手の手のひらと手の甲を交互に見ている。
おそらく彼は右手の人差し指にしている指輪を見ていたのだろう。月明かりが反射して、人差し指の付け根が微かに光っていた。食べていた時までは気づかなかったため、夜になって着けたのだろう。
彼はゆっくりと右手を下ろし、静かに目を瞑った。
私も目を瞑った。
私が寝たと思ったのか、しばらく経った後に彼は音を立てないようゆっくりと起き上がり、真夜中にも関わらず家を静かに去っていった。
私は彼を引き留めようともせず、ただ黙ってその様子を見ていた。