量子力学病棟のカルテ
入院患者は誰一人とも、手術をしないし薬も使わない。なぜならここは、量子力学病棟だからだ。
量子力学とは、見えない世界の物理学のことである。人は、見えるものを全てだと勘違いし、見えるものしか信じない。しかし、この世は全て量子力学で説明できると言っても過言ではないほどに、科学はかなり進歩している。
見えないチカラを信じるか否か。それは、医療の世界を変えるか否かにも深く関わることであると、新井は常々思っている。
「ほーら。よーく見て。これは何色?」
「え…あ、青…です」
「じゃぁこれは?」
「黄色…」
「これは?」
「む…らさき?かな…」
「ふむふむ」
新井は、様々な色のシートを次から次へと患者に見せる。ここは、どこにでもある入院病棟の一室だ。患者は不思議そうな表情をする。当然だ。癌と診断され、入院初日のやり取りでカラフルなシートを見せられるとは、誰も考えつかないだろう。
「あ、あのぅ…先生…」
「はいっ?」
「これは、何を…?」
「ふふふ。何をしよるんじゃろうね?」
「…?」
目が点になっている患者の様子を、新井は楽しんでいる。患者のこの表情は、心を掴めたサインでもあるのだ。
「林あすかさん」
「はっ、はい」
「あすかさん、ですね」
「はい、あすかです」
「あすかさんは、手術はしとぅない、言うとったね」
「あっ…はい…」あすかは視線を下げた。ベッドの上で正座したまま、両膝をさする。
「ほんなら、そうにしましょう」
「…えっ」ワンテンポ遅れて、顔を上げた。新井と目が合う。
「あなたが想ったように、なるけぇ」
「えっ、でも、私の癌は手術せんとダメなんでしょう?他の先生方、みんなそう仰って…」
「えぇ、そう言う医者も、よぅけおる。もちろん、手術を否定する気持ちはありません。じゃけどあなたは、こうしてここまで来て、私に会いに来てくれた。あなたは『手術せんと治す』という未来を、もう選んだ、いうことです。あすかさんの未来は、もうここにある」
黙って新井の言葉を聴いていたあすかの目が、みるみるうちに充血し、大きな瞳から涙が一粒こぼれた。
「先生…私…」
「うん…あすかさんが自分で、選んだんよ。大丈夫」あすかの肩を軽く撫でる新井。
「もう一度聞きます。これは、何色に見えますか?」
新井は、先程と同じようにシートを見せた。あすかは、シートをじっと見つめた。シートの横には、ニコニコした新井の顔がある。あすかはフッと笑って、答えた。
「キレイな…青です」




