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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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兇手-毒1



 泡を吹き、白目を剥いて動かなくなった鼠を前に、カナンとエウラリカは顔を見合わせた。


 エウラリカが傍らの大皿を指さして言う。

「……その皿に乗っているもの、食べちゃ駄目よ」

「何で僕がこの流れで食べると思ったんですか」

 半目で言い返してから、カナンはため息をついて鼠を見下ろした。長い尻尾を摘まんでぶら下げる。もともとこの用途のつもりではあったが、買ってきて早々に死ぬことになって可哀想である。


 簡単に言えば、運ばれて来た食事を鼠に食わせたら、死んだ。要は毒味である。そして結果はこの通り。

 鼠の死体に一旦布を被せながら、カナンは配膳された盆の方を見やった。

「やっぱり食事に毒が盛られているみたいですね」

「うーん、なかなか本気ね」

 エウラリカは難しい顔で腕を組む。眉間に皺を寄せ、あからさまな不機嫌を示した表情である。空腹で気が立っているらしい。


「これで三回目……。二回目は一日おきだったけれど、今回は二日おきだったわ。朝食が二回連続と、今回は昼食。次はいつかしら」

 ぶつぶつと呟くエウラリカに、カナンは躊躇いがちに述べた。

「恐らく、これは使用人の勤務表と一致します。城内の雑務を行う使用人は大抵どこも三つに班を分けて時間帯ごとに仕事を割り振っているはず」

 カナンの言葉に、エウラリカは顎に手を当てながら「あら、言われてみれば確かに」と頷く。


「となれば次は……明日の夕食かしら?」

「その可能性はありますね」

 カナンも短く首肯し、「どうしますか」とエウラリカを窺った。彼女は腕を組み直し、しばらく考えこむように沈黙する。ややあって、エウラリカはカナンを一瞥した。


「……ネティヤを呼びなさい」

「ネティヤ?」


 予想外の名に、カナンは目を見開いて身を乗り出す。エウラリカは「そうよ」と腕を解き、ひらりと片手を上げて指を立てた。

「ネティヤに食べさせれば良い。あの女はルージェンの手下でしょう。食べるのを渋るようならルージェンから何かを聞いている――つまり暗殺を手配しているのはルージェンということになる。し、あっさり食べればルージェンは関係ない、あるいはネティヤは何も聞かされていない末端の捨て駒ということよね」

「もしも、ネティヤが毒にあたったら?」

 カナンは落ち着いた声音で問うた。エウラリカの両目はカナンの視線を一瞬だけ受け止め、それからゆるりと微笑む。


 伸ばされたエウラリカの手が、鼠に被せられた布を軽く持ち上げた。衣擦れの音と共に露わになったのは、惨めにその体を横たえる小さな骸である。それを見下しながら、エウラリカは呟いた。

「――なら、それまでの女だったということよ」

 酷薄に頬を吊り上げる、その表情の冷淡さと来たらこの上なかった。自分が優位に立っていることを確信している、泰然とした余裕が漂っている。カナンは思わず口を噤んだ。


「まあ、ネティヤが死んだら次の手はそのとき考えるわ」

 エウラリカはひょいと肩を竦め、ぱさりと布を落とした。鼠の死体が再び隠れる。

「誰かの手のひらに乗せられてなんてやるものですか。糸を引くのは私よ」

 彼女は昂然と額を上げて笑った。カナンはその言葉を肯定も否定もせず、ただ無言のうちに目を伏せる。



 ネティヤは換えの利く女である。それは明らかな事実だったし、カナン自身そうした言葉を彼女本人に向けたこともある。別にそれが何だという話ではない。ただ、今はそう単純に割り切りたくない自分がいるのも事実だった。

(エウラリカにとっては、すべてが等しく同じなのだ)

 彼女は、その人間の行いや思想を唾棄することこそすれ、生まれや育ちによって差別をすることはない。なぜならエウラリカは全ての人間を等しく軽んじ、蔑んでいるからである。少なくともカナンはそう思う。

(全部同じ。ネティヤも、この鼠も、――俺も。みんな取り替えの利く駒に過ぎない)

 カナンは仄暗い眼でエウラリカをそっと窺った。盆に並べられたナイフが、こつりと小指に触れる。ひやりとしたのは果たして金属だったろうか。


 久々に、カナンを暴力的な衝動が襲った。このナイフを掴み、エウラリカの白い肌に突きつけてやりたい。細い首に手をかけて、その息を掌の中で感じたかった。そうでもすれば、初めてこの女はその目に自分を映すだろうか。

(結局この女は、俺のことなど、そこらの虫とさして変わらない存在とでも思っているのだ)

 自分には前任者がいた。エウラリカの企みを知り、共に暗躍し、愉悦に浸り顔を見合わせて笑う、唯一の共犯者。……そんな人間が、自分の前にいたのである。それが一体どのような人間であったのか、エウラリカにとってどのような存在だったのかは分からない。

(……エーレフ、)

 男の名である。カナンはエウラリカが呟いたその名前を口の中で転がす。


(そいつが殺されて、俺はその直後にエウラリカによって見いだされた。それは恐らく偶然だろう。わざわざ下僕を殺す日を捕虜が来るときに合わせる必要はない)

 エウラリカは『何らかの』目的でジェスタにウォルテールをけしかけた。かくしてジェスタは都を焼き討ちにされることもなく、王族を一族郎党殺戮されることもなく、穏当に属国として帝国に下った。それは必然だった。エウラリカが数々の策略の元、はるか帝都の奥から、そうなるべくして糸を引いた結果だった。



 エウラリカは『何らかの』理由で下僕を殺害した。ちょうどその日に、カナンを初めとしたジェスタの王族が帝都を訪れ、皇帝の名の下に下った。

 そうしてエウラリカは玉座の間を訪れ、居並ぶ王族や家臣達の中から、カナンを見咎め、自身のペット、奴隷、下僕として彼の所有権を得た。そうしてカナンはエウラリカに仕えることとなった。そうして二人は始まった。


 それは恐らく偶然だった。だってエウラリカは前に言っていた。懇切丁寧に教えてくれたじゃないか。

 ――『お前なんて全っ然、一度だって目的だったことはない』。

 カナンはゆらりとエウラリカに顔を向けた。彼女は飄々とした態度で足を組み、湯気の立つ茶器に顔を寄せている。


(……あなたは、俺との出会いになど、何の意味も見出してはいない)

 数多の人生を狂わせておきながら、国を傾けんと目論み数々の糸を引いておきながら、そのことにちっとも意識を向けやしない。自分を中心に全てが回っていることを一切気にしない。むしろ、彼女が『そう』だからこそ今までやってこれたのだろう。

(このまま行けば、あなたはきっと、俺との別れに、何の意味も見出すことはないのだろう)

 彼の前任者のように。ただ、不要になったから、不都合になったから、そうした明快な理由で、あっさりと切り捨てられるのだろう。その様子は実によく想像がついた。


(……そんなんで終わってたまるか)

 ぎり、とカナンの奥歯が音を立てる。それは突き上げるような怒りで、火が触れたように鋭い痛みであった。これまで培ってきた……培ってきたと思っていたものはすべて、単にそのように装われたものでしかなかったと突きつけられた。

(……許すものか)

 カナンは唇を厳しく引き結び、エウラリカを睨み据える。怒りが沸き起こっているはずなのに、腹の底に溜まってゆくのは、がらんと広がるような虚ろな寂しさであった。



「――あら、どうしたの? お前、いつになく良い目をしているじゃない」

 エウラリカが不意に振り返って、カナンに笑みかける。にやりと頬を吊り上げるような勝ち気な表情は、もはや見慣れたそれだった。

「……いいえ」

 カナンは薄らと微笑んで首を横に振った。エウラリカは「変なの」と呟いて、興味を失ったように茶器に視線を戻す。琥珀色の水面にさざ波が立つ。尖らせた唇から息を吹けば、僅かに中央がへこみ、波紋が広がった。


(この女が誰のことも尊ばないのなら、誰のことを惜しいとも思わないのなら、俺が『それ』になってやる)

 それはほとんど意地のような決意だった。正直に言えば、カナンはやや自惚れていたのだ。……自身が、エウラリカにとって無二であり唯一であるような気がしていた。しかしそれは前任者という存在が明かされたことによって打ち砕かれた。

(エウラリカにとって、他に換えの利かない存在に……)

 もとよりカナンは自尊心の高い少年であった。帝都で身を潜めるうちに薄れていたかのように思えていた負けん気の強さが、今になって急激に再沸したのだろうか。カッと全身が熱くなる気がした。

(もっと、……もっとエウラリカの深層を、)



 カナンの強い視線を、エウラリカはものともしなかった。物思いに耽るように目を伏せていた彼女が、遠くの床を眺めながら、不意に口火を切る。

「……私は、お前のことを、信頼している」

 それは、まるでカナンの思考を読んだかのようだった。カナンは虚を突かれて目を瞬く。エウラリカは顔を上げ、カナンの目を真正面から見据えた。感情のない眼差しをしていた。

「……それだけで十分でしょう」

 囁くように呟いて、彼女は、もう何も言わずに目を閉じた。



 ***


 カナンの話に、黒髪の女は酷く驚いたように目を瞬いた。

「私が、エウラリカ様にお目にかかるだって?」

「エウラリカ様がそう仰っているんですよ」

 カナンは怪訝な表情を作って頷いた。目の前で呆気に取られている地方出身の女官僚――ネティヤは、「一体どうして……」と眉をひそめている。


「……何でも、話がしてみたいんだとか」

「私なんて、特に面白い話題も持っていないぞ。どうしろって言うんだ」

「僕が適当に話を合わせますから、取りあえず来て下さいよ。僕だってエウラリカ様のご機嫌を損ねるのは嫌なんですから」

 切羽詰まった口調で、カナンはネティヤに迫った。ネティヤはぐっと眉間に皺を寄せ、「しかし、そんなのはおかしいだろう」と頭を振る。


「いきなりエウラリカ様が私を呼ぶなんてありえないだろう。だいいち、私はエウラリカ様にお目にかかったことはない。第二王子の帰還を祝す夜会の際に、一瞬すれ違ったくらいじゃないか」

 ネティヤの腕がカナンに肩に伸びた。踵の高い靴でも履いているのか、長身の女の視線はちょうどカナンとほぼ同じ高さにある。片方の肩を強く引かれ、カナンはネティヤに対してやや半身になった。ネティヤはぐっと顔を寄せ、低い声で唸るように告げる。


「――まさか、君がエウラリカ様に何か告げ口や入れ知恵でもしたのか」

「……何のお話をしているのか分かりかねます」

 カナンはごく冷然とした口調でそう応じた。じっと目を逸らさないままに答える、しかしその胸中は動揺で荒れ狂っていた。

(その通りだ。……俺を通してエウラリカはネティヤの動向を把握していたが、実際に『エウラリカ王女』がネティヤと関わりを持ったと言える出来事はない)

 これは明確に瑕疵だった。その点をエウラリカが失念していたのも事実だし、カナン自身が話の進め方を誤ったのもあった。カナンは背中が汗でひやりとするのを自覚する。


 ネティヤは不信をありありと示して眉根を寄せる。

「大体、エウラリカ様が私を知っているとは思えない。私の名前などどこで見聞きしたんだ。どうも話がおかしいな」

「そ……それは、僕が」

 カナンが苦し紛れに応えれば、ネティヤの視線がなお一層鋭くなった。

「やはり君の差し金か。どういうつもりだ。何が目的だ?」

「違います」

 即座に反駁したカナンに、しかしネティヤはその眼光を緩めることはない。カナンは一旦言葉を切って、急速に早まってゆく鼓動を落ち着かせる。ゆっくりと息を吸い、それから彼は再びネティヤの視線を正面から受け止めた。


「確かに『名前は』俺が教えました。しかし、ネティヤさんのことを言い出したのは確かにエウラリカ様です」

「……つまり?」

「エウラリカ様が言ったんですよ。あの晩餐会ですれ違った官僚を連れて来いって」

 しばらくの間、ネティヤは黙り込んでいた。ややあってから、難しい表情で呟く。

「それにしたって、どうして私を……」

「その点が俺にも分からないんですよ」とカナンは堂々としらばっくれた。この辺りはエウラリカが上手く誤魔化してくれると信じよう。

「まあ、エウラリカ様は不思議な方ですし。……案外、そんなに理由はないかもしれませんね。それとも、俺たちの思いも寄らないところが琴線に触れていたとか」

 何とでもなる言い訳をしながら、カナンはネティヤの手をそっと肩から外した。



「……何なら、ネティヤさんとエウラリカ様の仲を取り持っても良いですよ?」

 カナンは薄らと微笑み、そう囁く。

「俺のことが少しでも信用できないというのなら、ご自分でエウラリカ様に働きかければ良い。上手くいくように俺も口添えしましょう」

「エウラリカ様は、君の言うことしか聞かないんじゃなかったのか。――君は、エウラリカ様の特別なんだろう?」


 その言葉に、カナンは無言のうちに笑みを深めた。……俺が、あの女にとって特別などであるものか。それでも、この女に劣らない自負くらいあった。せせこましい優越に自嘲が漏れる。

 カナンの表情に何を感じ取ったのか、ネティヤはおののくような様子を見せて半歩下がった。それを追って、カナンは更に畳みかける。

「ネティヤさんが特別になれるかは、試してみなきゃ分からないじゃないですか」

「カナン、……エウラリカ様と何かあったのか?」

 ネティヤはどこか気遣わしげな表情でカナンの顔を覗き込む。その反応は心外だった。「何もありませんよ」とカナンはやや強く言い切る。


「それで、どうしますか?」

 カナンが改めて問うと、ネティヤは少し黙り込んでから、「分かった、同行しよう」と頷いた。




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