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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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回顧



 エウラリカの上腕に走った浅い切り傷に、カナンは「ああ……」と声を漏らした。エウラリカは呆れたように目を細め、「どうしてお前が痛そうな顔をするのよ」と鼻を鳴らす。


 カナンは包帯を取り出しながら、目を伏せて項垂れた。

「……僕が時間通りに来ていれば、あんなに危険なところまで追い詰められることもなかったし、こんな傷を負うことも」

「そういえばお前、遅かったわね。どこで油を売っていたの」

「道端でウォルテールに会って、それで」

 エウラリカは「ふーん」と言いながら、右手で傷口に軟膏を塗り込んでいる。その表情には予期せぬ襲撃に動揺している様子はない。むしろ実に平然としているのを見て、カナンは眉をひそめた。


「あの、エウラリカ様」

「ん?」

 手振りで包帯を巻けと指図しながら、エウラリカは目を上げる。カナンはじとりと視線を鋭くして、いかにもきょとんとしている彼女の顔を見据えた。慎重に問う。

「……暗殺者が来ることを、見越していた、とか、ないですよね」

「まあ……何となく予想はしていたけど」

 少しだけ目を逸らしたあと、エウラリカはあっさりと頷いた。カナンは目を剥いてエウラリカを睨みつける。


「あなたって人はいつもそうだ!」

「何よ、いきなり大きな声を出して。私が何をしようが私の勝手だわ」

 エウラリカは不愉快そうに眉をしかめる。カナンも負けじと目を細めると、彼女は聞こえよがしに舌打ちをした。包帯を巻いてやりながら、カナンはエウラリカを睨みつけるのをやめない。


「何だって、危険が分かっていてあんな温室に一人で行ったんですか」

「だからお前を呼んだんじゃない」

「あらかじめ理由を言ってくれなきゃ分かりません。知っていたらウォルテールを無視してでも帰ってきましたし、というかそもそも外出しませんでしたよ」

「何よ、それ」

 はん、と嘲笑のような笑い声を漏らして、エウラリカは頬を吊り上げた。カナンは数秒の間、その表情を黙って眺め、それから小さくため息をつく。


「……あなたがここで死んだら、何にもならないでしょうが」

 目を逸らし、カナンは低い声で、ほとんど吐き捨てるように呟いた。エウラリカはふっと息を吐くと、「それもそうね」と肩を竦める。不敵な笑みで納得を示した顔をちらと見やりながら、カナンは小さく嘆息した。

 ――『心配した』あるいは『心配している』などと、言えるはずもない。口をついて出てきそうだった言葉を飲み込んで、彼は目を伏せる。



 包帯を巻き終えて一歩下がりながら、カナンはエウラリカに水を向けた。

「それで、暗殺者を寄越した人間の目星ってのはどうなんですか?」

「ルージェンじゃない?」

「即答……僕も薄々そんな気はしていましたけど」

 当然のように腕を組んで答えたエウラリカに、カナンは脱力する。エウラリカはごく平然とした様子で肩を竦めた。


「今の帝都であんなに精力的に動いているのなんてあの男くらいよ。だって思い返してみなさい、この間だって『素晴らしいご活躍』だったじゃないの」

 そう言われて、カナンは顎に手を当てて記憶を辿る。



 エウラリカは片手を持ち上げ、親指を伸ばした。

「まずは皇帝に掛け合って私の婚約を準備。オルディウスやイリージオに婚約の話を持ちかけたのもあの男でしょう。ネティヤを使ってお前に根回しすることも忘れない。外堀も内堀も堅実に埋めるわね」

「それって褒めてるんですか……?」

「まあ、よくやるわとは思うけれど」


 エウラリカは言いつつ、親指に次いで人差し指も立てる。

「次に、オルディウスの死に関する采配。オルディウスの死因はトルトセアの毒によるものではないか、とは思うけれど、それを彼に盛ったのが誰なのかは確定しないわ。でもそこは重要ではなくて、大切なのは『イリージオが自分で兄に毒を盛ったと思っている』こと。十中八九、そう思い込ませたのはルージェンでしょうね。イリージオはここで弱みを握られたんじゃないかしら。それで私との婚約を了承させた、とか」

「あと、ルージェンは医局を使って、オルディウスの死を『持病の発作』ということにして片付けましたね。軍による捜査も圧力をかけて中断させた」

 カナンが言葉を継ぐと、エウラリカは大きく頷く。

「余念がないわよね。いっそ惚れ惚れするわ」

「随分と褒めますね」

「褒めてはいないってば」


 エウラリカはじろりとカナンを睥睨すると、次に中指を立てた。

「――そして、トルトセア及び『傾国の乙女』に関して」

 その言葉に、カナンは小さく首肯した。いつ頃からこの話をしていたかを思い返すが、こればかりは相当に前から続いている案件である。

「薬物自体は、婚約騒動の一年以上前から帝都で出回っていましたからね」

「その通り。私はそれを単なる小金稼ぎの売人によるものだと思っていたのだけれど、どうやらそうでもなさそうなのよ」

「……ルージェンが関わっていたから、ですか?」

 カナンが慎重に窺うと、エウラリカは「それもあるけど」と三本指を立てた片手を軽く振った。


「……帝都の地下であれほど大勢を集めて、あのような儀式を執り行っていたことが、引っかかる」

「何でですか? 確かに異様な光景でしたけど……」

「別に、薬物による単なる乱痴気騒ぎなら好きにやれば良いわよ、でも――あれは明らかに、既存の宗教儀式に沿って執り行われている」

「そういえば、そんなこと言ってましたね」

 カナンは地下でのエウラリカの言葉に思考を馳せながら眉根を寄せる。「仮死薬を用いて、司祭には人を蘇らせる特別な力があると思わせているんでしたっけ?」

 エウラリカは「最近の研究ではそう言われているわ」と手を下ろして腕を組んだ。


「それにしたって、あんなに大規模な集会を行うなんて、そこらの売人に出来ることではないし、そもそも金目当ての売人がすることではない」

 エウラリカが低めた声音で告げる。

「それだけでもきな臭い(・・・・)のに、イリージオがこの薬物騒ぎに巻き込まれていたこと――つまり、ルージェンが巨大な薬物組織に関与していたことで、一気に道筋が見えてくる」

 彼女は肩にかかった髪を片手で払いのけ、不遜な態度で足を組んだ。カナンはもはや口を挟むことをやめてエウラリカの言葉を待った。



「ルージェン・ウォルテールは私の婚約者に関する采配、及び婚約者本人を自由に動かせる状態にあった。これは実質的には私――皇位継承者の一人の進退を思うがままに出来る状態だったということ」

 エウラリカは腕組みから人差し指を浮かせ、上腕を小刻みに叩いている。


「なおかつ彼は『明らかに金目当てではない薬物蔓延』に関与していた。この薬物は帝都中に広がり、上流階級にまで食い込んでいたことが分かっている。廃れた邪教を帝都の地下にて蘇らせ、信徒の心を掌握――帝都の住民に対する影響力を強めようとしていた。あるいは帝都の混乱をいつでも引き起こすことの出来る状態にあった」

 淡々とした口調で告げるエウラリカの言葉を聞きながら、カナンは背筋が薄ら寒くなってくるのを感じていた。彼女は冷然とした眼差しでどこかの遠くを見据えている。


 エウラリカは不意に鋭い目つきをした。

「――ルージェン・ウォルテールは、帝都を操ろうとしている。そしてそれは恐らく私の思う形ではない」

 そのときカナンは、きつく組んだ彼女の腕、その先で指先が震えていることに気がついた。はっと息を飲むが、エウラリカはそれに気づいた様子はない。


「ここから先は予想だけれど、」とエウラリカは目を閉じてゆっくりと息を吐いた。

「ルージェンの裏には何かがいる。多分それは大きな組織で、何なら一国くらいは有り得るかも知れなくて、そして、――ずっと前から帝都を狙っている存在」



 エウラリカの表情は硬かった。彼女は言い終えると唇を引き結び、それから唾を飲む。彼女は囁くように呟いた。

「だって、相手は恐らく、地図を持っている」

「地図? 何のですか?」

 カナンの問いに対する返事はなかった。腕組みを解いて膝の上に手を戻したエウラリカが、強く、指の節が白くなるほどに拳を握りしめる。彼女は唇を噛んだ。肩を強ばらせてぎゅっと目を瞑り、それから戦慄く息を吐き出す。

「……エウラリカ様?」

 カナンがおずおずと声をかければ、彼女は薄らと瞼を上げた。明るい色の睫毛に縁取られた双眸に、複雑な光が湛えられる。


「あの男が寝返った相手なんだもの。ただ者であるはずがないわ」

「『あの男』? ……一体、誰の話をしているんですか?」

 要領を得ない話だった。カナンの胸の内に嫌なものがもやのように広がってゆく。


 ……エウラリカがよく分からない話をするのは日常茶飯事だ。しかし今は、そこにしこりのような違和感がある。カナンは腰を浮かせて身を乗り出した。するとエウラリカはカナンの視線を避けるように項垂れて顔を背けた。彼女がそのように弱気な仕草を見せるのは珍しかった。カナンは指先がすうっと冷えていくのを感じていた。

「寝返ったって何ですか? さっきから、何のことを言っているんですか」

 エウラリカの表情に常とは違う懊悩の色を見咎めて、カナンは眉根を寄せた。



 今、自分が、これまで見たことも触れたこともないエウラリカの一部を目の当たりにしていることを、カナンは敏感に感じ取っていた。正体の分からない不安に襲われる。嫌な予感がした。

 エウラリカは青ざめた顔で俯いたまま、長いこと沈黙していた。まるで幼い少女のような顔をして、片腕を回し、自らの体を抱き締める、その指先が震えていた。


「……エーレフ、」


 エウラリカは瞑目した。腹の前で十指を組み合わせる。そうして彼女は、掠れた声で囁いた。


「――――私が殺した、お前の前任者よ」


(前任者?)


 カナンは目を見開いてエウラリカを見つめる。その口元に浮かぶ微笑は虚ろだった。エウラリカは「ふふ」と力なく息を漏らした。直後、彼女の両目が音もなく持ち上がり、正面のカナンを縫い止めるように厳しい眼差しを向ける。

「前に言ったことがあるかしら。……私ね、二枚舌の裏切り者が一番嫌いなのよ」

 カナンは、声もなく、エウラリカを見据えていた。……自分の前に、同じような役目を仰せつかっていた人間が、いた?

 そんなことは知らない、そう頭を振りかけたカナンの脳裏に、いくつもの断片が蘇る。初めて来たときから用意されていた衣服。かつてエウラリカが呟いた名前。思い返せば、この部屋には、かつて自分以外の人間がいた形跡が残されていたような気がした。



 全身が凍り付いたようだった。身動きが出来ないまま、暴れ狂う鼓動の音を聞くばかりのカナンを眺めながら、少女が頬を吊り上げる。

「ねえ、何で私があの日、玉座の間で、お前を奴隷にしたと思う?」

 エウラリカの喉から、くつくつと笑う音が漏れ聞こえている。その口元は歪んだ弧を描いていた。エウラリカの目はちっとも笑っていなかった。見下したような目、ちっともカナンを見ていない目。冷ややかな眼差しは、かつて捕虜として捕らえられ、エウラリカと初めて相対したときのことを思い起こさせた。


 あのときの屈辱が、まるで今のもののように胸の底へ沸き起こる。反抗的なカナンを見下ろしてエウラリカは嗤った。そして、エウラリカは、カナンの頬をその足で蹴りつけたのである。


 あのときエウラリカは何と言っていた? ……当時は意味をなさなかった音が、今、何年もの時を超えて耳元に蘇る。

 今なら分かる。エウラリカは初めからはっきりと示していたのだ。それこそ、カナンがこの少女を初めて目の当たりにした、あの瞬間から。


 ――『前からいた子』『ちょっと悪戯したから』『叱っただけ』『動かなくなった』。


 ああ、と、カナンの唇から声が漏れた。カナンは目を見開き、言葉にならない吐息を吐いた。今目の前にあるエウラリカの顔に、表情はなかった。カナンは全身から力が抜けていくのを感じていた。



 どうして今まで気づかなかったのだろう。あのときのエウラリカのことを思い返さなかったのだろう。違和感を抱かなかったのだろう。



 だって、エウラリカは、何もない限り、外へ行くときはいつだって、靴を履いていた(・・・・・・・)じゃないか。


 エウラリカが裸足で立っていたことなど、数えるほどしかない。……では、それらはどういうときだった?


 カナンは喉を反らし、喘ぐように息を吸った。絞り出した声は掠れていた。

「――あの日、あなたは、手ずから従者を殺したのですね?」

 エウラリカは答えなかった。それこそが答えだった。カナンは唇を噛む。


 ……だってあの日、あなたは、裸足だったじゃないか。

 目の前に悪夢のような光景が蘇る。裾の下に覗く二本の足。淡い色をした爪先。柔らかな素足が軽やかに床を踏む。カナンは縋るように首輪を握り締めた。



『……裸足で帰られるおつもりで?』

『ええ。換えの靴がないもの』

 血濡れた靴を片手に目を伏せたエウラリカの姿と、そのときの会話が蘇る。それは、彼女が己の手で兄を弑したときのこと。白々とした足が床を踏む。あのときの彼女の顔が思い出せない。彼女は笑っていただろうか? 蘇るのは、ただ、その息混じりの声と、交わした言葉ばかりである。

『裸足は痛いでしょう。冷たいでしょう』

『そうね。でも今はそれがいいの』



 今、目の前で、エウラリカは静かに笑っていた。カナンの問いかけに是とも否とも答えず、彼女はただ微笑んでいた。カナンはぽつりと呟く。

「僕はただ、その日、そこにいただけだったんですね? ……ただの代わり、穴埋めだった」

 信じがたい事実を、無理やり唇に乗せる。懐疑的なカナンの視線を受け止めて、エウラリカはゆっくりと瞬きをした。彼女はカナンの言葉を否定しようとはしなかった。


 そうして少女は実に可愛らしく、無邪気な表情で、目を細めた。

「――生きてるって感じがするでしょう?」


 視線は重なった。けれど彼女の目はどこか遠くを見ている。エウラリカは決してカナンを見てなどいなかった。

「ぜーんぶ、ただの偶然よ。言ったじゃない、お前が目的だったことなど一度もないって。間違っても勘違いしないことね――お前が、私にとって特別な価値のある人間などとは」

 それは叩きつけるように、殊更に酷薄な含みのある笑みである。だがそこに、今にも崩れ落ちそうな不安定さが透けて見えるような気がして、カナンは言葉もなく唾を飲んだ。





『だいすきよ』

 遠い記憶の向こうに、かつてのエウラリカの言葉が蘇った。優しい仕草と言葉でカナンに手ずから菓子を与えている。……あの日々のことは、カナンの中に、耐えがたい恥辱と嫌悪感を象徴するものとして刻まれていた。決して思い出すまいとしていたせいか、記憶は極端に薄れて判然としない。


 カナンはくしゃりと顔を歪め、拳を握りしめた。

『ずっと良い子でいてね』

 あのとき、エウラリカは、一体、どんな顔をしていた?

 ――その目はどこに向けられていた?



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― 新着の感想 ―
[良い点] うわうわうわっ! せっかく二人が(齟齬はありながらも)同じ方向を見ながら歩けるかというときに……そんな、今になって最初の……!
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