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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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兇手-崖


 本を胸の前で抱いたまま、カナンは温室に足を踏み入れる。城内を移動中、最後に時計台を見た時点で、指定の時刻は僅かに過ぎていた。しかし、先にこの場所と時刻を指定してきたはずのエウラリカの姿が、ない。

「エウラリカ様? ……いないのか?」

 試しに呼びかけてみたが、返事はない。室内はいつもより冷えており、そして、気味が悪いほどの沈黙に満たされている。この植物園はそれほど広くない。壁際に沿って棚が置かれ、その上に大小様々な植木鉢が置かれているだけの一室である。壁は全てガラス張りだ。隠れられる場所はない。


 不穏な気配を振り払うように、カナンは一度ため息をついた。

「何だよ、自分で呼び出しといて、遅刻かよ……」

 主人の不在を良いことに、カナンはぶつくさと文句を言いながら奥へと足を踏み入れた。丸い小さな天板に本を置き、カナンは椅子にでも座ってやろうとテーブルを回り込む。

 と、そこで彼は、椅子が横倒しに床に転がっているのを見つけて、眉をひそめた。椅子を戻そうとその背もたれに手を伸ばしかけ、――はたと足を止める。

 息が止まった。足下がぐらりと大きく揺れた気がした。



 石のタイルを並べられた床の上に、大きな血痕が広がっている。それは血溜まりというほどのものではなく、しかし何かの偶然に流れる血の量を明らかに超えていた。


(まだ新しい、)

 カナンは血痕の端から、赤黒い染みが点々と伸びてゆく方向を目で追う。視線を向けた先には、使われているところを一度も見たことのない、裏口。しかし今は開け放たれたままである。

 温室の更に奥、整えられた庭園が尽きるその先、鬱蒼と茂る森の中へと、それはまるでカナンを誘い込むようだった。


 もしも、エウラリカが、先に温室に来ていたとしたら?


 床に散った血の色が、まるで残像のようにちらついていた。鮮烈な赤色。まだ濡れててらてらと光を反射する、……

「エウラリカ、」

 カナンは呆然と呟き、よろめきながら姿勢を戻すと、棚に手を触れながら裏口へ向かって近づく。腰に手を当て、そこに剣の柄があるのを確認した。

 裏口を出れば、澄み切った外の空気が胸を満たす。それに清々しさを覚えている場合ではなかった。

「……っエウラリカ様!」

 カナンは叫んで、血の跡を追って暗い森の中へと駆け込んだ。



 森に分け入ってすぐのところで、彼は足下を見て立ち止まる。湿った落葉には明らかに踏み荒らした跡があった。ここで何かがあったことを表している。しかし光は遮られ、地面の色は濃い褐色である。血の跡がどちらへ続いているのかは、もはや認めることはできない。

「はあ、はあ……」

 カナンは肩で息をしながら周囲を見渡す。全身にびっしょりと汗をかいていた。森の中はしんと静まりかえっている。帝都の奥にある宮殿、その更に背後を囲む森である。人など立ち入るはずもなかった。


 佇立する木々の狭間に立ち尽くしたまま、カナンは自身の脈拍の音ばかりを聞いていた。四方に神経を張り詰めさせ、胸を上下させて息をする。風が梢を吹き抜ける音。鳥が控えめに鳴き交わす声。虫の羽音。――女の声。


 カナンは弾かれたように声の方へ顔を向けた。躊躇は一瞬のことだった。行く手を阻む木の根を飛び越え、幹に片手を当てて回り込む。下生えでは小さな花々がその花弁を懸命に開いていたが、そんなことに頓着している場合ではなかった。白い花弁を踏みにじり、カナンは森を駆ける。


 ……そうして、森が切れたところで、カナンは鋭く息を飲んだ。

(これは、)

 森の先、そこは、深く切り立った崖の上であった。下からは重い轟音が地響きのように聞こえていた。水音だ。帝都は大陸の中に在って島のように周囲から隔絶されていた。二つの大河と一つの運河によって区切られた三角形をした陸の孤島。大河の対岸から見れば、その地面の高さは見上げるほどだという。だからこの崖はぞっとするような高さがあるはずだった。


 そして、目の前では、左腕を真っ赤に染めたエウラリカが、見知らぬ男に首を掴まれて喘いでいる。


 その細い首に男の手がかかり、反対の手には濡れた刃が握られている。エウラリカははくはくと口を開閉しながら、懸命に爪先で立って自分の体を支えていた。崖際にエウラリカを追い詰めた男は、逆手に握った短剣を高々と振り上げ、今にも切っ先をエウラリカに突き立てようとしているところであった。エウラリカの腕に、目も眩むほど鮮やかな色をした血が伝っていた。

 そうした光景を見て取った瞬間、カナンの頭にカッと熱が上る。ろくに思考は回らなかった。それは実に動物的な衝動であった。剣を抜きざま強く地面を蹴り、こちらに背後を向けた男に肉迫する。


 ――その背に斜めに剣を切り下ろす直前、男の肩越しに、エウラリカと視線が重なった。刹那、彼女が頬を吊り上げて微かに笑う。カナンは息を飲んだ。男は気配に勘づいたように、顔から振り返ろうとする。

 ……直後、エウラリカの両足が浮く。否、彼女が自分で膝を胸へ引き寄せて身体を丸めたのだ。


 片手で首を掴まれた状態で足を畳み、エウラリカは一瞬だけその顔に苦悶の表情を浮かべた。しかし、振り返りざま、片腕に全体重をかけられた男はそれどころではない。片手ではエウラリカの体重を支えることが出来ず、男は大きく体勢を崩して前のめりになった。

 崖際でそのような行動に出たエウラリカに、カナンは息を飲む。あと数歩も下がれば真っ逆さまに落ちるようなところで、そのように突拍子のない行動に出るなど。少し目測を誤れば崖の下に転落しかねない。胸の底がひやりとする。

 カナンの剣先が男の背を切り裂くと同時に、エウラリカは地面を転がり、その体躯の前から素早く横へ避けた。砂煙がぱっと舞い、土の上に片手をついてエウラリカが間髪入れずに身を起こす。咳払いの音に振り返ると、エウラリカは喉元に手を当てて咳き込んでいる。呼ばれたわけではないらしい。

 カナンはすぐさま男とエウラリカの間に入り、彼女を背に庇った。男はぎらぎらと光る目をしてカナンを睨みつけた。


「何者だ! 一体誰の差し金で……!」

 厳しく誰何したカナンは剣を構え、男に相対する。男は口を噤んだままでカナンの問いに答えるつもりはないらしかった。代わりに答えたのが、肩で息をしながら立ち上がったエウラリカである。

「良いわよ、そんなこと聞かなくて。大体想像はついているわ」

「えっ、そうなんですか?」

 思わずエウラリカを振り返った、その隙を男は見逃さなかった。低く喉の奥で唸って、男が短剣を振り上げてカナンに迫る。カナンは慌てて表情を引き締め、体勢を立て直す。


 男の武器は短剣のみ。人の目がある城内という条件からすれば妥当と言えた。すなわち間合いはこちらの方が圧倒的に長い。カナンは唇を厳しく引き結び、油断しないままに両手で剣を構えてじりじりと男に迫る。

 ついに男の後ろ足が崖の端にかかった。そこで、カナンははたと動きを止める。

(……俺は、この男を殺すのか?)

 もはや逃げ場を失った男、武器はこちらに利があり、相手は既に深手を負っている。しかしこれはエウラリカを襲った人間であり、決して見逃すわけにはいかない。だからといって……。


 そんな思考を数秒巡らせていた、そのとき、背後で鋭い咳払いがする。今度こそ確信する――『呼ばれた』。

 咄嗟に首を竦めて身を屈めたカナンのすぐ耳元を、何かが重い風切り音と共に通り過ぎる。息を飲んで目を上げる。ごつん、とくぐもった音がして、男が大きく仰け反った。

「ああっ!」

 カナンは目を見張った。男は両手を泳がせ、そのまま、何も支えるもののない背後の虚空へと倒れてゆく。男の顔は驚いたような表情を象っていた。カナンはそれをただ目の前で見ているばかりだった。エウラリカの放った拳大の石と共に、その体がゆっくりと崖の下、湖のように広く深い大河へと落ちる。男の姿は音もなく遠のいた。



 遠くの眼下で、重い水音が僅かに響く。カナンは呆然とその場に立ち尽くしていた。あまりに唐突に始まった事件は、あまりに呆気ない幕引きで終わった。事態を飲み込む前に終わってしまった全てに、カナンは数秒の間瞬きを繰り返し、それから肩を怒らせて低い声を出した。

「……どういうことなんですか、エウラリカ様」

 カナンは剣を収めてから、険しい顔をしてエウラリカを振り返った。彼女はぱんぱんと砂のついた手を払うと、「ご覧の通りよ」と両手を挙げて肩を竦める。


「――私、どうやら命を狙われているみたい」


 訳もないと言うように放たれた言葉に、カナンは背筋が寒くなるのを感じた。エウラリカは片手を腰に当て、やれやれと嘆息する。

「私の存在を消したい人間にはいくらでも心当たりがあるから……。でも、これほどまでの行動に出る人間というと、限られてくるわよね」

 そう語るエウラリカの左腕は、目に痛いほどの赤色が幾筋も指先まで伝っている。彼女が平然としている様子からするに、恐らくはそれほど大きな傷ではないのだろうが、しかし、痛々しい。

「その……エウラリカ様。話は後で聞きますから、まずは一旦部屋に戻りましょう。怪我をしているようですし」

「ああ、これ? ちょっと切られただけよ。ほとんど返り血」

「それでもです。もしも何か毒でも塗られていたらどうするんですか!」

「ああもう、うるさいわね」

 しつこい、と言うようにエウラリカは手をひらひらと振って見せた。


 エウラリカがこれ見よがしに腰に手を当て、盛大なため息をつく。

「お前は一体、いつからそんなに生意気な口を利くようになったのかしら」

「わりと最初の頃からですよ」

「……言われてみれば、確かにそうね」

「そうです」

 言いながら、カナンは薄手の外套を脱ぎ、エウラリカの肩にかける。王女が血まみれのまま城内を歩いていたとなれば、流石に問題になるだろう。エウラリカは無事な方の手で襟元を引き寄せながら、大げさにため息をついた。



 ゆっくりと歩き出したエウラリカに歩調を合わせて、カナンは控えめに問うた。

「どうしますか、先程の男については……軍部にでも知らせますか」

 エウラリカは一瞬だけ思案し、「いえ」と頭を振る。不満げにカナンが眉をひそめたのに気づいたらしい、彼女は目線だけでカナンを窺った。


「まださっきの男を使わした人間が誰か分からない以上、迂闊に事を大きくする必要はないわ。私、軍部だろうと行政府だろうと帝室だろうと、この城にある組織というものを信用していないのよ」

「でも、また同じような……暗殺者が来たら? どうするんですか」

 カナンは唇を引き結び、非難の意思をありありと示してエウラリカを見据える。彼女は「ん、」と呟いて少し視線を逸らし、それから再びカナンに目を向けた。

「まあ、大丈夫なんじゃない?」

 そう言ったエウラリカの両目が、愉悦に細められるのを、カナンは黙ったまま見据える。二人分の足音が規則的に続いていた。大量の水が南へと流れてゆく轟音が遠のいてゆく。風は時折思い出したように葉擦れの音をさせていた。

「私はそんなに心配していないわよ、」

 エウラリカの唇が弧を描いた。


「――だって、お前がいるんだから」


 適当にその場を濁そうとしているのが見え見えな言葉だった。カナンは歯噛みし、返す言葉を探す。

「そんなに買いかぶられても困ります」

 ただそれだけ答えて、彼は重いため息をついた。


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