不穏
城外の図書館に足を運んだカナンは、棚の間をゆっくりと巡りながら一つの名前を探していた。
(オルディウス・アルヴェール……)
わざわざこんなところまで探しに来なくても、とは思ったが、エウラリカに言われたことがどうにも引っかかっていたのだ。
地下通路でエウラリカが語ったこと。……新ドルト帝国ができる前、この場所には、大陸には、一体何者が国を作っていたのだろう?
(こうしたことを調べるのなら、ジェスタの方が良いんだろうな)
頭を掻きながら、カナンは背の高い棚を見上げる。ジェスタにある非常に大きな図書館――大陸中央書庫には、非常に古くからの資料が貯蔵されている。古今東西の地図もあったはずだ。
しかし、ジェスタにいた頃のカナンは、格別な興味を図書館に示したことはなかった。本というのはその場にあって当然のものだった。だから、自分から、その中に分け入って調べたい分野を探るなど……そんなことをした経験はなかった。
帝都に来てから、ジェスタがどれだけ特殊な環境だったかに気づく。帝都は確かにジェスタより人口も多く、整備され発展した都市だったが、知識を得るのにはやや不都合だった。何せ図書館はそれほど大きいわけでもなく、学院もあるらしいが、通うのは一部の上流階級の子どもだけだという。
とはいえ、ここの図書館も十分に広いし、何より配置が整頓されていて分かりやすかった。そういうところはやはり、新しい施設に利があるところだった。
「あ、」
と、そこでカナンは足を止め、本棚の一番上の段に目を留めた。
(あった)
他の本と一緒に挿し込まれている背表紙の著者名を見て取って、カナンは眉を上げる。そこに記されているのは、エウラリカの一人目の婚約者の名前である。
オルディウス・アルヴェール。食事会の最中に毒殺され、この世を発った学者である。エウラリカが言うには、帝国が出来る以前の時代に関する学者だったとか。彼女がカナンに『読んでおけ』と言っていたのは、オルディウスが訳した叙事詩の一冊だった。
カナンは踵を浮かせて手を伸ばし、指をかけて棚からその一冊を引き出した。あまり借りられることのない本なのか、その背表紙はややほこり臭い。ぱらりと本文を浚うと、そこには見慣れぬ文字と、いつの間にか見慣れた帝国語が交互に並んでいる。対訳ということだろう。
(ふーん……)
こうした本に手を出すのは初めてである。カナンは数度瞬きをすると、本を一旦閉じた。ぱたん、と音を立てた表紙を数秒見下ろしてから、彼は再び棚に目を戻す。探せば、オルディウスの著書は他にも二冊ほど見つかった。
どうするか、と少し躊躇ってから、カナンはそれらも手に取る。
エウラリカが読めと言ったから。それも理由の一つではあったが、決してそれだけではなかった。
(……知りたい)
狭い通路をゆったりと歩きながら、カナンは胸の内で呟いた。
(俺が生まれるよりもずっと昔に何があったのか。……エウラリカが見ている世界が一体どんなものなのか)
それは、まるで果てしのない深みを遠望するような。畏怖に満ち、それでいて胸の底の沸き立つような感覚を覚える、不思議な心地だった。
司書のところで貸し出しの手続きを取ったカナンは、本を小脇に抱えたまま図書館の出入り口から外へと歩み出る。その日は朗らかな春の日だった。明るい日差しが公園に降り注ぎ、市民たちが活発に行き交う様子が見て取れる。冷たい冬が終わり、ようやく訪れた春の気配は実にのんびりとしていた。
(良い天気だな)
カナンは思わず口元を綻ばせ、風で揺れて視界に入る髪を片手で押さえた。結び目が緩かったらしい。
(そろそろ伸びてきたか)
頬を撫でる髪を払いながら、カナンは眉を上げる。
帝国では髪を長く伸ばしている男性は少なかった。ジェスタでは長髪の男性もそれほど珍しくはなかったが、お国柄の違いだろうか?
(軍人が髪を伸ばしていると、遠征のときなんかに邪魔だしな)
結び目からこぼれ落ちた一房が風に煽られ、ほつれ、揺られている。何となくカナンは髪を短く切り揃えることはしないままでいた。別段、自身の髪型にこだわりがあるわけでもない。ただ単に面倒で、そのまま放置していただけのことである。胸元まで伸びてきたら適当に剣か鋏で毛先を切り落とすくらいだった。
帝国に来たのなら、髪型も帝国風に合わせた方が良いのか? その方が無駄に人目を引かずに済むかも知れない。
カナンは少し考えた。
(……まあ、エウラリカに怒られたら切れば良いか)
とはいえ、エウラリカが人の見た目に頓着するような主人でないことは分かっている。要するに結局髪は短く切り揃えないだろう。
と、そこでカナンは眉をひそめる。
(そういえば、エウラリカはもう少し着飾るということをしないのか?)
いつも古めかしい衣装に簡素な装身具、あとは時たま紅を引くか白粉をはたく程度である。カナンとて女性の支度に詳しいわけではないが、エウラリカのそれはあまりにも簡単すぎた。……仮にも一国の王女が、『あれ』?
(本人が良いなら別に構わないけど……いや、ただでさえ人目を引くんだから、余計に着飾らない方が良いという判断なんだろうか)
横滑りする思考を止めることのないまま、最終的にエウラリカの服飾事情について悶々と考える。その矢先に、遊歩道の交差するところでいきなり「カナン」と声がかけられ、彼は飛び上がって驚いた。
見れば、そこには見慣れたウォルテールの顔と、見覚えのないもう一人の青年、そしてまだ幼い少女の三人連れがある。少女はこの辺りではやや珍しい赤毛をしていた。恐らくは西の方の血を引いている。
(……西?)
カナンの記憶をちくりと何かがつついたが、今は一旦置いておく。
その場で立ち止まったカナンの前に三人が並ぶ。見知らぬ青年はカナンに目を留めると、少女を庇うように一歩前に出て眉をひそめた。
「誰ですか?」
慎重な声音で問われ、カナンは一瞬面食らう。なるほど、どうやら自分は警戒されているらしい。そう思いながら相手の顔を見つめてみると、その顔にはウォルテールの面影があった。
(なるほど、血縁か)
内心で合点して、カナンはにこりと和やかに微笑んだ。ウォルテールの周辺には愛想を良くしておくに限る。
「初めまして。エウラリカ様の……」
と、そこでカナンは言葉に詰まった。……自分のことを何と紹介して良いものか分からない。カナンは少しだけ躊躇してから、「従僕です」と苦し紛れに続ける。ウォルテールの生暖かい視線を頬に感じながら、カナンは強引に笑顔で押し切った。
ウォルテールが仲立ちするように立ち位置を変える。
「エウラリカ様に仕えているカナンだ」とカナンを指し示してから、次いで顔の向きを変えて「カナン、こっちは弟のヘルト」と青年を紹介した。紹介された青年は少し口角を上げて、「ヘルト・ウォルテールです」と軽く礼をする。カナンも浅く頭を下げ、それに応じる。
(弟もいるのか)
ウォルテールに兄がいることは……知っている。あとは妹がいることも知っていた。
ヘルトはカナンに向き直って、人の良い笑みを浮かべてみせた。兄の知り合いだと分かったことで安心したらしい。
「こちらの言葉がお上手ですね。王女さまの側仕えなんですか?」
「ありがとうございます。まあ……そんなようなものですね」
事情が事情なだけに、歯切れが悪くなってしまうのは仕方なかった。しかしヘルトは怪しんだ様子もなく「そっかぁ」と小さく漏らして頷いてみせる。
不意に目を輝かせて、ヘルトはカナンを見つめた。
「王女さまってどんな方なんですか?」
興味津々、といわんばかりの顔と態度で、彼はやや不躾なほどに身を乗り出した。どういう訳か、そういう仕草が許されるような雰囲気のある青年だった。
「絶世の美女だって噂で聞いたことがあるんですけど」
と、その質問にカナンは苦笑する。確かにエウラリカの見目が良いのは否定しづらい事実ではあった。でもそこに言及するのは何となく腹が立つような気がしてやめておく。
「可愛らしい人ですよ。俺にはちょくちょく我が儘を仰ったりしますが、それを聞くのも嫌じゃないのが困りもので」
そうまで言ったところで、カナンは思わず堪えきれずに笑ってしまった。自分で言っておいて驚きだが、まさか自分の口からこんな言葉が出るとは思わなかった。口からでまかせだが、全くの嘘というわけでもなかった。
(……エウラリカの指示を聞くのは、決して嫌ではない)
それほど理不尽な命令は……いや、ないと言ったら嘘になるが、大抵は何かしら理由のある指示である。
(驚いたな……俺は、この生活が楽しいのか? まさか……)
自分でも面食らいながら、カナンは息をついた。外部の人間にこれ以上エウラリカの話題を続けるのは、あまり好ましくない。
「それで」とカナンは口火を切り、ウォルテールの背後でその足に掴まっている少女を見下ろした。目線を合わせるように屈みながら、「こちらは?」と呟く。
ウォルテールに半分隠れるようにしながら、その少女は大きな目をいっぱいに見開いてカナンを見返した。不思議そうな表情があどけなく、カナンは思わず相好を崩す。
「こんにちは。僕はカナンっていうんだ」
努めて柔らかい声で言うと、少女はぎゅっとウォルテールの足に掴まった。それから大いに躊躇う様子を見せ、恐る恐るというように顔を出す。
「……わたし、セイレア」
おずおずと応える、その様子が、ジェスタにいるであろう年の離れた妹を思い出された。
(ウーナもよく人見知りをする子だった)
胸の内で妹のことを思い浮かべながら、カナンは目を細めて笑う。
「良いお返事だね。セイレアちゃんはいくつかな?」
「みっつ」
「良い子だ」
カナンはセイレアの頭を軽く撫でてから、姿勢を戻してウォルテールに向き直る。
(三歳か。となると、生まれたのは俺が帝都に来た年とそれほど離れていない)
そしてカナンには思い当たる節があった。ちら、とセイレアの髪色を見る。艶のある赤毛。カナンの黒髪ほどではないが、帝都ではあまり見ることのない色彩である。
(赤毛は大陸西に住む人種によく見られる特徴だ。西にあるのはユレミア圏。この子がユレミアの血を引くとすれば、あのときのエウラリカの行動にも合点がいく)
カナンはふと遠い記憶に思いを馳せる。エウラリカに叩き起こされ、ウォルテールに図鑑を届けに行けと顎で使われた記憶である。堕胎薬としても使われるポネポセアを巡って、ウォルテールの義姉と妹が対立したのを解決するための一冊だった。
……図鑑に記されていたのは、ユレミア語。
(時期から考えても、そのときの子か? じゃあウォルテールの姪か)
考えながら、カナンはウォルテールに視線を向け、白々しく「三年も前にお子さんが生まれていたんですね」と笑顔で話しかけた。せっかくのネタなので遊んでおかなければ勿体ない。カナンはわざとらしく怪訝に眉をひそめて呟く。
「まさか隠し子……?」
「はァ!?」
大きく口を開いたまま言葉を失ったウォルテールに、カナンは肩を竦め、腰に手を当てて身を乗り出した。
「このこと、アニナさんには言ってあるんですか?」
「は!? ……違う、俺の子じゃない! これは姪だ!」
「何だ、姪ですか」
やはり姪で合っていたらしい。さほど深追いするような話題ではないのでこの辺りで住ませておく。ウォルテールは恨めしげな目でカナンを軽く睨んだ。
「……お前、最初から分かっていたな?」
「知り合いか親戚の子どもなんだろうなとは……」
茶化すように舌を出して首を竦めると、ウォルテールは実にあっさりと誤魔化された。こういうところが甘い人である。
「ごめんなさい」と笑いを噛み殺しながら、カナンはセイレアを見やった。しゃがんで目線を合わせると、この小さな少女は照れ笑いのように頬を緩める。その明るい赤毛を見ながら、カナンはヘルトを一瞥した。
「西の方から来られた方のお子さんですか?」
軽く探りを入れると、ヘルトとその兄であるウォルテールは揃って目を丸くした。
「どうしてお義姉さんの出身地を?」
「とても綺麗な赤毛なので」
そう言えば、二人はぱっと嬉しそうに表情を明るくする。カナンは思わず内心で苦笑した。
二人揃って分かりやすい兄弟である。何も知らず、思っていることが顔に出やすく、いかにも善良な人種だった。
(こんなんじゃ人にすぐ騙されるだろうな)
そう考えて、カナンは頭を振る。彼らは、自らを出し抜こうと近づいてくる人間の相手をする必要はないのだ。……こうまで善良な性質を持っていても何の問題もなく生きていけるのが、彼らの持つ特権なのだろう。カナンは無言で奥歯を噛みしめる。不意に突き上げるような苛立ちに襲われたが、一瞬の後には怒りは雲散し、やるせなさだけが胸に広がった。カナンは目の前の少女のお下げに丁寧に触れながら、少し目を伏せる。
(ルージェンは、この二人の兄なのか……)
ふと浮かんだ男の顔に、カナンは僅かに表情を暗くした。――ルージェンがアジェンゼの横領や先の婚約騒動に関与していたことは把握している。しかし、彼の目的は依然として判然とせず、その影響力が多岐にわたっていることばかりが分かっている。これまでに三度ほど会ったが、どうにも腹の底の読めない男だった。
カナンはちらとウォルテール家の三男と四男を見上げる。随分とのほほんとした顔をしている。
(……まあ、物事の裏を探ろうとしないのも、それはそれで、彼らの美徳なのかもしれない)
セイレアのお下げを両手で摘まんで毛先で頬を撫でてやりながら、カナンはそう結論づけた。ウォルテールはその様子を覗き込むように首を伸ばし、腕を組む。
「母親が東ユレミアの出身なんだ」
「ユレミア……」
東ユレミアといったら、帝国の植民地のひとつである。属国となったジェスタとは異なり、自治権などの権利は剥奪され、完全に帝国の管理下に置かれている地域ということになる。
(なかなか殺伐とした地域からのおいでで)
植民地という、帝国内でも一際迫害を受ける地域から来たセイレアの母は、一体どのような人間なのだろう。セイレアの顔にその面影を探そうとして、カナンは彼女の顔をじっと眺める。頬のふっくらとした可愛い少女である。
あまりウォルテール家の面影はない。「姪っ子ですっけ?」と問えば、ウォルテールは「ああ」と頷いた。
「兄の子だ。もしかして城内ですれ違ったことがあるかもしれないな」
そう言われて、カナンは、はたと気づいた。背筋をひやりとした感覚が襲う。そういえば母についての話ばかりで、セイレアの父が誰かということに意識を向けていなかった。
「……へえ」
呟いて、カナンはセイレアの柔らかい頬に人差し指を押し当てた。セイレアはくすぐったそうに首を竦め、ぷく、と頬を膨らませる。……この子の父は城内にいる、ウォルテールの兄?
(――それでは、この子の父親は、)
カナンは、自身の眼差しが、暗く、鋭く尖っていくのを感じた。全身がひりつくような緊張感に包まれる。気がつけば、カナンの人差し指はセイレアの頬を押しつぶしていた。押し出された唇がにゅっと小さく突き出る。
「……お兄様も、軍部に?」
白々しくとぼければ、ウォルテールは朗らかな調子で「いや、」と応じた。
ウォルテールは何気なく語る。まさか自身の兄と目の前の男に確執があるなど知りもせずに。
「行政だ。官僚をしている」
まさか、自身の兄が、帝都で様々な糸を張り巡らせる謀略の主であるなど知りもしないで。
「なるほど」
カナンは仄暗い目を瞼で覆いながら、言葉少なに頷いた。そして、目線だけで足下の少女を一瞥する。
それでは、今目の前にいるのは、――ルージェンの娘。
(セイレア、か)
カナンは胸の内で小さく呟いた。遠くを見ながら男の顔を思い浮かべる。自身の思考が、それまでの平穏で平凡なものから、張り詰めて不穏な方へと転がっていくのを感じた。……果たして、ルージェンは娘を愛しているだろうか?
カナンはわざとらしい素振りで時計台に目を向けた。
「エウラリカ様に呼ばれているので、そろそろお暇させて頂きますね」
それは嘘ではなかった。このあと、珍しくエウラリカは時間と場所を指定してカナンを呼びつけるということをしていた。今頃エウラリカは先に温室に行っている頃だろうか。
「あ、」と、不意にウォルテールが声を漏らす。その目が僅かに見張られた。視線を辿れば、彼はカナンの手元――本を見ている。
(ちょうどまずかったな)
冬が明けた今となっても、オルディウス・アルヴェールの名は未だにウォルテールの中で強く焼き付いているに違いない。しかし、いちいちこの本について突っ込まれていたら、エウラリカとの約束に遅れてしまうだろう。
素早く判断を下し、カナンはやや強引に「では」と頭を下げてその場を立ち去ろうとする。呼び止めようとでもするように、ウォルテールの手がぴくりと持ち上がりかけた。それを見て取って、カナンは目を眇める。
ウォルテールが何かを言うよりも早く、カナンは朗らかに微笑んだ。
「アニナさんに言っておきますね。子どもと一緒にいるウォルテール将軍もお似合いだったって」
「は? おいやめろ、あれに余計なことを言うんじゃない」
このウォルテールが、やや年の離れた若い侍女と懇意にしているのは有名な話だった。なかなか癖の強い女だとは思うが、どうもウォルテールは彼女を遠ざける様子がない。
(……ウォルテールはエウラリカになびかないんじゃなくて、もしかしてただ単に女の好みが変なだけなんじゃないか?)
やや失礼な結論に至りながら、カナンは文句を言うウォルテールを振り返った。
「どうしましょうね」
「おい!」
同伴者二人を連れて自由に移動できないウォルテールを置いて、カナンはさっさとその場を立ち去った。それはあくまでごく平穏な、うららかな春の昼下がりのことであった。不穏なのはカナンの胸中ばかり。彼の思考とは裏腹に天候は良く、足取りも軽くなる。
その日は平穏な、暖かな春の日であった。……そのように思われた。




