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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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絵本



 イリージオが昨晩あのあと、橋から身を投げたという話を聞いても、カナンはそれほどの驚きを覚えなかった。

(……死んだか)

 カナンは僅かに目を伏せ、最後に見たイリージオの後ろ姿を胸の内で反芻する。


 報せを雑談のように持ち込んだ配達人は、荷物の中から一冊の本を取り出した。

「ほい、これ。アルヴェール家からの注文で取り寄せた絵本でさあ」

「絵本?」

 聞くに、オルディウスが生前に注文していたものだという。それをアルヴェール家に届けに行ったところ、家令からエウラリカに渡すようにと言い使ったそうだ。取りあえず受け取って、表紙をざっと眺めた。柔らかな色合いで描かれた絵に首を傾げる。

(竜と……透明な少女?)


 カナンに絵本を渡した配達人は、もう仕事は済んだとばかりにさっさと立ち去ってしまった。通路の中央に立ち尽くしたまま、カナンは「へえ……」と呟いた。



 絵本の中身を確認しようと親指を表紙にかけた矢先、唐突に背後から声がする。

「あら、何それ」

「うわっ! ……も、もう驚きませんよ」

「取り繕い方が下手でみっともないわ。減点」

 言いながら、エウラリカはカナンの手元を覗き込む。何の点を引かれたのだろうか。カナンは半目になった。

 下を向いたエウラリカの表情は、耳から滑り落ちた髪に隠されて分からない。「あら」とエウラリカが小さく呟いたのが聞こえた。


「オルディウスが届けてくれたのね。……何だか皮肉だわ」

 エウラリカの言葉に首を傾げると、彼女は絵本をカナンの手から取り上げながら肩を竦めた。「思い込みや勘違いによる悲劇を描いた話なのよ」と呟いて、エウラリカは絵本を胸の前に抱き寄せる。その表情に、一瞬だけ形容しがたい苦みが混じった気がした。



 カナンが息を飲んだ直後、エウラリカが不意に振り返り、ぱっと表情を輝かせる。

「あら、ウォルテール!」

 その声に顔を上げると、通路の向こうから歩いてきたウォルテールと視線が重なる。愛想良く微笑みかけてやったのに、ウォルテールは何故か苦々しい表情をした。怪訝に思いながらも笑みを深めるが、ウォルテールの顔は晴れない。


 どうしたのだろうかと内心で眉をひそめるカナンをウォルテールは見据え、何の脈絡もなく唐突に問いを投げかけた。

「――イリージオという男を知っているか?」

 ……正直に言えば、息が止まるかと思った。いきなりの問いに、心臓が嫌な感じに早鐘を打つ。

 カナンは「さあ」と強ばった表情で首を傾げた。



 知っているかだって? それはもちろん知っている。あの男が自身を『肉親を毒殺した咎人』だと思って狂ったことも、薬に浮かされて変な儀式に傾倒し、何の関係もない子どもを手にかけようとしたことも、全部知っている。


 ――お前の兄がそれらの破滅の道を丁寧に敷いてやったことも、よく知っている。


「申し訳ございません」

 自身の動揺を詫びるように告げて、カナンは表情を隠そうと頭を下げた。ウォルテールの視線が痛いほどに突き刺さるのを感じた。


 助け船を出したのはエウラリカだった。「何あれ!」と陽気な声で走り出した王女に気を取られて、ウォルテールの目が外れる。エウラリカを追おうとしたカナンを、しかしウォルテールは呼び止めた。


「はい」と振り返る。必死に微笑んだ。ウォルテールの顔を見て、そこにルージェン・ウォルテールの面影を認めて、……カナンは初めて、自身がイリージオに思いのほか憐憫の情を抱いていたことを知った。瓶の中身を入れ替えられ、兄殺しの汚名を着せられ、足掻いた挙げ句に正気を失い、――水底へと身を投げた男に。


 ウォルテールは苦しげに顔を歪めた。そのことにカナンは理由の分からない怒りを覚えた。どうしてお前がそんな顔をするんだ。何も知らないくせに……!


 エウラリカの走り去った方を横目で追いつつ、カナンは慇懃に礼をした。

「――また何かございましたら、何なりと」

 そう言い残して、カナンはエウラリカの背を追った。



 ***


 木の陰に佇んでいたエウラリカは、黙って絵本に目を落としていた。カナンが寄ってきたことに気づいたらしい、顔を上げないままに「この絵本は」と呟く。

「氷でできた女の子と、火を噴く竜が、強い絆で結ばれる話で、……けれど、近づきすぎれば氷は溶けてしまう。そう思った二人は別れを決意して、竜は遠くへと旅に出るの。そうして二人は二度と会うことはなかった」

 エウラリカの横顔はどこまでも静かだった。木漏れ日が彼女の顔や手足に落ち、伏せた両目に睫毛の影が落ちていた。

「森のフクロウだけが知っていた。少女が本当は氷などではないことを」

 カナンは黙ってエウラリカの声を聞いていた。


「近づいたくらいじゃ溶けやしない、硬い水晶でその体が出来ていたことを」


 エウラリカは絵本の最後のページをめくって目を伏せた。

「必要のない危惧のために、結果として無意味な決意をすることも……無知であることも、全てを知っていながらあえて口を閉ざすことも……罪ではないわ」

 と、そこまで真面目な表情で語っていたエウラリカは、不意に表情をあっけらかんと広げる。



「まあ、どれもろくでもないことは確かだけれど」

 身も蓋もない締め方をして、エウラリカはぱたんと音を立てて絵本を閉じた。

「行くわよ」

 声をかけてさっさと一人で歩き出したエウラリカに歩調を合わせながら、カナンは苦笑した。



「はい、エウラリカ様」










深層編:婚約騒動はこれにて終了です。お読みいただきありがとうございました。

これから書き溜め期間に入りますので、更新再開までしばらくお待ちください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 想像してた以上にイリージオくんは暗躍していて、驚きました。兄さんのことを気にかけていたのだろうとは思ってましたが、まさか生き返らせようとまでしていたとは! カタコンベ潜入、ハラハラしました…
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