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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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婚約騒動-決着3



 言葉にならない悲鳴を上げて、一人の男――イリージオがその場から脱兎のごとく逃げ出す。

「追いなさい!」

 エウラリカの鋭い声を受け、カナンは抜き身の剣を下げたまま駆け出した。事態が変わったのを肌で感じたらしい。一呼吸のうちに、その場は狂乱に包まれた。祭壇の周りで円を描いて座していた人々は、蜘蛛の子を散らしたように四方へと逃げてゆく。まるで夢から覚めたかのようだった。

 誰がぶつかったのか、蝋燭の立てられていた背の高い燭台が倒れ、床に敷かれていた敷物に火がつく。藁を編んで作られていた敷物を舐めるように火が広がり、炎の勢いは瞬く間に大きくなった。


 逃げ惑う人々を突き飛ばして逃げてゆくイリージオを追う。しかし思うように進むことが出来ず、その背は離れてゆくばかりである。くそ、とカナンが歯噛みしたときだった。


「この野郎!」

「うわ、」

 突如として視界の端から振り下ろされた鉄槌に、カナンは慌てて跳んで避ける。剣を構えて向き直ると、そこにいるのは昨日追っ手の中に見たような顔である。床にめり込んだ鉄槌は石の破片を落としながら持ち上げられる。

 男はカナンを苦々しい顔で見据えた。

「一体何が目的なんだ、お前、」

「この帝都に余計なものを入れたくないって、うちの主人が仰せなんだよ」


 言って、カナンは一呼吸の内に距離を詰め、すれ違いざまに剣を一閃した。腕を切り裂かれた男は苦悶の声を上げる。

 軽く床を蹴って間合いを取ったカナンに、男は腕を押さえながら舌打ちをした。

「主人ってのは、あの坊ちゃんのことか?」

「さあ?」

 カナンはせせら笑って首を傾けた。隣の音すらはっきりと聞こえぬ喧噪の中で、鈴の音ばかりが鮮明に鳴った。


 瞬間、気配を感じて、カナンは背後も見ぬままにかがみ込んだ。重い音を立てて頭の上を何かが薙ぐ。見れば、幅広の長剣を両手で水平に振り切った男がいた。剣に引かれて重心が浮き上がるのが見て取れる。足下を掬い上げるように蹴りを入れてやれば、男は易々と足を滑らせて転んだ。頭を打ちでもしたのか、そのまま仰向けに倒れて昏倒する。



 そうした幾つかの足止めをいなすうちに、いつしかカナンはイリージオの姿を見失っていた。小さく舌打ちをする。


 川魚が岩を避けてゆくように、逃げ惑う人々は立ち止まるカナンの両脇をすり抜けてゆく。ふいと目を逸らして顔を巡らせ、イリージオの姿を探すが見当たらない。――代わりに、祭壇を背に追い詰められるエウラリカの姿を見咎めた。



 祭壇の周りでは、一際激しく火の手が上がっている。祭壇の上には動かない少女が力なく横たわり、その傍らでエウラリカが後退していた。その両手は空で、油断なく身を屈めてはいるものの、どう見たって戦える状況ではない。対するは先程まで儀式を執り行っていた大柄な男で、その手に握られているのはいつの間にか長剣に変わっている。

 二人の顔は、傍らで燃えさかる炎に照らされ、汗を浮かべて怪しく光っていた。そこだけがひときわ現実離れした、異常な様相を呈している。


「エウ、」

 こぼれ落ちかけた言葉は上手く流れずに途中でつっかえた。……カナンは、今までにただの一度として、その名を唇に乗せたことなどなかったのだ。しかし咄嗟に声が詰まったのは僥倖だった。こんなところでエウラリカの名前を大声で呼んでいたら大変なことになっていただろう。


 カナンが走り出し、声もなく腕を伸ばした、その先でエウラリカはついに祭壇に背をつけた。息を飲む。空いた手で胸ぐらを掴まれ、その小柄な身体が吊り下げられた。剣が振り上げられる。

 全ての音が遠ざかったようだった。血の気が引いた。危ない、そう叫ぼうとして、煙に満ちた空気を大きく吸った、瞬間だった。


 苦しげに顔を歪めたエウラリカの片手が、首元に伸びた。その指先が何かを弾くような仕草をして、直後、外套がはらりと開く。留め金を外したのだ、と気づいたときには、エウラリカは既に背後の祭壇に手をついて勢いを付け、身を低く屈めるようにして、外套からするりと抜け出していた。


 そういえばエウラリカは外套の下に剣を下げていたのだ、と思い出したのは、その閃きが銀色の弧を描いて男の首を切り裂いたときだった。


 沈めた腰を跳ね上げざまに放たれた居合は鋭かった。振り抜いた剣端が、炎の影に浮かび上がるように優美な曲線を描く。一瞬の沈黙ののち、大男はどうとうつ伏せに倒れた。それを冷徹な目で見下ろし、彼女は首を傾ける。伸ばされた片側の首筋が、襟巻きの隙間から白々と映えて見えた。

 すらりと細長い片手剣を提げた手首が軽くしなり、剣先から血を飛ばす。僅かに尖らせた唇から、ふぅ、と声のない息が短く漏れたようだった。体型を覆い隠す厚手の外套を脱げば、その下には目を見張るほどに華奢で小柄な体が存在していた。しかしそれがただ脆弱な少女でないことをカナンは既に知っている。




 いつしかそこからは人の気がほとんど失せていた。静まった空間に、炎が爆ぜる音ばかりが響く。煙は天井に吸われてでもいるように縦に伸びていた。空気穴がどこかにあるのだろう。

 エウラリカは沈黙したまま、足下に倒れ伏した男を見下ろしていた。その両足の下に、広がる血溜まりの一端が触れようとしていた。巻き上がる炎を背景に佇立する輪郭がまるで人外のそれに思えて、カナンはしばし茫然自失としてエウラリカの横顔を眺めていた。頬はやや青ざめているように見えた。ややあって、その顔がこちらを向く。

「イリージオを追うわよ」

「……ごめんなさい、さっき見失ってしまって」

 カナンが正直に頭を垂れると、エウラリカは抜き身の剣を傾け、とある方向を指し示した。

「お前って本当に愚図ね」

「…………。」

 心底馬鹿にした声と表情に反骨心が沸き起こるが、こんなところで言い争いをしても仕方ない。カナンはぐっと堪えると、落ちた外套を羽織って颯爽と歩き出すエウラリカの後を追った。




 暗がりの中へ伸びる下り階段に、カナンは壁に手をついたまま息を飲んだ。

「まだ下があるんですか」

「そうみたいね」

 エウラリカは一度だけ目を眇めると、躊躇いもなく階段に足を踏み入れる。こつり、と音が反響しながら下へと吸われてゆく。息を詰めれば、湿った冷たい空気が流れてくるようだ。

「行くわよ。一気にけりを付けるわ」

 彼女は低い声で吐き捨て、怖じ気づくカナンを置いてさっさと階段を降りてしまう。カナンはやむを得ず、その背中を慌てて追い始めた。



 ***


 それはどうやら子どもの泣き声のようだった。暗い地下室に幾度となくはね返り、怪しげにうねる音は耳の奥を侵す。

 果たして、追う背中は突き当たりの大部屋にあった。先程の部屋とは異なり、ただ立っているだけでも圧迫感を覚えるような、天井の低い空間だった。


 円形の中央で、イリージオは細長く巨大な箱の脇にかがみ込んでいた。箱の長さはひと一人分ほどもあり、それだけで正体はおおよそ知れた。妙な匂いがする、と気づいたのは、箱の中身に予想がついた直後のことであった。


「この野郎! ソアを離せ!」

「お兄ちゃんっ!」

 泣きじゃくる子どもの声がすると思えば、何のことはない、小さな少女がイリージオの片腕に捕まえられて死に物狂いで暴れているのである。円弧状の壁には一部が鉄格子になった扉が等間隔に並び、そのうちの一つに少年がしがみついている。少年の背後には不安げな顔をした数人の子どもの姿も見えた。

「やだよぅ! 離してっ!」

 体をよじってイリージオの手を振り払おうとする。少女を捕まえるのとは反対の手には、鈍い輝きを放つ短剣が逆手に握られていた。カナンは息を飲み、剣の柄に手を添えて身構える。それを片手の甲で制したのはエウラリカだった。



「――死んだ兄を生き返らせるために罪もない命を奪おうって? お前、みっともない上に無様で不合理ね。それに愚かだわ」

 エウラリカが楽しげな声で歩み出た。イリージオは弾かれたように振り返る。それで、その体に隠れていた棺の中身が見えた。


「うっ」

 エウラリカの背後で控えていたカナンは、思わず片手で口を覆って嘔吐いた。生前のオルディウスをまじまじと見た経験がある訳でもない。しかし、その変わり果てた姿はどうしようもなく醜悪で、衝撃的だった。

 先程買い食いした串揚げの気配が喉元にせり上がる。それが更に吐き気へ拍車をかけて、カナンは思わず一歩退いた。エウラリカは『だから言ったのに』と言わんばかりの目でカナンを一瞥する。



 イリージオは床に膝をついたまま、ギラついた目でエウラリカを睨みつけた。

「エウラリカ様……」

「ええ、どうも」

 呼ばれた彼女は腕組みを片方解いて手を挙げる。平然とした態度で、エウラリカは一歩を踏み出した。


「そこにいる子どもたちはお前が連れてきたの? さっきの部屋にいた信徒の人数からして、連れ去られた子どもが全部でそれだけのはずがないのだけれど」

 高慢な口調を崩さないまま、エウラリカはイリージオに迫る。イリージオは普段と態度の違うエウラリカに動揺している様子だった。その両目は落ち着きなくエウラリカやカナン、兄の――腐敗した――遺体を行き来する。

 鉄格子の向こうでは、事態が変わったのを感じたらしい子どもたちが固唾を飲んで耳をそばだてている。声を潜めた二人の会話はよく聞こえていないらしく、怪訝そうな顔をしていた。


「……俺は、兄さんを生き返らせなきゃいけないんだ」

 うわごとのように呟いた、それをエウラリカは黙って聞いていた。ややあって、エウラリカがゆっくりと口を開く。

「お前が、オルディウスに毒を飲ませたのね?」

「違う! そんなつもりなんて……!」

「そしてそれをルージェン・ウォルテールに咎められた。違う?」

 鋭く反駁したイリージオに言い返すと、今度こそ彼は完全に沈黙した。それこそが答えだった。エウラリカは笑みを深める。


「黙っている代わりに何を要求されたの? ……私と結婚しろって?」

 その頬には嘲笑が浮かんでいた。押し黙るイリージオに、エウラリカは鼻を鳴らす。その目が棺の中を見下ろした。


「オルディウスが可哀想だわ。こんな姿になってまで、埋葬もされずに放置されて……」

「兄さんは生き返ります。貴女だって見たでしょう、奇跡は起こるんだ」

 イリージオは棺に手をかけ、真剣な表情で語った。エウラリカは心底哀れむような目を男に向けた。「死後一月以上も経って蘇る訳がないじゃない」とは、聞かせるつもりのない独り言だったらしい。が、しかしイリージオはそれを聞き咎め、憤然として立ち上がった。


「信じる気がないのなら帰って下さい!」

「私としてはそれでも良いのだけれど」

 エウラリカは肩を竦めた。「珍しい儀式も見られたし、黒幕も分かったし、これだけ派手な騒ぎになればもう薬を売るのも難しいだろうし、まさかここから結婚が成立するとも思えないし」と言って飄々とした態度である。言ってから、その目がちらと背後のカナンを見やるのはどういう意味か。



 カナンはエウラリカとしばらく視線を合わせてから、一度大きなため息をついた。前へ進み出て、言葉を選ぶように思案する。

「……その子を離したらどうですか」

 エウラリカの隣に並んで、カナンはイリージオと相対した。エウラリカは無言で横へどく。カナンは剣に手を添えながら、穏やかな声で告げた。

「子どもを生け贄にしたって、お兄さんは戻ってきませんよ。あなただって分かっているんでしょう」

「うるさい!」

 が、イリージオは少女の首に腕を回して強く引き寄せ、身構えてしまう。これでは逆効果だ、とカナンは難しい顔をした。


 イリージオの様子は明らかに平静を欠いており、用事が済んだからさようならと引き返す訳にもいかない。ここでこの場を立ち去ったら、残された子どもに何をするか分からない勢いだった。

 カナンが窮して言葉に詰まれば、エウラリカは不意に楽しげな声で「じゃあ、こうするのはどうかしら」と口火を切った。


 踊るような足取りで、エウラリカは冷たい石床を踏んだ。その手が腰に伸びた。すらりと僅かな音を立てて剣が抜かれた。息を飲んだのはイリージオかカナンか。

 それはまるで、時間の流れが突如として遅くなったかのようだった。それはやけに緩慢な動きに見えた。


「話を簡単にしましょう」


 歌うように呟き、逆手に剣を握ったエウラリカの腕が振り上げられる。その目の前には蓋の開いた棺が、その中には死後一月以上が過ぎて、見る影もなく腐り落ちたオルディウスの遺体がある。エウラリカが何をせんとしているのかを一瞬前に悟り、カナンは鋭く息を飲む。



 ――その体に、その胸に、もはや二度と上下することのないその胸に、エウラリカの握るその剣が、その鋭い切っ先を下にして、そこに一欠片の逡巡もないその勢いのままに、音もなく、言葉もなく、容赦なく、


 強く、突き立てられた。剣は死体の胸を貫いた。


「あ……」と、イリージオの口から漏れたのはただその一文字きりだった。絶句したのはカナンも一緒だった。揃って放心する二人に、剣を離したエウラリカは「簡単な話でしょ?」と微笑む。


「これで、オルディウスが生き返るかどうかの話はおしまい。お前の兄はもう生き返らない。分かったかしら?」



 極端に流れの滞っていた時間が、ついにぴたりと止まったかのようだった。カナンは全身を緊張させ、息一つ吐くことも出来ずに凍り付く。イリージオは動かなかった。大きく目を見開いたまま、胸に剣を突き立てられた兄の姿を見つめていた。


 大きく見開かれた弟の目が、痛ましく伏せるしかできぬ己の目が、無感動な眼差しを投げる少女の目が、もうずっと前に息絶えていたはずの男に注がれる。カナンは唇を噛みしめ、拳を強く握った。


 一人の人間が、この瞬間、決定的に失われたことを、誰も言葉にして確認などしはしなかった。




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