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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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婚約騒動-決着2


「何だ、これ……」

 ぐるりと歪な弧を描く壁には、床から天井付近まで、いくつもの穴が口を開けていた。カナンたちが立っているのはその内の一つで、床までの距離は人ひとり分以上ありそうだ。

 決して明るいとは言えない空間に、しかし人はひしめき合っていた。人々は中心を向いて、何重もの円を形作って座している。かといって何をしているのかと訊かれればよく分からず、円の中心は一段高くなっているのみで何もない。秩序なく人が詰め込まれているだけのように見えた。が、そこに漂う異様な熱気やざわめきに当てられそうで、カナンは思わず一歩下がる。


 エウラリカは壁に背をもたせかけて腕を組んでいた。

「何なんですか、これは」

 再度呟いたカナンに、エウラリカは「見ての通りよ」と肩を竦める。そう言われて、カナンは壁に手をついておずおずと首を伸ばした。が、「あまり身を乗り出すんじゃないわよ、見つかるでしょう」と釘を刺されたのですぐに身を引っ込める。



 カナンが声もなく眼下を眺めていると、ふとその場の空気ががらりと変わったようだった。喧噪が下火になり、人々の意識が一斉に一つの方向へと向かう。つられてカナンも顔を上げ、視線の先を追った。

(……扉がある、)

 それまで気づかなかったが、目を凝らすと奥に大きな扉があるようだ。カナンはその場に片膝をつき、身を潜めるようにしながら前のめりになった。


 奥の扉から歩いて出てきたのは大柄な男に見えた。その顔は深く被ったフードの影の下だ。身に纏っているのはまるで法衣で、足下まで体を覆う黒い布は、中の人間を得体の知れない何かに見せていた。

 そして、その腕に抱かれているのは、まだ十にも満たないであろう小さな子どもである。粗末な服を着せられ、その体はお世辞にもふくよかとは言えない。貧しい家庭で育った子であることは火を見るより明らかだった。

 ……しかし、気になるのはそんなことではない。


「寝ているのか……?」

 カナンは眉をひそめながら呟いた。男の腕の中で、子どもはぐったりと四肢を投げ出し、微動だにしていない。男が歩を進め、円の中心に近づくにつれ、周囲の熱量は高まってゆく。しかし、子どもは、ぴくりともしないのだ。


「……死んでる、」

「ひえ」

 唐突に耳元で物騒な言葉を囁かれ、カナンは咄嗟に首を竦めた。恐る恐る振り返ると、すぐ後ろで前屈みになったエウラリカが険しい表情をしている。まさか本当に、と彼が顔を引きつらせた直後、エウラリカの口元はにやりと弧を描いた。

「――ということになっているんじゃないかしら」

 けろりとした調子で言葉が続くので、カナンは思わず脱力して額を膝に乗せた。


「ほんとやめてくださいよ、そういうの」

「あはは」

 エウラリカは膝に手をついて笑った。「ほら、見ていなさい」と促されて、カナンは男とその腕に抱かれた子どもをじっと見やる。



 視線を集める中央の段の上に、男は動かない子どもの体を横たえた。そうして見ると、まるでそれは祭壇か何かのように思えた。人々は固唾を飲み、部屋の中央、動かぬ子どもの身体を見つめる。

 やはり、寝ているにしても様子がおかしかった。その顔は青白く、胸が上下している様子もない。


 輪の中から、痩せた女がゆらりと立ち上がった。女のために道が開かれた。女は覚束ない足取りで歩み出ると、子どもを見下ろす男の前で跪いた。何かを言っているらしいが、言葉の内容が聞こえるほどの声量ではない。

 それはまるで、謝っているか拝んでいるかのような姿だった。床に両手をつき、男の足下で身を低く伏せる背中が、やけに小さく見える。その仕草の中に、壇の上の子どもを指し示す素振りが混ざった。それで、カナンはこの女と子どもが関係あることを察する。まさか姉弟ということはないだろう。


「母親……でしょうか?」

 カナンが呟くと、エウラリカはしばらく黙り、「さあ?」と興味なさげに首を捻った。


 足下でひれ伏す母をよそに、男は子どもへと向き直る。立ち位置が変わったせいで、その手元や子どもの様子は見えなくなってしまった。歯噛みするカナンの横で、エウラリカは真剣な表情で目を眇めている。

「あの子どもは、死んでいることになっているんですか」

「恐らくは」

 エウラリカは言葉少なに応じると、すぐに口を閉じてしまった。黙れ、ということだろうか。カナンは立てた片膝を抱えながら目を凝らす。



 男が輪になった人々をぐるりと見回し、何かを声高に告げた。すると彼らは一斉に身を起こし、中央に向かって無言でひれ伏し始める。控えめに言っても異常としか言いようのない光景だった。老若男女が怪しい地下空間に集まり、動かぬ子どもと傍らに立つ男に向かって、幾度となく頭を下げ、額を床に擦りつけていた。

 顔を歪めて退くカナンとは対照的に、エウラリカは床に手をついて、穴から身を乗り出さんばかりに首を伸ばしている。


 小さな背に手を差し入れて上体を起こさせると、男は子どもに覆い被さるように身を屈めた。長い袖が持ち上がり、ちらと白い指先が覗く。男の手は子どもの口元に寄せられ、何かを口に含ませたようだった。



 どれほどの時が経ったのかは分からなかった。ひょっとしたらほんの数秒のことだったのかもしれないし、相当に沈黙は長引いたのかも知れなかった。

 不意に、男の片腕に支えられた子どもの身体が、動いた。その腕がぴくりと持ち上がり、薄らと瞼が開かれたように見えた。――瞬間、空間が一呼吸の間に突沸したようだった。

(何だ!?)

 カナンは息を飲んで瞠目した。エウラリカの横顔を見れば、その口元が「やはり」と動いたのが見て取れる。


「説明してくださいよ」

 響く歓声の中で声を潜めて迫ると、エウラリカは「あら」と眉を上げた。彼女は立ち上がり、壁に寄りかかりながら腕を組む。

「見ていて分からなかった?」

「……動かない子どもを、あの男が何か飲ませることで起こしました」

「そうよ」

 エウラリカは頷き、そして腕組みをゆるりと解いた。立てた人差し指が湿った空気に掲げられる。


「トルトセアという薬草から作られるものには、『傾国の乙女』と呼ばれる依存性の高い薬物の他に、特殊な毒が存在するの」

「何でそんなことを知っているんですか」

「趣味よ」

 エウラリカはばっさりと答えると、人差し指を軽く振ってみせた。にや、とその頬が愉快そうにつり上がる。

「その毒というものがどんなものなのか、お前、知りたくない?」

「訊かなくても言うんでしょう?」

 面倒そうに頭を掻きながら応じると、エウラリカは心底不満げな顔でむっと唇を引き結んだ。そして、ため息と共に吐き捨てる。



「――仮死薬」



(……仮死?)

 カナンが目を瞬くと、エウラリカは少し溜飲を下げたようだった。楽しげにその目が光る。

「脈拍を極端に遅くし、体温を下げる薬よ。もちろん猛毒だから、放っておけば死に至るけれど……。服毒後、一定期間内に適切な対処を行えば、再び息を吹き返すらしいの」


 それでは今しがた目の前で起こったことは、とカナンは祭壇の上で身を起こした子どもを振り返った。まだ夢うつつのように、ぼんやりと虚空を見上げている子どもに、母親は縋るように抱きついている。声を上げて泣きじゃくる母が子を呼ぶのばかりが一際大きく聞こえた。


「つまり、あの子どもはそれを飲まされていたと言いたいんですか」

「死んだ子どもを生き返らせてやると持ちかけ、目の前で蘇生させてやる。……人心掌握にどれだけ効果的だか、考えなくたって分かるでしょう?」

 エウラリカは手を下ろし、外套のポケットの中に両手を突っ込んだ。気楽な立ち姿で、彼女は熱狂する地下空間を一瞥する。


「それでは、イリージオに対する『兄を生き返らせたくないのか』というのは……」

「イリージオもこの現象を奇跡か何かだと信じているんじゃないの? 誰かしら手引きした人間がいるのよ」

 エウラリカが鼻を鳴らす。潜めた声で会話を交わしているうちに、いつしか眼下では事態が移り変わりつつある。運ばれて来たのはまだ若い女だった。少女と言っても良い。くたりとした肢体が祭壇に乗せられる。それを横目で見ながら、エウラリカはため息交じりに目を閉じた。


「――これは、今はもう廃れた土着宗教の、儀式の手段をそのままなぞっている」


 エウラリカは低い声で呟いた。声が聞き取りづらくなり、カナンはエウラリカの口元に耳を傾けた。

「日取りも、明かりの配置も、使用する毒も同じ。ここまでの段取りも同じだわ」

「それなら、次は何が起こるんですか」

 何の気なしに訊いたカナンは、エウラリカの視線をすいと追い、そこで、鋭く息を飲んだ。



 鎖に繋がれた小さな子どもが、必死にその矮躯をよじりながら無理矢理に引き出されていた。少年だろうか。仕立ての良い服を着ているが、その膝はすり切れ、疲弊した姿をしている。

「おい! 僕にこんなことをして良いと思っているのか!」

 しかしその口調は鋭かった。薄汚れた姿をしていてもなお、高い自尊心を隠さない口調がやけに特徴的だった。「何だかお前みたいね」というエウラリカの言葉に、カナンはむすりと口を噤む。

 人々が見つめる中、動かない少女と暴れる少年が中央で相対した。何か関わりのある二人かと思ったが、少年の様子を見る限りそういう訳でもないらしい。


 じっと動向を見守るカナンの隣で、エウラリカは静かに呟いた。

「あれが、――供物よ」

「くもつ?」

 耳慣れない帝国語の単語に、カナンは眉をひそめる。エウラリカは少しだけ目線を浮かせると、「生け贄、捧げ物、……代償」と言い換えた。それでカナンも合点がいく。深く頷きながら反復した。

「なるほど、いけにえ……生け贄!?」

と、そこで口に出したのが物騒な単語であることに気がついて、カナンは泡を食ってエウラリカを振り返った。彼女は鬱陶しい虫でも払うように手を振った。


「じゃあ、あの子は……」

 カナンが愕然と呟いたところで、鎖に戒められた少年が甲高い悲鳴を上げた。



 蝋燭の光ばかりがゆらゆらと辺りを照らす、薄暗い地下空間で、その光沢ばかりが異質だった。ぎらりと反射して光る、それは驚くほど刃渡りの長い包丁に見えた。

「まずい!」

 咄嗟に飛び出そうとしたカナンの、外套の裾が強く掴まれた。その場にたたらを踏んで振り返る。見れば、エウラリカが厳しい眼差しで「何をしようとしているの」と眉をつり上げている。彼女は興が冷めたかのようにカナンに苛立ちの目を向け、当然のことのように吐き捨てた。


「――せっかく、こんなに面白いものが見られるっていうのに、」

 その言葉に、カナンは全身がカッと熱を持つような、激しい怒りを覚えた。



 ***


 助けて、と叫ぶ子どもの声が聞こえていた。輪の最前列に陣取ったイリージオは、眼前で繰り広げられる光景を、不思議な夢でも見るような気持ちで眺めていた。

(……早く、兄さんを生き返らせなければ)

 ルージェンが紹介してくれた人は、非常に物知りで、かつ親切だった。イリージオの兄は生き返ると教えてくれた。現にイリージオは、死んだ人間が再び息を吹き返すのを今までに何度も目撃している。


 別の命と引き換えに、この世へ戻したい命を取り戻す。それは実に理解しやすい話だった。

(兄さんは、怒るかもしれないけれど……)

 それでも構わなかった。自らの過ちで殺めてしまった兄が戻ってくるのなら、何を擲っても良いと思っていた。


 ……自分が、今までに良くしてくれた人に対して顔向けできないようなことに手を染めている自覚はあった。兄の死後、親身になって慰め、背を撫でてくれた人々の顔は鮮明に思い浮かんでいた。とてもじゃないが、その人たちに恥じない行いをしているとは言えなかった。

 それでも、である。何の実にもならない優しい言葉よりも、ほんの僅かにでも可能性を示してくれた人の言葉に縋りたくなるのは、人の性か罪悪感によるものか。


(俺が自ら殺してしまった兄さんを生き返らせるのは、当然のことだ。それが責任って奴だ)

 目の前では少年が鋭い刃を前に大きく目を見開き、怯えの表情を浮かべている。それを暗澹たる思いで見つめ、そしてイリージオは目を伏せた。


 心配なのは、あの王女の奴隷のことだった。『今夜会いましょう』と微笑みながら告げた青年の、あの黒い目が頭から離れない。

(まさか、こんなところに来るはずがない)

 あれはただのはったりだ。そう自身に言い聞かせても、胸騒ぎは収まりそうになかった。



 どこからか聞こえる打楽器の振動が熱量を増した。高々と刃が振り上げられる。少年が身を縮めた。

「嫌だ、お父さん、お母さん、いやだ、待って、やめて、」

 背後のどこかで小さなざわめきが聞こえた。

「助けて、お兄ちゃん、」

 少年の唇から漏れた言葉に、イリージオは深く項垂れ、唇を歪めて奥歯を噛みしめた。


「助けてっ……!」

 鋭い刃が振り下ろされる。少年の絶叫が響く。悲鳴のようなどよめきが上がる。

 ――刹那、刃物が弾かれる涼やかな音が、目と鼻の先で立ち現れた。


 イリージオは弾かれたように頭を上げた。目の当たりにした光景に息を飲む。

 そこでは、黒髪を後頭で一つに括った青年が、少年を片腕で抱き留め、反対の手でかざした剣で刃を受け止めていた。涙で頬を濡らした少年が、「え……」と放心状態で声を零す。

 イリージオは慄然として背筋を凍らせた。そこにある横顔は、どう考えても見覚えのある曲線を描いている。


 突如として現れ、剣を弾いて少年を奪った青年に対し、その場は恐慌のような動揺に襲われた。それを片手で押しとどめ、司祭は青年に向き直る。

「誰だ、貴様は!」

 一度は振り上げた剣を下ろして、司祭は鋭く誰何の声を上げた。それに対して応えたのは、声の矛先にいる青年ではなかった。


 ……背後から、心当たりもないのにどういう訳か聞き覚えのある、楽しげな少年の声が近づく。


「そうだね――――月の女神と、その下僕……とか?」


 振り返った先では、愉悦に滲んだ笑みを浮かべる清廉な少年が、真っ直ぐにイリージオを見据えていた。人々は自然と『少年』のために道を開け、それはまるで波が割れるかのようだった。

 こつり、と足音が軽快に響く。

「どうもこんばんは、イリージオ。数刻ぶりね」



 帽子のつばを人差し指で持ち上げながら軽やかな歩調で進み出る、それは幼稚で愚鈍なる王女――エウラリカの姿に他ならなかった。




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