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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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婚約騒動-決着1



 エウラリカが向かったのは、城内でも一際人気の少ない区域だった。こちらに近づく用事などほとんどない。……と、言うより、カナンはこの方面へ向かうことを意図的に避けていた。何故ならここは彼にとって一種『因縁』の地だからである。


 徐々に質素になってゆく通路。幅は狭まり、光は射し込みにくい場所。城の奥へと潜ってゆくような感覚。

 カナンは背筋を悪寒が駆け上がるのを感じながら、ぼんやりと回顧する。

(……この道は、)

 かつて、エウラリカに連れられて、歩いたことがあった。あのときは首輪に鎖がついていた。知らず知らずのうちに片手が持ち上がり、首輪に触れていた。


 鈴が鳴った音で、エウラリカはカナンが何を考えているのか悟ったらしい。喉の奥でくつくつと笑いながら、「あのときのお前はまだ可愛かったわね」と頬を吊り上げる。カナンは渋面でよそを向いた。


 ……この道の先には、カナンが帝都に来たばかりの頃に連れて行かれた、地下牢がある。冷えて湿った牢の床に跪き、捕虜として拘束されていたジェスタ兵の前でエウラリカの下僕となることを誓わされた。あの日が遠い昔のようでありながら、つい最近のような気もしていた。

(もう……三年以上前か)

 カナンは遠い目をしながら、小さくため息をついた。



 こちらは人気のない区域であり、現在使われているような施設などほとんどないような奥である。と、いうことは、また地下牢に連れて行かれるのだろうか。目的が何にせよ、あの場所には良い思い出がなかった。

 唇を噛むカナンをよそに、エウラリカはすたすたとした足取りで彼を先導する。――そして、その背中は一切の迷いもなく、地下牢へと続く扉の前を素通りした。


「え?」と声を漏らしたカナンに、エウラリカは足を緩めることなく「良いからついてきなさい」とだけ返した。

(地下牢に用はない? でもこの先になんて……何もない中庭くらいしか、)

 訝しみ首を捻り、カナンは眉根を寄せたままエウラリカの後を追った。



 中庭へ降りたところで、エウラリカはぴたりと立ち止まった。背後で足を止めたカナンは、塔に挟まれ光の射さない小さな庭を見回す。目につくものはといえば、寒々しい枯れ木が申し訳程度にぽつんと佇立しているくらいのものである。あとは、もう使われなくなって久しい涸れ井戸。


「こんなところで何をしようって言うんですか」

 腕を組んで白い息を吐いたカナンに、エウラリカは頬を吊り上げて笑んだ。狭い庭へと歩き出しながら、エウラリカは楽しげに告げる。

「――ちょっとした冒険よ」



 エウラリカの手が、井戸のへりに乗せられた。慣れた様子で身を乗り出すので、カナンは目を剥いて絶句する。エウラリカが垂れた縄を掴んで手繰る。

「こ……この井戸は、もう、涸れているのでは」

 嫌な予感に目元を引きつらせながら、カナンは慎重に声をかけた。しかしエウラリカは意にも介さず「知っているわよ」と肩を竦める。


 前のめりになって井戸を覗き込んだ。やはりそこに水はなく、底が見えていた。気が遠くなるほど深いという訳ではない。さも釣瓶が下がっているかのような縄は、しかし底の近くでゆったりと揺れている。

(…………嫌な予感がする)

 片手で眉間を揉みながら、カナンは重いため息をついた。一度深呼吸をしてから、観念して口を開く。


「……何をするおつもりで?」

 渋々訊けば、エウラリカはくすりと息を漏らし、「察しが悪いのね」と肩を竦めた。そして彼女はカナンが止める間もなく、石積みの縁を越え、井筒の中へとその身を躍らせてしまった。

「ああー!」

 カナンが非難の声を上げたときには既に、エウラリカは縄を伝って井戸の中を器用に降りている頃だった。


 間隔を開けて連続する結び目を頼りに、カナンは壁面に足をつきつつ涸れ井戸の底へと降り立った。先に降りていたエウラリカは、待ちくたびれたように腕を組んで片足に体重を乗せている。

 カナンは縄から手を離し、両手を擦り合わせながらため息をついた。「…………手袋はこのためですか」と恨みがましく低い声で呟けば、エウラリカは無言でにっこりと微笑んだ。



 エウラリカが壁に向かって身を屈めるのを、カナンは無言で眺める。しばらく眺めていると、壁の一部が音を立てて外れる。その向こうにぽっかりと空いた空間が見えた。

「これって、まさか……」

 それは横へと伸びていく穴のようで、まるで、通路のような……。


 エウラリカの考えにようやく思い至ったカナンは、背を丸めて穴の奥を覗き込んだ。冷たい空気がゆったりと流れてくる。やはり、この横穴は遠くまで続いているようだ。

 エウラリカは手早く蝋燭に火を点けると、「そのまさかよ」と得意げに笑った。



 ***


 エウラリカの持つ角灯の光で、洞窟のような地下通路は揺らめきながら照らし出されていた。こつり、こつり、と規則正しく響くのはエウラリカの足音で、カナンはその後ろを躊躇いがちについてゆく。


(これは……)

 昨日通った地下通路のことを、カナンは売人かその一味が秘密裏に掘り進めた代物だろうと思っていたのである。しかし、今、城の井戸から入って歩いている通路は、昨日見たものと形が酷似している。一連の作業によって作られたものだと容易に想像がついた。

 ……城の地下になど、秘密裏で穴を掘れるはずがない。


「……一体、どういうことなんですか? この通路は……城にも繋がっている?」

 カナンはごくりと唾を飲み、それからエウラリカに問うた。彼女はそのまま数歩を無言のまま進める。そこで、カナンはエウラリカが耳当てをしていることに気づく。聞こえなかったかと諦めたところで、不意にエウラリカが「そうね」と呟いた。


「――お前は、この国が『新ドルト帝国』と呼ばれる所以を考えたことがある?」

 エウラリカは振り返りもせずに、ごくごく静かな声で告げた。おもむろに始まった話はおよそ的外れなものに思えて、カナンはきょとんと瞬きをする。

「ええ……新しいからじゃないんですか?」

 とりあえず答えると、エウラリカは微妙な顔でカナンを振り返った。「分かってるんだかどうだか分からない返事をするんじゃないわよ」と謎のお叱りを受けて、カナンは不満に唇を尖らせる。


 エウラリカはため息交じりに肩を竦めた。「まあ、そう……。この国は新しいのよ」と彼女は頷く。その横顔がふと引き締まる。


「新ドルト帝国があるのだから、その前には旧ドルト帝国が存在していた可能性がある」


 エウラリカの言葉に、カナンは目を丸くした。言われてみればその通りだが、今までそのことを考えたことがなかった。

「今のところ、これは有力な仮説、程度にしか考えられていない話だけれど……。この地下通路が公になれば、話は変わるでしょうね」

 彼女は淡々と語る。非常に重大な話のはずなのに、それはまるで世間話のように気安い調子だった。


「この通路は何なんですか」

「旧帝国時代の遺物」

 エウラリカはあっさりと答えた。数秒その答えを反芻してから、カナンは唖然として声を失う。

「通路の存在を知っている人間はいても、その正体を知っている者は非常に限られるわ」と彼女は肩を竦めた。


 無言の時間が少しの間続いた。ややあって、エウラリカは僅かに項垂れたようだった。

「……オルディウスに教えてやりたかったわ」

 確か、以前のエウラリカの言によれば、オルディウスは現帝国が出来る以前の時代に関する研究者だったらしい。なるほど、とカナンは合点がいって、小さく頷いた。あれは、旧帝国の研究という意味だったのだろうか。


 ……それにしたって、専門に調べている学者すら知らないような通路を、どうしてエウラリカが知っているんだ?

 訊いてみようかと顔を上げたカナンは、しかし、小さな背中を前に、一旦口を閉じた。どうしてか分からないが、その後ろ姿がやけに頑なそうに見えたのだ。



 エウラリカは慣れた足取りで地下通路を先導した。沈黙が長かったので、カナンはもうこの話は終わったものと思っていた。エウラリカも語りたくないような雰囲気を醸し出していた。

 しかし、彼女は再度口を開いた。


「どうしてこの通路のことを誰も知らないと思う? どうして、私が、知っていると思う?」

 カナンの目を見ないまま、エウラリカは低い声で囁く。耳を澄まさねば聞こえないような、小さな――後ろめたそうな声だった。カナンはただ無言で、エウラリカの言葉を聞いていた。エウラリカも下手な相槌は求めていないようだった。


「かつて、この地下通路を利用して、国を簒奪した人間がいたのよ」

 エウラリカの足下で、装身具が、しゃんと音を立てた。

「人々の足下を通って奇襲を仕掛けたことを恥じたそいつは、子孫に向かって、全てを隠蔽するように命じた」


 腕輪が鳴る。カナンの喉元では鈴がせせら笑った。

 エウラリカは無言のまま角灯を高く掲げた。真っ暗な行く手が、ぼんやりとほの明かりの中に浮かび上がる。角灯の底に遮られ、エウラリカの目元は影に落ちた。


「――歴史を抹消し、祖の恥を塗り隠すことを最上の使命とする一族って、誰のことだと思う?」

 そっと弧を描く口元ばかりが、カナンの目にいやに焼き付いていた。



 ***


 梯子が下ろされている。その前に立って、エウラリカは角灯をカナンに手渡した。上を仰ぐと、真っ暗な縦穴が伸びているのが見える。カナンは小さく口笛を吹いた。

「上には何があるんですか?」

「お前も後から登らせてあげるから、少しは我慢しなさいよ」

 勢い込んで尋ねたカナンに呆れ顔をしながら、エウラリカはさっさと梯子を登ってゆく。ついそれを見上げようと首を反らせてから、我に返ってカナンは目を逸らした。……流石に、梯子の下から見るのは、……最低限の礼儀にすら反する。


 エウラリカの動きが止まった。ややあって、重い物音とともに細い光が射し込んだ。

(……上が開いた?)

 流れ込む空気は、地下通路の湿って澱んだそれとは大きく異なっていた。堪えきれずに顔を上げる。前髪が浮いて、額を冷気が撫ぜた。


 ――振り仰いだ先に、星が見えた。丸く切り取られた夜空を背景にするようにして、エウラリカがこちらを見下ろし得意げに頬を緩めていた。



 梯子を上り終えると、宵口の静かな風が頬を撫でた。見渡せば、そこは人気のない裏路地で、腕を広げれば両手が壁につきそうなほどに幅の狭い道だった。帝都の一部であることは疑いようもなかった。

 エウラリカは足下にかがみ込んで、下から押し上げてずらした蓋を戻している。

「それは何ですか?」

「地面に埋め込まれた碑……と一般的には思われているはず」

 丸い板は音を立てて石畳にはめ込まれた。エウラリカの肩越しに手元を覗き込むと、それはどうやら石を掘って作られた代物らしい。刻まれた文字は番地だろうか?


「こうした碑の一部は、縦穴の蓋になっているのよ」

 言いつつ、エウラリカは腰を上げて立ち上がった。手袋を嵌めた手をぱんぱんと払いながら、彼女は短く息をつく。


 エウラリカの随分と慣れた様子が気にかかった。さほど考えることもなく、推測は出来たのだが、

「――いつもこの通路を使って、城を出入りしていたんですね?」

 腕を組んで低い声を出せば、エウラリカは一欠片も気にしていないような態度で「ええ」と頷いた。カナンは額を押さえてため息をついた。突拍子もない……馬鹿じゃないのか?


 呆れ果てるカナンをよそに、エウラリカは「行くわよ」と声をかけてさっさと歩き出してしまった。



 エウラリカと帝都を並んで歩くのは、これで二度目のことだった。少年の変装をしたエウラリカを見るのは三度目だ。

 人混みはまだ幾分かまばらで、歩くのに困るほどではない。だから二人は横に並んで、時折馬車の行き交う広い通りを悠々と歩いていた。

 エウラリカはご機嫌な様子で、手持ち無沙汰な両手で襟巻きをもこもこと弄りながら周囲を見回した。夕飯時であることもあって、通りの両側に立ち並ぶ飲食店や屋台からは空腹をくすぐる匂いばかりが漂っていた。


 エウラリカが物欲しそうに串揚げを眺めているのを見て取って、カナンは「買い食いして行きますか?」と声をかける。が、彼女は「いえ」と頭を振った。

「私の予想が正しければ、今お腹に何かを入れるのは得策じゃないわ」

「……へえ?」

 真剣な表情で呟く横顔を眺めながら、カナンは自身の空腹を自覚していた。時間も時間だ。この先の予定も分からないし、何か食べられる内に食べておきたいのが本音だった。

「僕は食べますけど」

「勝手にすれば?」

 申し出たが、エウラリカは続かなかった。



 串揚げを頬張るカナンの隣で、エウラリカは目を細めて呟く。

「外は広くて良いわね」

「帝都は狭いですよ」

 カナンは何の気なしに応えた。帝都は確かに人口も多く、発展した大きな都市である。しかし、決して広くはない。馬に乗って広大な森を駆けていた頃の記憶が蘇る。遠い涼風に思いを馳せたカナンは、そこでようやく、エウラリカが無言で自分を見上げていることに気づいた。

「……お前が羨ましいわ」

 それは、馬鹿にしているような、薄ら笑いを浮かべているような、嘲笑しているような、何とも言えない表情だった。短く呟いた彼女の目は、深い色をしている。



 地上に出たのも束の間、エウラリカはカナンを先導すると、人気の少ない路地の碑をこじ開けて再び地下へと潜りはじめた。

 地下はどうにも暗いし空気が嫌だし不安な気持ちになってよくない。カナンは鼻に皺を寄せた。

「またですか……?」

「文句がおありなら、お前一人で行けば?」

「そしたらあなたも一人になるでしょう」

 言い返すと、エウラリカは物言いたげな顔でカナンを一瞥し、それから鼻を鳴らして顔を逸らした。


 エウラリカの後ろについて地下通路を歩いていたカナンは、ふと、目線の先に揺れる光を見つけて立ち竦んだ。……誰かいる!

「火、明かり、け、消し……!」

泡を食って前方のエウラリカに声をかける。彼女は目を眇め、じっと前方を睨みつけた。それから、「あれは燭台よ」と腰に手を当てた。


「お前、自分で言っていたじゃない。燭台が並んだ通路を通ったって」

「えっ」

 エウラリカは呆れ混じりに鼻を鳴らす。慌てて身を乗り出して見てみれば、確かに、火の位置はずっと変わらず、人が持っている明かりとは考えづらかった。

「なんだ……」と拍子抜けして息をつく。


「僕の曖昧な話だけで、目的の通路にたどり着くものなんですか? 別の入り口から来たのに……」

 安心して、反動でカナンは幾分か明るい声でエウラリカに話しかけた。一方のエウラリカは微塵も浮ついた態度を見せることなく頭を振る。

「通路にたどり着いたというより……。お前が言っていた、イリージオが降りていった先に心当たりがあるのよ」

「へえ」

 カナンは軽く頷き、息を整えるように肩を上下させた。


「この地下通路を端から端まで知っているみたいですね」と呟く。エウラリカは一瞬の沈黙ののちに、「いいえ」と硬い声で応じた。

「――ここの全貌が記された地図は、この世に一つしかないし、私はそれを見たことがないわ」

 舌打ちでもしそうな表情だった。不快感に歪んだ目元を見ながら、カナンは慌てて話題を変えようと頭を捻る。どうやらこれはまだ触れてはならないことのようなので。



 カナンが無言であたふたとしている内に、エウラリカは明かりのついた通路を横切り、再び暗闇の中へと入り込んでゆく。

「お前が言っていた建物の位置を記憶と照らし合わせてみたの。そしたら、下には大きな空間があることが分かった」

 言いつつ、エウラリカは手振りだけで耳を澄ませるよう合図した。従ってカナンが息を殺すと、どこか遠くから音楽のようなものが聞こえる気がする。「やっぱり」とエウラリカは呟き、歩調を速めた。


「お前が回収してきた、あの瓶……イリージオが捨てたっていう瓶だけれど、本来の内容物とは異なって、トルトセアの匂いがしていた。それだけで、彼が傾国の乙女を売買している薄汚い鼠共と何らかの関与をしていると分かる」

 湿り気を帯びた通路を、エウラリカは足早に進んでゆく。カナンは大股でそれを追いながら、「ええ」と相槌を打った。


「それで、これは私の仮説だったのだけれど……。もしもその瓶に入れられていたものが、トルトセアを使用した毒だったら、と考えていた。でもそれはただの予想だし、そうだったら面白い程度の思いつきで、」

 彼女が歩を進める度に、その背で毛先が浮き沈みを繰り返す。淀みのない足取りだった。先行く歩調が速くなる。心なしか弾みがついているような気さえした。


「でも、お前が聞いてきた言葉で、分かったの」

 否、エウラリカははっきりと笑みを浮かべていた。音楽は今やはっきりと聞こえていた。それは異国の音楽だった。耳慣れぬ打楽器の音がした。意味の通じぬ言葉で歌っていた。言い表せぬ高揚を孕んでいた。曲がり角の向こうからは光が射していた。



 エウラリカが頬を紅潮させて囁く。

「見てなさい、――今夜、帝都の足下で、人が生き返るわ」

 直後、目の前に広がったのは、宮殿の大広間もかくやとばかりに大きな空間であった。




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