一脈5
外套でもこもこになったエウラリカが、霜の降りた庭園をのんびりと歩いていた。足下では霜柱がさくさくと音を立て、それを楽しむように彼女は頬を緩めている。
その隣では青い顔をしたイリージオが頼りない歩調で並んでいた。カナンは物陰に身を潜めたまま、様子を窺う。寒さを堪えるように身を縮めたネティヤも、真剣な表情で二人を眺めている。
「なあ」とネティヤは自身の体を抱き締めるように胸の前で腕を組みながら囁いてきた。カナンは視線だけをちらと寄越して、「どうかしましたか」と応じる。
「……何だか、様子がおかしくないか? 随分とやつれているというか……」
「え、どっちがですか?」
と、しらばっくれつつも、ネティヤがイリージオのことを指しているのは分かりきっていた。
げっそり、と形容するのがぴったりな有様だった。カナンはネティヤに倣うようにきつく腕を組み、イリージオを横目で睨めつける。
背が高く爽やかな印象を与える好青年だったはずだった。それが、今はどうだ。何かに怯えたように背を丸め、ひっきりなしに周囲の様子を窺っては落ち着きなく身を揺すっている。
何だか見ているこちらの胸が痛くなってくるようだった。
「それでね、おとうさまがわたしに……ねえ、聞いてるの?」
「え? ああ……」
エウラリカがこれ見よがしに拗ねた表情で腰に手を当てた。イリージオははっと我に返ったように瞬きをし、曖昧な愛想笑いを浮かべる。
「何か考え事でもしていたの?」
頬を膨らませたエウラリカに、イリージオは笑みを崩さないまま「いえ」と応じた。
「……エウラリカ様があんまり美しいものですから。つい見とれてしまって」
淀みのない賛辞に、しかしエウラリカは眉の毛一本たりとも動かさなかった。「あなたってつまらない人ね」と唇を尖らせ、聞こえよがしにため息をつく。
「あなたのお兄さんは『月の女神のようだ』くらい言ってくれたわよ」
恥ずかしげもなくそんなことを平然と言ってのけるエウラリカに対して、カナンは思わず呆れ顔になる。月の女神って、よくもまあそんな小っ恥ずかしい比喩を自称できるよな……。
しかし、イリージオの反応はそれとは異なっていた。弱々しく息を飲んで、それからしおしおと項垂れる。
「どうしたの?」
「……兄さんなら、選びそうな言葉だと思って」
イリージオは目を細めて笑った。
イリージオとエウラリカの逢瀬は、一見何事もなく進んでいるように思われた。恐らくこれらが後に『交際』か何かとして仕立て上げられ、聞こえの良い物語とともに婚約が発表されるのだろう。……しかし、それを阻むのがエウラリカとカナンの目的である。
不意に、エウラリカが小さく咳払いをした。
(――呼ばれた、)
カナンはぴくりと耳をそばだて、横目で様子を窺う。見れば、エウラリカは頬に手を当て、嬉しそうに何かを受け取っていた。
「まあ、これなぁに? わたしにくれるの?」
そう言う手元には、可愛らしい色をした小さな包みが乗せられている。エウラリカの言葉から察するにそれはイリージオから渡されたもので、――エウラリカの視線が、ふと物陰のカナンに差し向けられる。
……どうやらまたろくでもない代物らしい。
***
何かから逃げるように歩調を速めるイリージオは、渡り廊下の途中ではたと足を止めた。待ち構えるように柱にもたれかかっていたカナンは、腕組みを解きながら「こんにちは」と朗らかに声をかける。
びくりと肩を跳ね上げさせたイリージオは、無言で踵を返し、反対方向へと逃げ始めた。その背中の情けないことと言ったらなく、カナンは嘲笑にも似た嘆息と共に「待ってくださいよ」と告げる。
恐る恐る振り返ったイリージオの表情は、絶望に歪んでいた。
イリージオを人目のつかない大広間の二階へと連れ込み、カナンは手すりに寄りかかりながらにこやかに語り出す。
「さっき渡したのは何ですか?」
「……別に。ただの……贈り物だよ」
「へえ」
カナンはまるで信じていない口調で相槌を打つと、手すりに預けていた背を起こしつつ、人差し指を立てた。十中八九、あの夜会もどきの場で売人に渡されたものだろう。エウラリカを薬漬けにしろ、と命じる男の声が蘇る。イリージオもイリージオだ。まさかそう言われて、何の芸もなくエウラリカの品物を手渡すとは。
(よほど追い詰められているな)
カナンは手すりに乗せた指先を滑らせながら、イリージオに向かって一歩踏み出した。
「前の婚約者の方……ケティネさん、でしたっけ?」
カナンがその名を出した瞬間、イリージオの顔色が変わる。それまでおどおどと身をすぼめていた男は、不意にカナンを正面から睨みつけ、その肩に掴みかかった。その豹変を腹の底で小気味よく思いながら、カナンは「やめてくださいよ」と白々しく弱り顔をする。
「ケティネに……彼女に何かしたのか!」
「はあ。何もしていませんよ」
小馬鹿にしたように肩を竦めると、イリージオは僅かに安堵した様子を見せた。しかし、その目は警戒を解くことなくカナンを睥睨している。こんな目が出来る男だったのか、とカナンは意外に眉を持ち上げた。
「……彼女に近づくな。絶対にだ。頼む……ケティネは何も関係ない。悪いのは俺だけなんだ」
まるで哀願するような言葉だった。カナンはそれを聞き届け、慈愛に満ちた表情で数度頷く。
「もちろん、分かっていますよ。彼女は何も関与していない」
そうまで言って、初めてイリージオは肩の力を抜いた。緩んだ手を肩から振り払いながら、カナンはにこりと微笑んだ。
「ケティネさんとお話しして分かりましたよ。とても実直で誠実な方ですね、――いつまでだってあなたを待つと仰っていましたよ。あなたのことを信じておられたし、恋人のことを何も分かっていなかったと自責の念も感じていたようです」
いたぶるように言葉を選べば、イリージオの表情が苦悶に歪む。カナンは笑みを深め、素早く立ち位置を反転させた。イリージオを手すりの際へ追い詰め、逃がさぬように手すりへ片手を乗せる。
「それで、彼女に聞いたところによると、……ルージェン様と仲がよろしいとか?」
その名前を出した瞬間の反応は激烈だった。両目は大きく見開かれ、口元は声もなく引きつった。肩がすぼまり、一気に体が縮んだようだった。見る間に額へ浮かぶ脂汗や震える指先、戦慄く唇の全てが、怯えと動揺を示している。
(やはりルージェンが関与していたか)
カナンは内心で独りごち、それからぐっとイリージオとの距離を詰め、圧迫するように目線を合わせた。
「――良いですか、あともう一度しか言いませんからね」
自分でも驚くほどに、機嫌の良い声が出た。穏やかに、密やかに、カナンはイリージオを追い詰める。手すりに乗せた指先が、追い詰めるように桟を叩いて拍を刻んだ。
「昨晩ご挨拶を申し上げたのでお分かりとは思いますが、これが最後ですよ」
鈴が笑う。胸の内から指先の末端まで、全身が名の分からぬ高揚に支配されていた。カナンは目元をこの上なく和らげ、優しげな表情で、身を竦めるイリージオの双眸の底を覗き込む。
(お前になど、汚させてやるものか)
相応しくない。ちっとも釣り合わない。こんな薄汚れて怯えきった小悪党を、エウラリカに触れさせてなどなるものか。あれはもっと高潔な生き物だ。あれはもっと孤高の存在だ。
背筋から項を伝って熱情が迸るようだった。気づけばカナンは凶暴に眼差しを鋭くして、低く吐き捨てていた。
「――あの人から手を引け。今すぐにだ」
イリージオは気圧されたように瞠目したまま答えず、カナンはいつしか弾んでいた呼吸を整えながら微笑む。
(エウラリカが言っていたことが本当なら、今夜――)
彼は深く息を吸って、相手の一挙手一投足に神経を尖らせながら、慎重に口を開いた。
「返答は後で聞きましょうか。そうだな……今夜にでも」
――帝都の下で。
囁いて付言すると、イリージオは強く唇を噛みしめた。色を失った下唇を眺めながら、カナンは「待ってますよ」と念を押す。
慇懃に腰を折って礼をすると、カナンはその場を足早に立ち去った。
***
「……って啖呵切っちゃったんですけど。本当に今夜、何かあるんですよね?」
「昨日そう言ったじゃない」
当然だ、と言わんばかりの顔でエウラリカは頷く。随分と自信満々な様子だが、カナンは全く何も把握していないのである。今夜、と言い切ってしまった手前、やっぱり後日でという訳にはいかない。
「それで……俺はどこで何をしてくれば良いんですか?」
腕を組んで諦め混じりに問う。どうせまた、やれあそこに行ってあれそれをしてこいだとか、やれ誰々に何々をしてこいだとか、そんな厄介な指示を飛ばされるに決まっている。それでいて、エウラリカ自身は呑気に宮殿で待っているだけなのである。
(結構なご身分だよなぁ)
肩を竦めるカナンに、エウラリカはあっさりと応じた。
「どこ、というのは上手く口で説明できないわね」
「はあ。そうですか」
(ほら、また無茶な命令だよ。……まあ、もう慣れたけど……)
内心でぼやくカナンをよそに、エウラリカは「ええ」と頷く。その手が机の上の毛皮に伸ばされた。
もこもことした襟巻きを首に巻いて、エウラリカは事も無げに告げた。
「だから今回は、私も行くわ」
「へえ、なるほ…………何ですって?」
間抜け面で聞き返したカナンに、エウラリカは心底馬鹿にしたような目をした。
「今日は手袋をつけるのがおすすめよ。寒いしね」
「そういう問題じゃなくてですね」
毛皮の襟巻き、分厚い外套、長靴に手袋に耳当て。ほとんど露出のない完全防備で、エウラリカは自信ありげに胸を張った。身に纏っているのは少年の服で、長い髪はまとめて大きな帽子の中に詰め込んでいるらしい。やけに顔の良い少年だった。
完璧だ、と言わんばかりの誇らしげな表情だが、カナンはそれを一顧だにせず首を横に振る。
「そんな顔しても駄目ですよ。何があるか分からなくて危ないんだから、宮殿で大人しく待っていてください」
「お前はいつから私の保護者になったの?」
不満げなエウラリカの声を無視して、カナンは剣帯をつける。慣れた重みが左腰に加わった。外套を羽織り、カナンはエウラリカを振り返る。彼女は腰に手を当てて鼻を鳴らした。
「私だって、丸腰で行くつもりじゃないわよ」と彼女が掲げたのは、取り回しの利く小ぶりな片手剣である。
「なおさら駄目でしょうが!」
カナンは目を怒らせてエウラリカの手から剣を取り上げた。「何するつもりですか」と剣を届かない高さまで持ち上げれば、エウラリカは苛立ちを隠すことなく腕を組む。肘に置かれた指先が不快を示して跳ねた。
「返しなさい」
「こんなもの持たせたら自分から危険に突っ込むでしょう」
「お前、私のことを何だと思ってるの?」
エウラリカが鼻に皺を寄せた。剣呑に顰められた表情に冗談の色はない。これ以上怒らせるのは流石にまずい、とカナンは渋々剣を返却した。エウラリカは受け取った剣を外套の下にしまうと、聞こえよがしに舌打ちをする。行儀が悪い。
かつん、と頑なな靴音が響いた。
「――だいいち、私が危険を冒して勝手に死んだら、それまでのことじゃない」
エウラリカは低い声で呟く。さっさとカナンを追い越し、扉へと歩いて行くエウラリカを、カナンは無言のまま目で追った。エウラリカは取っ手に手をかけ、ため息交じりに振り返る。
「お前だって、私がここで死んでくれた方が有り難いんじゃないの?」
流された視線に、カナンは一瞬だけ呆気に取られ、それから拳を握りしめて怒気を露わにした。――本当に、この女は、手に負えない。
「……僕は、無様な死に様を晒すような人間に仕える気はありませんよ」
束の間の沈黙ののち、唸るように告げた。エウラリカは肩越しにカナンを見据えたまま、虚を突かれたように目を丸くする。エウラリカが我に返るより早く、カナンは大股で踏み出した。一歩でエウラリカの背後に立ち、上から腕を回すと、半開きの扉に手をかける。重い扉を引けば、隙間から冷たい風がひょうと音を立てて入り込んだ。エウラリカはしばらくの間、黙ってカナンの顔を見上げていた。その眼差しに、怪訝そうなものが混じる。それから彼女は顔を背けた。
吹き込んだ冷気に前髪を浮き上がらせながら、エウラリカは再び前を向き、静かな面持ちで「ええ」と頷く。
「私だって、こんなところで死ぬつもりなんてない」
その頬に浮かんだのは不敵な笑みだった。それを見て、カナンはもう、自分がエウラリカを止めることができないことを悟った。




