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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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一脈4


 男たちはじわりと包囲の輪を狭めた。カナンは後ろ手に手を伸ばし、扉の取っ手を掴むふりをする。

「まあそう慌てるなって」と男はわざとらしく呆れたような口調で告げた。扉を押さえるように片腕を伸ばし、半身になる。――その瞬間をカナンは見逃さなかった。



 身を低くして駆け出したカナンの背後で、「追え!」と怒声が響く。室内に点々と散って動向を見守っていた人員が一斉に動いた。テーブルや椅子が倒れる音が相次ぐ。その場は瞬きの内に混乱へと叩き落とされた。驚いたように振り返る人々の間をすり抜ける。誰かと強く肩がぶつかり、悲鳴が聞こえるが構っている場合ではない。視界の隅から腕が伸びるように迫り、カナンは頭を沈めて後ろに向かって蹴りを放った。円卓に叩きつけられた男がもんどりうって床に転がり、花瓶が耳に痛い破壊音とともに粉々になる。


 一つの窓に狙いを定め、カナンは大きく一歩を踏み出した。剣帯を押さえて鞘ごと剣を抜き、逆手に握ると半透明なガラスに向かって渾身の力で剣を叩きつける。耳に痛い音と共に、蜘蛛の巣模様が瞬きとともに広がった。

 もう一撃で窓を叩き割ろうとしたカナンは、突然肩を強く引かれて鋭く息を飲んだ。抗わず左肩から上体を捻り、振り返りざま身を沈める。ちり、とうなじの皮膚に緊張感が走る。直後、カナンの頭のすぐ上を、低い音と共に何かが空を切った。


 背後で鋭い破砕音が響く。流れ込んだ冷気が背を覆うように広がった。浮き上がった自らの髪が視界に入る。眼前では一撃を空振った男がたたらを踏んでいる。カナンは相手を見据えたまま、さも自らの身を庇うかのように右腕を引いた。

 一呼吸の溜めののち、彼は男の鳩尾に向かって、鞘に収めたままの剣を振り抜いた。体の中心を打ち据えられた男は、低い呻き声を上げてゆっくりと仰け反る。


 男が倒れるのを最後まで見届けることなく、カナンは肩越しに振り返る。割れた窓ガラスに一瞬だけ臆し、それから腕で顔を庇うようにして外へと飛び出した。

 窓は思いのほか高さがあった。膝を折って外に着地したカナンは、足の裏が痺れるような感覚に少しの間顔を顰める。背後では、男が床を揺らす音がどうと響いた。



 息が整うのを待つことなく夜の帝都へと駆け出した。背後からは足音と罵声が聞こえる。結っていた髪がほつれ、頬に幾房もかかって煩わしい。

 カナンは白い息をたなびかせながら、寒さにヒリつく顔を巡らせて周囲を見渡した。

(ここは……)

 通りに並ぶ建物を眺め、ここが帝都のどの辺りに位置するのかを照合する。思っていたよりもずっと帝都の端のようだ。地下を歩いているうちに距離感を失っていたらしい。


 追っ手から身を隠すように狭い路地へと入り込む。水路を流れるせせらぎばかりが併走していた。



 ***


 月明かりの射し込む部屋の中で、エウラリカは長椅子の肘掛けを枕に寝入っていた。冴え冴えとした光が、音もなく降り注ぐ。肘掛けの縁から滑り落ちたと思しき片腕は、暖炉のほの明かりでちらちらと瞬くように揺らめいた。

 閉じられた瞼が月光に照り映える。滑らかな頬に睫毛の影が落ちていた。深い影の中で、瞬くような金色が一筋ふたすじ浮かび上がっている。

 耳を澄まさねば聞こえぬような微かな寝息を立てて、少女はいとけない顔をして眠っていた。


「…………。」

 カナンは思わずその場に立ち尽くした。腰から外した剣を握ったまま、だらりと腕を垂れる。一気に毒気が抜かれたみたいだった。潜入に続く逃亡で張り詰め昂ぶった神経が、すっと冷えてゆく。


 エウラリカの横たわる長椅子とセンターテーブルの間に本が落ちていた。拾い上げようと身を屈めれば、揃えられた二本の足が白々と露わになったまま下ろされているのを間近で目にする。カナンは思わず息を止めた。床に落ちた本の側には行儀悪くも靴が転がっており、エウラリカが途中で億劫そうに脱ぎ捨てる様子が容易に想像できた。


 本を慎重に拾い上げて天板の上へと戻す。傍らに放置されたポットの表面にそっと掌を宛がえば、そこに熱の気配は残っていない。

(……随分待たせたみたいだな)

 カナンはどういう訳か、いやに恐る恐るエウラリカの寝顔を窺った。この女が、目の前でこうも無防備な姿を晒しているのを見るのは、初めてのことだ。何か奇妙なものを見るような感覚だった。



 音を立てないように、エウラリカを起こさないように、カナンは焦れるほど緩慢な動きで向かいの長椅子に腰掛けた。しかし、カナンが詰めていた息をゆっくりと吐き切る頃、エウラリカは不意に身じろぎし、顔を胸元に伏せる。

「う……」と漏らした不本意げな呻きは、それでいて眠りから完全に抜け出てはいない。


 少しの間、意味をなさない喃語のようなものを口の端で並べ立てて、それからエウラリカはふにゃりと芯が溶けたみたいな声を出した。

「帰ったの……?」

「はい、ただ今」

 カナンが穏やかな声音で応じると、エウラリカは眩しげに目を細めて顔を上げる。


 座面に手のひらを沈めながら、エウラリカが緩慢な動きで身を起こす。長い髪が、彼女の肩や胸元、背中を滑り落ちた。顔にはらりと落ちた束を片手でぞんざいにかき上げ、エウラリカは猫のように背を反らして欠伸をする。


「……どうしたの」

 エウラリカは眠たげに目を瞬かせながら、カナンを指さした。何のことかとカナンが困惑して首を傾げれば、彼女は「手」と不機嫌そうに付言する。

 手を目の高さまで持ち上げたカナンは「ああ、」と小さく呟いた。些細なひっかき傷だと思って気にも留めていなかった手の甲に、赤黒い血が一文字に滲んでいた。ガラスで切っただろうか。


 カナンはへらりと笑って肩を竦める。

「大した傷じゃないですよ」

「別に、お前のことが心配で訊いた訳じゃないわよ」

 エウラリカは呆れたように緩く嘆息した。「荒事でもあったのかって訊いてるの」とぶっきらぼうな口調で首を傾ける。

 そうしたやりとりのうちに、エウラリカも徐々に覚醒してきたらしい。眼差しがはっきりとしてきた機を見計らって、カナンは「そうですね」と切り出した。



「結論から言えば、」

 単刀直入な皮切りに、エウラリカの表情がきりと引き締められる。腕を組み、不遜な態度でつんと顎を上げたエウラリカが、続きを促すように片眉を上げた。ご要望にお応えして、カナンは緩く絡めた十指を膝頭に乗せ、口火を切る。


「――この薬物騒ぎには、イリージオも関わっていました」

「あら、びっくり」


 目を丸くして意外そうな反応を示したエウラリカは、しかし数秒後にはその表情を楽しげに歪ませた。その笑顔はまさにご満悦と言うほかなく、カナンは呆れを隠すことなく半目になる。

「へえ。……随分と面白くなってきたじゃない」

「ええ、はい。そうですね」

 もはや諦めの境地で、カナンは適当に頷いた。




「――それで、そのまま撤退したという訳で」

 経緯を説明し終えたカナンの前で、エウラリカは何やら深い物思いに沈んでいた。口元を片手で覆い隠し、その視線は落ち着きなく四方へと飛び飛びに動く。

 僅かに顰められた眉に、カナンは思わず口を噤んだ。口を挟むことなくエウラリカを見守っていると、やがて彼女は重いため息と共に口を開く。


「…………なるほど」

 エウラリカは数度頷き、そして、ゆっくりと破顔した。その頬は紅潮し、目はいつになく輝いている。カナンは思わず唾を飲んだ。



「――ああ、本当に、面白くなってきたわ!」

 そしてエウラリカは嬉々として語り出した。




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