一脈3
グエンに教えられたのは、帝都の片隅にある酒場であった。静かな夜の帝都の中で、その一角ばかりが騒々しく賑わっている。
店の前に立ったカナンは、一旦そこで大きく深呼吸した。
扉を開けると、そこには薄暗い店内が広がっていた。酒臭さと煙たさが鼻腔に直撃し、カナンは思わず眉をひそめる。新しく入ってきた客に気を留めるでもなく、店内にいる人間は思い思いに会話を楽しんでいる様子だった。
カナンは店内を早足で横切り、カウンターの中でグラスを拭いている店主の前に立った。店主は目線を上げることすらせずに「子どもは帰りな」と素っ気ない口調でカナンを追い払う。
「――『葡萄抜き葡萄酒』、ありますか」
その言葉に、店主がぴたりと作業の手を止めた。周囲の喧噪に紛れ、カナンの言葉を聞き咎めた者は他にいない。店主の視線が持ち上がり、品定めするように頭の上から足下までを検分した。
鋭い視線が向けられているのを自覚して、カナンは体を強ばらせる。店主は目を細め、それからぶっきらぼうな口調で短く告げた。
「……便所の奥の物置だ。鍵はバケツの底にある」
その言葉を受けて、カナンは小さく頷くとすぐさま踵を返した。店内を見渡し、カナンは目的の廊下を見つけると、視線を鋭くする。
言われたとおりに鍵を見つけ、物置とされている扉を開いたカナンは、そこで慄然と立ち尽くした。そこにあったのは、予想していたような怪しい部屋ではなく、ぽっかりと足下に開いた暗い穴であった。
「何だ、これ……」
穴の直径は人の身長よりやや大きい程度。恐る恐る縦穴の縁ににじり寄って下を覗き込めば、下に明かりが見える。気が遠くなるほどの高さという訳ではないらしい。しかし、落ちればただでは済まない高さであることは確かだ。息を飲んだ直後、ひょう、と下から冷たい風が吹き上げた。前髪を揺らしながら、カナンは声もなく立ち尽くす。
「地下に、何かあるのか……?」
呟いて、カナンは穴の壁面を確認する。壁に打ち込まれた足場をはしご代わりにして下りろということか。少し躊躇い、そしてカナンは胸を上下させて深呼吸した。
――この穴の下に何があるのかは分からない。グエンを本当に信じて良いのかも分からない。
数年前から常に携帯している剣を見下ろした。これを抜くような事態にならなければ良いが、とため息をつく。そして、カナンは片足を足場へと下ろした。
足場に手をかける。ざらつく砂の感触を手のひらで感じながら、カナンはぼんやりと自身の境遇を回顧していた。
(……いつの間に、俺はこんなことに進んで足を踏み入れるような人間になってしまったんだろう)
誰のせいなのかは考えずとも分かる。けれど……ここに来たのは、果たして、本当にエウラリカの意向だけだろうか?
(俺は、自分の意思で、ここに来たんじゃないのか)
しかし、それを認めることは、この上ない恐怖であった。
冷たい空気の満ちた縦穴の中で、カナンの息ばかりが白く立ち上っていた。耳の先が冷えて痛む。下ろした爪先が、とん、と硬いものに触れた。
穴の底では僅かな明かりが灯されていた。質の悪い蝋燭を使っているのか、煙の変な匂いが鼻につく。芯が燃える微かな音がした。
どこか遠くで、人の声がしている。その気配に耳を澄ませながら、カナンは薄暗い穴の底でゆっくりと目を閉じた。
(……俺はもう、エウラリカと何も変わらないのかもしれない)
人を利用し、陥れ、思うがままの筋書きを通す為ならば己の矜持さえも捨てる。そうしたエウラリカの振る舞いを唾棄していたはずだったのに、あまりにも近くにいすぎたせいだろうか。
カナンは胸の底で吐き捨てた。――俺だって、同じじゃないか。
降りてきた高さからして、ここが地下であることはもはや疑いようがなかった。しかし、帝都の地下にこれほどまでの空間があったとは驚きだった。カナンは点々と燭台が並べられた方向へと歩を進めながら、驚嘆して周囲を見回す。
(一体、何なんだ、これは……)
それは、足下だけが平らにならされた、円筒状の通路だった。立って歩くことが容易な程には高さがあり、手を伸ばせば天井に届くか届かないかというところだろうか。
足下は舗装されており、ところどころ欠けがあるものの、明らかに手の込んだ石畳である。溝が掘られているのは排水のためだろうか。暗くてよく分からないが、燭台で導かれる道以外にも横道が存在するようだった。
横道を覗き込んでみるが、広がるのは茫洋たる闇である。音や息までもが吸われそうな暗闇に、足を踏み入れたら戻ってこられないような感覚を覚えた。カナンは短く身震いすると、横穴から身を引っ込め、薄明かりの続く道を再び歩み出した。
道半ば、まだ目線の先には燭台の道が見えてはいたが、カナンはあるところでふと立ち止まった。傍らには螺旋階段がある。上へと続くそれを仰げば、この洞窟内とは打って変わって明るい光が射し込んできている。人の声がするのも明らかにここからで、カナンは階段の手すりに指先を乗せて首を伸ばした。
(ここが目的の場所だろうか)
だとしたら、続いているように思えた道は、続きなのではなく、……別のところからここへ来るための通路なのかもしれない。
カナンは一段目に足をかけながら、小さく息をつく。確証は持てないものの、カナンは慎重な足取りで上へと進んでいった。
次第に光と音が増してゆく。地下道の幽暗と静寂に慣れた耳目が、少しずつ痺れるようだった。
怖れが四肢を支配していた。力の入らない指先が、手垢のついた手すりをなぞる。しかし怯えを知らせる末端とは対照的に、カナンの胸の内は明らかに高揚していた。
思えば一年以上前から、カナンとエウラリカは、帝都に薬物を持ち込んだ人間の尻尾を掴むことが出来ずにいた。しかし今、カナンは着実にそこへと近づいている。彼にはその確信があった。
***
果たして、カナンを待ち構えていたのは、老若男女の入り交じる広間の一室だった。一見して既視感を覚える。何を思い出しているのかと思考を巡らせ、カナンは答えを見つけて小さく頷いた。
(アジェンゼの屋敷で見た、夜会に似ているのか)
配置された机や椅子の位置は、各個人が立って自由に飲食を取ることの出来る形式の夜会に酷似していた。しかし、そこに漂う退廃の空気は隠しようもない。窓は全て閉め切られ、どこか空気も澱んだ印象を受ける。
そこかしこで談笑している人影を一瞥する。しかし、それらよりむしろ、置かれた座席に腰掛けて深く項垂れ動かない女や、空の花瓶に朗らかな調子で話しかける男などが目についた。顔を顰めかけて、目を逸らすことでそれを堪える。
入り口で立ち尽くすカナンに、ふと女の声がかかる。むっとするような香水の匂いが鼻をついた。
「こんばんは。ここは初めて?」
肩に這わされた手を横目で眺めながら、カナンは「ええ」と短く応じる。腕を辿ろうとした手に触れ、その指先を引き剥がしながら、彼は努めて平然と微笑んで振り返った。
自らの肢体をあからさまに見せつけた装いの女であった。この寒い冬によくもまあ、と思ったが、改めて気を配ってみれば室内は十分に暖かい。気づいてしまうと、何だか外套を着ているのが暑いように思えてくる。
首筋にじとりとした嫌な汗をかくのを感じながら、カナンは宙に浮いた女の手を下から掬い上げた。身を屈め、手の甲に唇を掠めて艶然と微笑む。
「ここでの作法がいまいち分からなくて。――手取り足取り教えては頂けませんか?」
あら、と相好を崩してしなだれかかる女を、カナンは薄笑いと冷淡な目で見下ろしていた。
(足下にも及ばない)
どんなに顔を塗り着飾って肌を出しても、控えめな紅と素朴な巻衣一枚、それと幾つかの装身具のみで彩られた『あれ』とは比べるべくもなかった。どれだけその肢体を押しつけられようとも、決して指一本触れさせないあれの方が、遙かに――。
女に誘導されながら、カナンは自らの思考を振り返ってため息をついた。……馬鹿馬鹿しい。
本来、ここがどのような経緯で人から教えられるものなのか、カナンは把握していない。カナンは余計な発言をしないよう口を慎みながら、女に腕を引かれて部屋の奥へと入ってゆく。
地下通路から見上げたときには随分と明るいように見えたが、目が慣れてしまえばやはり、仄暗いところのある一室である。
カナンは油断のない目つきで周囲の様子を窺いながら歩を進めた。立ちこめるのは香を焚いたように匂う煙だ。それが穏便な香木を焚いたものなどではないことなど、言われなくとも分かる。
(あれは、……貴族か?)
盃を手に談笑する男たちの身なりを横目で見ながら、カナンは眉をぴくりと跳ね上げた。この場所に特徴的なのが老若男女だけではなく、その社会的地位までもが様々な人種が一同に介していることだった。
間違って迷い込むような場所ではない。誰かしらに教えられてここに来るのだろうが、……その誰かはどうやら随分と節操なく声をかけているようだ。
「あなたは誰? 名前は何ていうの?」
「さあ?」
腕を組んでくる女に、煙に巻くような答えを返す。「意地悪ね」との言葉に、カナンはくすりと笑う。
「誰だと思う?」
敬語を取り払って顔を寄せれば、女は自らの頬に指先を当てて考えるような素振りをした。
女は目元を緩めて、茶目っ気のある表情で人差し指を立てる。
「――異国の王子様、とか?」
「………………。」
まさかの図星に、カナンは思わず返す言葉に詰まった。薄く唇を開いたまま目を見開いて硬直したカナンの反応をどう取ったのか、女は「ごめんなさい、冗談よ」と手をひらひらと振る。
「でも、そうね……。生活には困っていないでしょう? そんな感じがするわ」
「どうだろう。……あなたは?」
「箱入りのふりをした放蕩娘よ」
茶化した口調でそう呟いた女は、どこか自嘲混じりの目をしていた。
女と実のない話を交わしつつ、カナンは室内の様子に神経を尖らせていた。グエンは詳細を何も語らなかった。ただ、ここに彼の上に立って指示をしていた元締めがいると聞いたのみである。
恐らくグエンも、詳しいことを何も知らされてはいなかったのだろう。そう思う。糸で操られる側、末端、手足。利用される側、無知、切り捨てられる側。
カナンは頬杖をついた拳に頬を乗せた。澱んだ空気や薄暗い天井に取り囲まれて、鈍く頭が痛んできていた。あまり長居をしたくない。窓は全てが磨りガラスであり、外の様子は窺えない。ここが帝都のどの辺りに位置するのかも判然としなかった。
……しかし、この場所が分かっただけでも重畳だ。これからはここに通う日々が続くだろうか。
この一室が、傾国の乙女を利用するための隠れ家であることは想像がついていた。売人はここに紛れ込んでいるのだろうか。この部屋の中に? ……しかし、どれがそれなのか分からない。
もっとグエンに話を聞いておくんだったな、とカナンはため息をついた。今生の別れになるやも知れぬと思って、何だか変に見栄を張ってしまったような気がしてきた。
何年も付き合いがあった。それでいてずっとお互いに自分の話をすることもなく、感情を傾けることもなく関係を保ってきた、その自覚があった。口にせずとも、互いの領域に踏み込まないという暗黙の了解があった気がした。
だのに、最後の最後に、縋るみたいな真似をするなど……、何だか恥知らずのように思えたのだ。
取り留めなくそうしたことを考えつつ、何かを言った女に愛想笑いを返す。――その直後、カナンは目を疑って凍り付いた。
「あれは、」
彼は小さく呟き、顔を浮かせて姿勢を正す。おもむろに遠くを見たカナンに、女は怪訝そうに振り返ろうとした。それを片手で制して、カナンは何か適当なことを言ったようだった。自分でも何を告げたのか、意識の外であった。女から離れながら、カナンは心臓が急激に早鐘を打つのを感じていた。
(――イリージオ!?)
カナンが入ってきたのとは異なる扉が押し開かれたのだ。そして姿を現したのは、金髪を乱れさせた青年――イリージオである。その表情は一目見て分かるほどに憔悴しきっており、落ち窪んだ双眸に光はない。
咄嗟に目を擦るが、その姿は見間違いではない。足音を殺して、カナンはイリージオに近づいた。
イリージオは一度だけ室内を見回すと、迷いのない足取りで部屋の隅へと歩を進めてしまう。カナンは僅かに躊躇し、それから彼の後を追った。
立ち止まったイリージオの背を見つめ、その向かいに座る人影を見据える。暗がりに佇んだその姿ははっきりとは見えないが、あまり背の高い人間ではなさそうだ。
カナンは息を殺して近づいた。会話の頭は聞こえなかったが、距離を詰めるにつれ、その話が聞こえてくる。
「――これを王女に?」
「ああ。手籠めにするくらい簡単だろう」
耳に入ったその単語に、カナンは鋭く息を飲んだ。予想だにしないところで出されたエウラリカの話題に、やにわに鼓動が早くなる。
(あの女は、いつだって中心にいるのだ)
外から手を差し入れて介入しているように見せかけて、その実、いつだってあの女は騒動の渦中にいた。カナンは全身の表面がヒリつくような感覚に、肩を強ばらせる。
何かが見えて来ている。ただの直感であったが、カナンの胸中でそれは確信へと変わりつつあった。
この場所が何を目的とする部屋なのかは判然としない。が、イリージオがここにいるということが何を意味するのかだけは薄らと理解している。
(……全てが、繋がった)
脳髄の奥がキンと冷えるような感覚だった。カナンはゆっくりと息を吸い、そして息を詰める。
カナンが耳をそばだてる傍らで、企ての話は進んでいるようだった。
「王女を薬漬けにするんだよ。第二王子と違って、警備も手薄なんだろう」
「……しかし、」
イリージオは逡巡するように緩く首を振った。「王女に加害を加えたことが明るみに出たら、俺は殺されてしまう」と力なく呟く。カナンは目を眇める。その程度の良識はあったらしい。
溜めていた息を僅かに漏れさせたところで、彼は耳に入った言葉にぴくりと身じろぎして硬直した。
「何を甘えたことを言っているんだ」
それは叱りつけるように厳しい声だった。
「 お前の兄さんを 生き返らせたくはないのか? 」
カナンは瞠目する。
(……生き返らせる?)
死んだ生き物が蘇らぬことは、何よりも明確なこの世の道理である。しかし、今しがたイリージオに投げかけられた言葉は何だ。まるで、故人が生き返りでもするような……。
イリージオの肩がきゅっと小さくなる。何を言っているんだ、と一笑に付すような気配はそこにはなかった。背中に嫌な汗をかいていた。カナンは下唇を噛んで思考を巡らせる。
(イリージオは、一体、どういう状況に置かれているんだ?)
と、そのとき、金髪の青年が踵を返した。ふらふらと危なっかしい足取りで、イリージオはこちらへと歩いて来る。
――意味不明な会話を聞いていたせいか、それとも頭が鈍く煙っていたせいか。
「あ、」
咄嗟に逃げ遅れたカナンは、イリージオと鉢合わせして立ち尽くす。虚を突かれたのはカナンだけではなかった。
イリージオはカナンの顔を見咎め、一瞬だけ怪訝な顔をしたものの、正体に気づいたのかすぐさま顔面蒼白になる。その唇が戦慄き、逃げるように後ろ足が引かれた。……自分がここにいることを知られたからには、もう逃がす訳にはいかなかった。
努めて平然とした態度を装って、カナンは静かに声をかける。
「イリージオ様」
カナンは片腕を伸ばし、イリージオの前腕を強く掴んだ。有無を言わさずに引き寄せ、隅の暗がりへと身を潜める。イリージオは哀れなほどに強ばった表情で、カナンの顔を呆然と見返した。
「ど、うして、君が」
「俺が誰なのかお分かりですか」
抵抗するイリージオを無理矢理に壁際へ追い詰め、その胸元を前腕で押さえつけた。
「エウラリカ様の、奴隷……だろ、」
「はい」
カナンはあっさりと頷き、首を伸ばすようにしてイリージオと目線を合わせた。首輪についた鈴が喉元で揺れる。その音を意識の遠くで聞きながら、カナンは目線を強くした。
「俺がここにいたことは決して誰にも言わないように。……それがお互いの為です」
肺を押さえ込むように体重をかければ、イリージオは苦しげに身をよじった。その様子をじっと観察しながら、カナンは凄むように目線を鋭くする。
「取り急ぎ、これだけは言っておきましょうか」
この後どのように身を振るかの算段を立てながら、カナンはつい、口からこぼれ落ちるように呟いていた。
「――俺の目が黒いうちは、あの人に薬を盛るなんぞ、絶対にさせるものか」
その言葉に意表を突かれたのはむしろカナン本人の方だった。言い終えてから、自分は何を言っているのかと困惑する。
カナンの力が緩んだのをイリージオは見逃さなかった。どんと両腕で突き飛ばされ、カナンは踏ん張れずに尻餅をつく。すかさずイリージオはカナンの前から抜け出て、暗がりから照明の下へと駆け出した。
床に手をついて慌てて立ち上がり追いすがる頃には、イリージオは既に扉の一つに手をかけていた。
「待て!」
思わず声を荒げて手を伸ばすが、目の前で無情にも扉は閉まってしまう。イリージオの姿が扉の向こうに消える寸前、下へと降りる階段が見えた。
イリージオを中途半端な形で放り出したことに、カナンは臍を噛む。もし自分の正体がここで明かされようものなら、何がどう転ぶか分かったものではなかった。
「くそ、」
取っ手を掴んで揺するが、閉ざされた両開きの扉はびくともしない。鍵がかけられたようだ。カナンは扉の前に立ち尽くし、苛立ち紛れに舌打ちをする。
(地下通路を通って逃げたか)
そう結論づけて、カナンはため息をついた。通ってきた地下通路の様子からして、迂闊に足を踏み入れるのは避けた方が良いと容易に想像がつく。別の扉から降りてイリージオを探すのはやめた方が良いだろう。
今日のところは帰るか、とカナンは肩を落として振り返った。その瞬間、はっと息を飲む。
(……!)
じっと、こちらを見据える視線に気づいた。顔を動かさずに探れば、片手の指の数以上の男が剣呑な目でこちらを見ている。カナンは扉を背に全身を強ばらせた。……走ったり大声を出したり、うっかり目立ってしまった自覚はある。
(今すぐにでも撤退した方が良さそうだ)
カナンは一度深呼吸をして息を整えると、さりげなくを装ってゆっくりと歩き出した。自分がどの扉から入ってきたのかは覚えている。
が、地下通路へ降りて逃げることは叶わなかった。
「――君は、彼の知り合いなのかな?」
扉に指先を触れたところで、肩に手を置かれる。カナンは弾かれたように振り返る。目の前には、剣呑な目をした男が立っていた。カナンは慎重に体ごと振り返ると、「何のことでしょうか」と慇懃な笑みで応じる。
男は、カナンの顔を見て一瞬だけ目を見張った。「驚いたな」と彼は頬を吊り上げる。
「こんなところにまで忍び込んできたのか、坊や」
その言い方に、カナンも思わず浅い息を吐いた。蘇る記憶があった。……この売人とは前に会ったことがある。
カナンは腰に手を当てる素振りで、剣の柄の位置を確かめた。
「坊や相手に八人がかりか? みっともない真似はよせよ」
わざと煽るように言ってやれば、男はぴくりと目元を引きつらせた。




