一脈1
「この瓶、中身がすり替えられているんだわ」
エウラリカが呟いたのは、ある昼下がりのことだった。カナンは首を捻った。
「中身がすり替えられている?」
「恐らくは」
胡座をかいた膝の上に分厚い本を乗せたまま、エウラリカは瓶に顔を近づけて匂いを嗅いだ。
「図書館まで行って調べたんだけど、この瓶が使われるのはとある酒に限られていたようなの」
「酒?」
「ええ。もう少し東の地域で作られているものね。伝統的な代物だけど、昔から貴重なもので、今でもなかなか手に入らないみたい」
エウラリカは興味深そうに本を見下ろす。「良いなあ、私も飲んでみたい」と頬に手を添えて、本の記述を眺めた。カナンはエウラリカの背後に回り、その手元を覗き込む。エウラリカの指先が文字列をいくつかなぞった。
「へえ、本当に古くから伝わっているんですね」
「この時代のものは調べてみると面白いわよ」
機嫌よさげなエウラリカの後頭部と肩を見下ろしながら、カナンは背もたれに前腕をついた。
「それで、中身がすり替えられているっていうのは?」
「この瓶、その酒の匂いがしないのよ」
「匂い? 嗅いだこともないのに何でまたそんな……」
カナンは怪訝に眉をひそめた。エウラリカはひょいと肩を竦め、足の上から本をどかすと座り直して足を組む。
「嗅いでみなさい」
肩越しに渡された瓶を受け取って、カナンは瓶の口に鼻を近づけた。鼻につく青臭さと、やや甘めの清涼感。一度嗅いだらなかなか忘れないような、特徴的な匂いだった。
(……何となく、どこかで嗅いだ気がする)
眉根を寄せて虚空を睨みつけるカナンに、エウラリカは一枚の葉を手渡した。何の疑いもなく葉を顔に近づけて匂いを嗅げば、この独特の匂いは実によく似通っている……気がする。
カナンは葉を顔の前に立てたまま首を傾げた。
「何ですか、これ」
「ん? トルトセア」
「トル……ってこれ、傾国の乙女じゃないですか! なんてもの嗅がせるんですか!」
「落ち着きなさいよ。生の葉っぱ嗅いだからって何もないわよ」
泡を食って葉を投げ捨てたカナンに、エウラリカは呆れ返ったように嘆息する。顎で指図され、カナンは恐る恐る葉を拾い上げた。葉を爪の先で摘まむと、エウラリカは聞こえよがしに、もう一度盛大なため息をついた。
カナンはエウラリカの向かいに回り込み、瓶とトルトセアの葉を机に置きながら腰を下ろす。
「確かに、この瓶からはトルトセアの匂いがします。でも、だからといって中身がすり替えられたとは……」
「まあ、もちろんそれはそうなんだけど」
エウラリカは頷くと、組んだ膝に頬杖をついた。
「お前、トルトセアはどこから来ているか知っている?」
「ええ? ……えっと、もう少し暖かい地域のものだった気がしますが」
「そうよ。トルトセアは帝国より南の地帯が原産で、それより北だと冬が寒すぎて野生じゃ育たない」
ふーん、と相槌を打ちながら、カナンは腕を組んで瓶を睨みつけた。
「瓶は東のもの。でも中身は南のもの。そんなことが起こると思う?」
「自然には考えづらいですね。だってその瓶自体が貴重なものなんでしょう?」
「そうね。形もちょっと特徴があるみたい」
カナンは表情を険しくする。中身がすり替えられていた。元々酒が入っていたと思しき瓶の中に、違法薬物として利用される葉が入っていたのだ。
「トルトセアはどういう形で入っていたんでしょうか。連中は、葉っぱは乾燥させて加熱しているようだったけど……」
「そのことで、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ……願望に近いような予想があるのよね」
エウラリカは頬杖をついた片手で顎を支えながら、ちらと笑顔を見せた。
「――もしこの瓶に、トルトセアで作られるという毒が入っていたとしたら、面白いと思わない?」
「それって、前に言っていたものですか? その……作りたいって言ってた、例の……」
エウラリカは笑みを深めることで肯定を示した。
***
事態は進んだように見えて、何が変わったということもない。瞬く間に過ぎてゆく日々の中で、城内では僅かな変化が起きていた。
訓練所へ向かう道すがら、笑いながら歩いて行く数人の兵とすれ違いながら、カナンはふと首を傾げる。
(……?)
何か、判然としない違和感を覚えたカナンの一歩前で、エウラリカは目を見開いていた。
「……トルトセアの、匂い?」
薄く開いた唇から漏れた言葉に、カナンは鋭く息を飲んだ。トルトセアとは、この一年ほどで帝都の水面下でじわじわと広がりつつある違法薬物――傾国の乙女の原材料となる植物の名である。
今しがた行き違った兵を振り返ろうとしたカナンを、エウラリカは咳払いで制した。その手が持ち上がり、手首で腕輪がしゃらりと鳴る。
「追うわよ」
低い声に頷いて、カナンはエウラリカを先導するように踵を返した。
並んで歩きながら、エウラリカは険のある声でカナンを詰る。
「お前、あの薬は城内には出回っていないって言っていたじゃない」
「いつの話をしているんですか。確かに城内で流通している形跡はありませんでしたよ……数ヶ月前に調べた限りではね」
傾国の乙女、と称されるその薬は、初めは帝都の下層から広がり、エウラリカがその存在を認識したときには、既に数人の貴族の手に渡っていた段階だったそうだ。それに伴って価格はつり上がり、既に身を滅ぼした人間がいるとかいないとか。薬を渡す対価として自身の子どもを差し出す者もおり、帝都の内部に人身売買の温床があることを窺わせた。
エウラリカの指示でそれらを探ろうとしたが、なかなか上手くいかなかったのが実のところである。数ヶ月前に婚約の話が持ち上がった辺りでうやむやになってしまっていた。
……そのことが、今になって響いてくるとは思わなかった。城内で違法薬物が蔓延しているとなれば、婚約者の不審死にかかずらっている場合ではなくなる。カナンは小さく舌打ちをする。
「城内は人の目も多いし、持ち込まれる荷物にも厳しいから、滅多なことがなければ出回らないと思ったのに……」
エウラリカは臍を噛むように鼻に皺を寄せた。
兵士を追ってたどり着いたのは、人気の少ない裏庭であった。そこで集う兵の背中を見つけ、二人は物陰に隠れて様子を窺った。
「……吸ってると思いますか?」
「はっきりとは見えないわね」
縦に並んで壁から顔を出す。角に指をかけて、真剣な表情で身を乗り出すエウラリカをちらと見下ろしながら、彼は腕を組んだ。
(こんな白昼堂々と違法薬物をキメる奴がいるか?)
視線を兵に戻し、カナンは眉をひそめる。彼らは談笑している様子で、時折笑いが起こっては肩を揺らした。
その笑い声に紛れて、エウラリカはしれっと告げる。
「お前、近くまで行って見てきなさいよ」
「ええ、嫌ですよ」
「じゃあ私に行けって言うの?」
「それは良くないですけど……」
後ろに蹴り上げた踵で脛の辺りを小突かれながら、カナンは不満たらたらで唇を尖らせた。肩越しに見上げてくるエウラリカの目は『早くしろ』と雄弁に語っている。
……カナンは薄っぺらい笑みを顔に貼り付け、「どうも」と片手を挙げた。
「すみません、ウォルテール将軍に用事があるんですけど、この辺りで見かけませんでしたか? こっちに来たらしいって聞いて……」
ウォルテールの名前は実に便利である。円になってたむろしていた兵たちは、特に疑った様子もなく、顔を見合わせて「見たか?」「俺は見てない」と口々に言っている。その手には簡素な煙管があり、白い煙が立ち上っていた。
(うっ)
カナンは笑顔の下で息を詰めた。彼らが何かしらを吸っているのは事実だった。その正体が分からない以上、下手に近づくのは控えておきたい。
「お前、確か王女様のところの使用人だろ? 将軍に何の用事があるんだ」
「えっ、と」
向けられた問いにカナンがたじろいだところで、別の兵が無作法に指を向けてくる。
「馬鹿、お前知らないのか? こいつ、ウォルテール将軍のところに来て『剣を教えてください!』つって弟子入りしたんだぞ」
(……今のは俺か?)
下手な声真似に閉口するカナンをよそに、彼らは会話に花を咲かせ始めた。その様子はまるで酒にでも酔っているかのようで、見るからに上機嫌で饒舌である。
「そうか、……お前も苦労しているんだなぁ」
ばしん、と背中を強く叩かれて、カナンは目を白黒させた。兄のような年齢の兵たちに囲まれて、カナンはいつの間にか腰を下ろしていた。
薄らと煙で空気が白む空間で、カナンはさりげなさを装って口と鼻を覆う。しかし、隣に座っていた兵はその仕草に目ざとく気づいた様子だった。
「匂いが気になるか?」
一瞬だけ動きを止め、カナンは咄嗟にへらりと笑った。
「ごめんなさい。ちょっと、嗅ぎ慣れない匂いなので……」
「初めてだとそうかもしれないな」と兵は笑い、「どうだ、試してみるか」と自らの煙管を差し出す。カナンは内心で顔を引きつらせながら、「いえ……」と控えめな笑みを浮かべた。
「初めてなので、咳き込んでしまったりしたら、不調法ですし」
「そんな、俺たちは王女様じゃねぇんだぞ?」
げらげらと笑いながら、男は呆れたように肩を竦める。その仕草の中に、侮るような気配が透けて見えた。それが、カナンの反骨心を掻き立たせる。
腹の底で苛立ちを押し殺しながら、カナンは愛想の良い表情で「じゃあ」と手を差し出した。
「一人のときに試しても良いですか? 少しだけ分けて貰いたいです」
「おう、良いぞ良いぞ」
傍らの兵はいそいそと懐を探り、折りたたまれた紙をカナンの手に乗せた。ほとんど重みのないようなそれを見下ろしながら、カナンはひっそりと口角を上げる。
「もしも追加で欲しくなったら、また声をかけても良いでしょうか」
「まあ、常識的な範囲でならな」
「ありがとうございます」
カナンは頭を下げて、ゆっくりと立ち上がった。ほのかに頭痛がしていた。笑みを絶やさないまま、足早にその場を立ち去ろうとしたカナンの背に、別の声がかかる。
「俺たちに声をかけるより、厨房に行った方が早いかもしれない」
「――厨房?」
「ああ」
カナンは努めて平然と振り返った。何も分からないのに、何故か、嫌な予感がした。耳の奥で鼓動の音が反響する。全身を硬直させたカナンに対し、兵は気安い調子で続けた。
「厨房で仕込みをしている奴が、詳しいんだ」
不意に、ずしり、と手の中の小さな包みが、重くなった気がした。カナンは頬の端が引きつるのを感じながら、たどたどしく硬い声で問い返す。
「仕込み、……料理人の見習いでしょうか?」
「あー……そうだったかもしれないな」
「――そうですか。ありがとうございます」
カナンは無言で微笑んだ。
「酷い顔」
エウラリカは開口一番そう言った。
「どうしたの? 上手くやったように見えたけれど」
腕を組んで壁に寄りかかったまま、彼女は不思議そうに片眉を持ち上げる。カナンは一度俯き、受け取った薬包紙をエウラリカに手渡した。受け取ったエウラリカは顔の高さにそれを掲げ、目を眇める。
再び投げ渡された包みを見下ろしながら、カナンは小さな声で付言した。
「……厨房の、料理人見習いが、詳しいって」
「へえ、案外あっさりと分かるものなのね。せっかくだからそちらも様子を見てみましょうか」
警戒心がないのかしら、などとエウラリカは呟きながら、さっさと歩き出そうとした。しかし数歩歩いたところで、カナンがその場から動こうとしないのに気づいて振り返る。
「何よ、大丈夫?」
エウラリカの目が自分を見ていた。カナンは言葉にならない声で曖昧な返事をすると、床に張り付いたように動かない足を何とか持ち上げた。
カナンは粘ついた唾を飲み下しながら、エウラリカに向かって一歩踏み出す。
「嫌な予感がするんです」
「気のせいじゃない? お前、最近ちゃんと寝ているの? もしかして布団が薄いとか」
「厨房の料理人見習いって、そんなに数はいないんですよ。城の厨房に入るのは、大抵はどこか別のところで修行を積んできた料理人ばかりなんです」
エウラリカの問いかけを無視して、カナンはうわごとのように呟いた。エウラリカの表情が僅かにしかめられる。眩しさに不快を示すかのような目の細め方だった。あるいはそれは、痛みを堪えるみたいな、確かな感情の動きだった。
カナンは口の渇きを覚えながら、掠れた声で漏らす。
「……僕、見習いに、知り合いがいて」
「それが、話題に挙がっている人間じゃないかって、言いたいの?」
エウラリカの声音には、どこか呆れたような響きが混じっていた。カナンは忸怩たる思いで項垂れた。
「まさかそんなはずがないって、頭では分かっているんですけど」
「お前は、知り合いが悪事に荷担しているのが怖いの?」
「もしそうだったとして……僕が、その人を糾弾する側に回るのが、嫌なんです。敵対したい訳がないじゃないですか、」
口を閉じたエウラリカの眼差しは、どこまでも静かだった。深い黙考の動きばかりが目の奥に浮かんでいた。
ややあって、少女はゆっくりと唇を開く。
「都合が良いばかりじゃないの。敵が元から自らの手の内にいたのなら、有り難い限りだわ。知らない敵より、姿の見えている存在が、親しい人が、慣れた相手が牙を剥いてくれる方が、どんなに易しいか分からない。その方が簡単に切ることができるでしょう」
平坦な口調でそう語ったエウラリカは、薄らと微笑んでいた。
「――お前、何を悲しんでいるの?」




