糸の先4
女は怪訝そうな顔をした。
「……誰が、イリージオ・アルヴェールに声をかけたかって?」
腕を組んで、ネティヤは眉をひそめてカナンを見据えた。「何だっていきなりそんなことを」
当然の質問に、カナンは肩を竦めることで応じた。
「ネティヤさんに教えるようなことはありません」
「はい?」
束ねた黒髪を揺らしながら、ネティヤは首を傾げる。不快そうに歪んだその表情を眺めて、カナンは声を潜めた。
「彼を選んだ人と、話がしたいんです」
「その必要はない。あの人とのやり取りは私がすると言っているだろう。それじゃ不満なのか」
「はい」
カナンは淀みなく応じ、一度息を吸う。そしていっそわざとらしいほどに態度を崩せば、その場の空気は驚くほど凍りついた。
「あなたはどうせ、下っ端なんでしょう?」
腕を組み、人を食ったような嘲笑を浮かべたカナンに、ネティヤは一瞬黙った。それまで常に従順な態度を緩めなかったカナンが、ここに来て初めて反抗したことに驚いているようだった。
「……君、口には気をつけた方が良いぞ」
「それはこっちの台詞ですよ。ご自分の立場を考えたらどうですか」
一歩前に踏み出して距離を詰めれば、彼女は仰け反るようにしてカナンから逃げた。それだけの身じろぎで、ネティヤが臆している様子が手に取るように分かった。
「俺がいなかったら、この計画はこんなにすんなりと進んでいたでしょうか?」
意地の悪い問いかけに、ネティヤは舌打ちをする。この婚約に関して最も重要となるエウラリカを動かしていたのは、明らかにカナン一人だった。いや、実情はどうにせよ、周囲からそう見えることこそが大切だった。
「俺はこの計画にいなくてはならない存在だ。そう自負しています。俺の協力なしにあの人を思い通りに動かせたとお思いですか?」
「それは……」
「あなたに俺の要求を断る選択肢があるとでも」
ネティヤは唇を引き結んで黙した。口を噤みさえしたものの、その眼差しは何より雄弁にカナンへの不信を語っている。カナンは一度ゆっくりと呼吸してから、慎重に口角を上げた。
「――せっかく官僚になったは良いものの、地方出身で出世の見込みもない。帝国の政を司るのは全て帝都の人間で、『何か』が起きないと、この現状は決して変わらない。だから、次代の皇帝を幼い頃から囲い込むことで、植民地や属国となった祖国を取り立てて貰おうと思いましたか」
微笑みを絶やさずに問えば、ネティヤは吊り目気味の目を大きく見開いた。逃げようとした彼女の腕を些か乱暴に掴み、カナンは笑みを深める。
「そんなことをしたって、あなたは、換えの利く手駒に過ぎないのに?」
ネティヤははっきりと顔を顰めた。鋭く睨みつけられるが、カナンは顔色一つ変えずにその視線を受け止める。
「失礼な言い草だな。……手を離してくれないか」
彼女は体をよじってカナンの手を外そうとした。しかし断固として腕を放そうとしないカナンを見て、その視線に僅かに弱気が混じった。
が、その言葉は依然として頑なである。
「私は自分でこの道を選んだんだ。私の意思だ」
「でもどちらにせよ、あなたは帝都の人間の言う通りに動いているだけじゃないですか。悔しくないんですか」
「は?」
肩を捻ってカナンの手を振り払おうという動きが、緩んだ。カナンは指の力を抜きながら、低い声で囁く。
「――俺は悔しいですよ。今のこの立場に甘んじていることが酷く屈辱だ。これ以上一秒だって耐えられない。ネティヤさんは違うんですか」
「それ、は……」
ネティヤが狼狽えているのは明白だった。この話題は間違っていなかったのだ、とカナンは確信を深め、更に畳みかける。
「俺たちは敵じゃありません。同じ目的を持った仲間だ。故郷を遠く離れて、祖国を飲み込んだ帝国に仕えるやるせなさを、俺は誰よりも理解できます。俺なら、あなたの気持ちが分かる」
指先で腕を伝い、カナンはネティヤの手を取った。彼女は魅入られたように瞠目し、声もなくカナンを見上げている。
「俺はあなたを尊敬している。帝国の未来のために骨を砕いて、少しでも中枢へ食いつこうと努力している姿が素晴らしいです。心から敬服します」
……もっとも、その姿こそがどうにも痛々しく滑稽なのだけれど。
カナンは眉根を寄せ、憐憫を含んだ微笑みで、ネティヤと視線を重ねる。
「それでも今のあなたは、いくらでも代わりのいる一官僚に過ぎない。こんなに頑張っているのに」
「……随分とはっきり言ってくれるじゃないか」
抵抗を諦めたように、ネティヤは詰めていた息を苛立ち混じりに吐き出す。その表情から険が抜けたのを見て取って、カナンはにこりと笑んだ。
「俺は、誰よりもあの王女の寵愛を受けているという自覚があります。たとえそこに理由がなくとも、俺に代わりがいないという事実に変わりはない。だからこそ出来ることがあるはずです」
力なくため息をついて項垂れたネティヤが、再び顔を上げる。
「悪いようにはしません。――俺を、信じてはくれませんか」
ネティヤの指先が掌中で震えた。眼窩の中で双眸が揺れる。逡巡を示す彼女に、カナンはただ無言で笑みを深めた。
そうして、カナンはネティヤの上に立って音頭を取っていた人物と顔を合わせることとなった。
案内された執務室の一番奥で、その男は椅子の肘掛けに頬杖をついて待っていた。背後の窓から射し込む光で、その顔は逆光になっている。
「初めまして。ネティヤから話は聞いたよ」
笑みを湛えた声がカナンに語りかける。椅子を軋ませて立ち上がった男は、背後から落ちる光と濃い影の中から歩み出て、握手を求めるように手を差し出した。
暗い色をした双眸は油断なくカナンを見据えている。彼は思わず息を飲んだ。その細面に浮かんだ笑顔には、慣れ親しんだ将軍の面影がはっきりとあった。
「私も君とは一度話がしてみたかったんだ」
カナンは笑い出すのを必死に堪えながら、目を細め、整えた微笑を浮かべる。――机上の空論は、今、はっきりと目の前に現実として立ち上った。
「よろしく、カナン。君のことはロウダンから聞いたことがあるよ」
「いつも将軍閣下には良くして頂いております」
穏やかに手を握り返す。弟とはまるで違う、冷たくて細い手をしていた。喉が震えた。……自分では決して剣を握ることのないこの手が。決して血を被ることのないこの手が。この片手が、数多の糸を引いている。
カナンは好戦的な眼差しをして、男を静かに見上げた。
「――初めまして、ルージェンさん」
***
男は実に穏やかな表情でカナンを見据えている。
「さて。君が、ネティヤを通してではなく、私と直接話したいこととは何かな」
ルージェンは自身で茶でも入れようとしている様子だったが、カナンはそれを固辞して口を開いた。
「王女に関しての話です」
「そうだろうね。そうだと思った」
ルージェンは鷹揚に頷き、足を組む。その目つきが油断なく向けられているのが分かった。
「……ルージェンさん。あなたは、彼女に伴侶をあてがい、降嫁させようとしている。そう思って間違いはないですか」
「どうしてわざわざそのようなことを?」
「確認しておくのは大切なことですから。答え如何では、俺の出方も変わってきます」
カナンがさらりと告げると、ルージェンは少しの間口を噤み、「そうだな、」と呟いた。
「エウラリカ様を帝位に就ける訳にはいかない。そうとだけ答えておこうか」
それは恐らく、当然の大前提を告げただけの言葉のはずだったのだろう。これを伝えたところでカナンの判断に影響は与えまいと踏んだ発言だった。
しかしそれは運の悪いことに、最も口にしてはならぬ言葉であった。
カナンは口元に笑みを残したまま、「なるほど」と頷く。ルージェンは「曖昧な言い方だったね」と苦笑した。
「要は、私は君と仲良くなりたい訳だ。エウラリカ様のこともあるが、君自身にも興味がある。……どうだろう。これから、私の下で動くつもりはないかな? この国のためになる崇高な事業だ。君のことも悪くはしない」
その言葉に、カナンはゆっくりと視線を持ち上げた。ルージェンの側から、繋がりを求める言葉が発せられた。
(警戒されているか……)
やや強引にネティヤへ迫ったこともあり、それも仕方のないことだと言えた。カナンは数秒考えてから、「分かりました」と短く応じる。
ルージェンはにこりと柔和な笑みを浮かべた。
「念のため言っておくが、ロウダンに余計なことを言う必要はない。分かったね?」
その言葉に、カナンは黙って笑みを深めた。




