糸の先2
ケティネが屋敷を出て行くのを見て、カナンは慌ててそれを追うことにした。とはいえケティネのように正面玄関から出入りする訳にもいかず、裏口まで回り込む羽目になる。
カナンが彼女に追いついたとき、既にケティネは人通りの多い広場にいた。
「あ、あの!」
「……何でしょうか?」
咄嗟に呼び止め、ケティネの視線を向けられてから答えに窮する。驚くほど真っ直ぐな眼差しに、カナンはたじろいで一歩下がった。
「……イリージオ様、と、オルディウス様のことをお聞きしたくて」
「イリージオ?」
昼下がりの午後、道の左右には出店が並び、呼び込みの声や道行く市民たちの会話で賑わっていた。二人の会話に注意を払うものは誰もおらず、カナンはケティネと目を合わせてしっかりと頷く。
ケティネはじっとカナンを見据えると、眉をひそめた。
「……二人のことで、私に話せることなんてありません」
警戒をありありと表したケティネに、カナンはそれもそうかと臍を噛んだ。オルディウスが不審な死を遂げ、何らかの圧力で捜査が中止された直後である。カナンは取り繕うように口を開いた。
「その、僕は怪しいものではなくて、」
「それではどちら様なのですか?」
立ち止まる二人の周囲を、川の流れのように人々が通り過ぎてゆく。平和な会話の交わされる市街地で、二人ばかりが剣呑な話をしていた。カナンは瞬時に自分にできる答えを探した。
エウラリカの奴隷、などと言えるはずもなかった。イリージオの関係者と嘘をついても、カナンはイリージオのことをろくに知らない。……と、そこで、ひとつの顔が閃いた。
「……ウォルテール将軍と、少しばかり縁がありまして」
関係をはっきりとは言わずとも、その名前はケティネの警戒を解くのに十分らしかった。「閣下の?」と呟き、目に見えて彼女の表情が緩む。呆気に取られたように目を見開く彼女に、カナンは「お話を少しだけ伺っても?」と慎重に切り出した。ケティネは数秒の間、躊躇いを見せたが、やがて小さく頷いた。
(別に嘘なんてついていない。ウォルテールの知り合いなのは事実だし)
カナンはそんな風に言い訳しながら、内心でぺろりと舌を出した。
「将軍閣下のご命令でいらしたのですか? ……ということは、中止された捜査とは別に、閣下自身が動かれているということでよろしいのでしょうか?」
凍結防止のため、冬になると水の止められる噴水の縁に並んで腰掛けながら、カナンはゆるく首を振った。隣に座ったケティネは、近くの出店で買った温かい果実酒の器を胸元で握りしめ、真剣な表情で窺ってくる。その香りが届いてくるのを感じながら、カナンは白々しく目を伏せた。
「ごめんなさい。……僕には、そのようにお答えすることは出来ません」
その答えを、案の定ケティネはすんなりと深読みしてくれたようだった。「閣下も複雑なお立場なのね」と呟いて、思い悩むように石畳を睨みつけている。カナンは神妙な態度を崩さないままに付言する。
「ですから、このことはどうか人に言わないで欲しいのです。……残念ですが、誰がどのような企てをしているのか分からない状況です。どんなにあなたが信頼している相手だとしても、僕のことは決して伝えないでください」
ケティネは元から赤くなっていた目元を、更に痛々しく歪めた。しかし、彼女は何か重たいものを飲み下したような仕草の後、ゆっくりと頷く。
「とはいえ、私にお話しできることなんてそれほどございません」
自嘲するように吐き捨て、彼女は力なく項垂れた。
「私、何も分かってなかったんですから」と苦笑交じりの呟きののち、ケティネは話し始めた。
「オルディウス様とイリージオは仲の良い兄弟でした。オルディウス様はお体が弱いから、支えているのはどちらかというとイリージオの側だと言う人もいましたが、オルディウス様は間違いなくイリージオのお兄様だったと思います」
そんな風に、ケティアはアルヴェール家の兄弟について語り始めた。
「何年も前に、オルディウス様が発作を起こして、非常に危ない状態に陥ったことがあったんだそうです。それも、イリージオの目の前で。……あの人、そのときのことをとても怖がっているんです。だから実家を出た後も一緒に住んで、彼は本当にオルディウス様を気遣っていました。そもそもが仲の良い兄弟でしたから」
ケティアはゆったりと目を細め、遠くを見るように少し口角を上げた。
「結婚したらオルディウス様と一緒に住むことになるって聞いたときは、私より私の兄の方が驚いていました。私は別に構わないって言っているのに、『うちの妹に義兄の世話をさせる気か』って。あの人、ちょっと怒りっぽいから……」
ケティアは軽い笑い声を上げて、口元に手をやった。その表情は、当時のことを鮮明に思い出しているように楽しげだ。カナンもつられてほのかな笑みを浮かべる。
「元々、私の兄がイリージオの友人で。その繋がりで出会ったんですよ。だから私たち、何だかんだ付き合いは長いんです。婚約したのは結構最近ですけどね」
そこまで言って、ケティアは不意に顔を暗くした。
「……私がイリージオの婚約者だと思って声をかけられたんでしょう? でも私、本当はこの間、彼に婚約を破棄されたんです」
「それは……」
かける言葉に困って、カナンは言い淀む。ケティネが、イリージオとエウラリカの婚約のことを知っているのかは定かではなかった。迂闊なことを言えず、カナンは口をつぐむことを選んだ。
「私が二人についてお話しできることといったらこの程度です。オルディウス様が亡くなった夜会にも私は参加していませんし、それから何があったのかもよく分かりません。変わったこともなかったと思います」
淡々と告げる、ケティネの表情が不意に苦しげになる。
そうして、彼女は血でも吐くみたいに囁いた。
「……変わったことと言えば、いきなり、イリージオに別れを告げられたことくらい」
ケティネは諦念の滲んだ苦笑で、手に持った果実酒を見下ろす。
「でも私、その理由がちっとも分からないんです。何年も一緒にいたのに、私、イリージオのことが全然理解できていなかったのかもしれないわ」
深く俯くと、彼女の表情は窺いづらくなった。しかし、その声は何より如実に彼女の悲痛を写し出している。
カナンは唇を引き結び、それから、何かしらの慰めの言葉を口に乗せようとした。しかし彼が口火を切るより先に、彼女は毅然と面を上げた。
「それでも私、いつまでだって待とうと思うんです。絶対にイリージオは私のところに戻ってきてくれるはずです。絶対に……」
強い目をして、ケティネはそう告げた。湯気を立てる果実酒を呷る。酒精はほとんど飛んでいるのだろうが、彼女の頬に朱が差した気がした。
「待てば、必ず、事態は正しい方向に向かいます。真実は明るみに出ます。待って、耐え忍べば、全ての物事はあるべきところに収まるんです。だからイリージオは絶対に戻ってくる。待っていれば、彼はちゃんと、戻ってきてくれます。私は彼を信じていますから」
それは、祈るような、……まるで自分に言い聞かせるような。けれど、ケティネの言葉にも表情にも、迷いや疑念は一欠片も存在しなかった。カナンは呆気に取られて言葉を失う。
しかし、そのケティネも、気弱に肩をすぼめた。
「せめて教えてもらえませんか。……もしかして、イリージオは、何かに巻き込まれてはいませんか?」
案じるような言葉の裏に、どこか縋るように哀切な響きがあった。そうではないと信じたいのに、そうだと肯定されることを心のどこかで祈っているようだった。そのことに、自分でも後ろめたさを感じているようであった。
カナンは数秒迷い、それから曖昧に首を傾けた。
「……可能性は、なくはないかと」
答えにもなっていないような答えに、しかしケティネは安心したような顔をする。カナンはざらりとした不快感を自覚しながら、薄らと微笑んだ。
それからいくらか会話を交わす。ほとんど世間話の体を取りながら、カナンは彼女が事情をほとんど知らないことを確認した。エウラリカの名前をそれとなく出しても反応はない。
「今日は、イリージオの部屋に置いてあった私物を取りに来たんです。正直に言えば、それを理由にもう一度話が出来ないかと思ったのですが、不在だったので……」
ケティネは残念そうに苦笑した。「いつもなら毎週この日は非番なのに、何か用事でもあったのかしら?」と首を傾げる。やはり、エウラリカとの逢瀬に関しては何も知らない様子だ。
「買い物でもしていたんですかね?」とカナンも白々しく首を傾けておく。
と、そこで時計台の鐘が鳴った。ケティネは顔を上げ、「そろそろ行かなきゃ」と呟く。
「ごめんなさい、私の話ばっかりで」
立ち上がったケティネに、カナンも腰を浮かせて「いいえ」と微笑んだ。
昼時を過ぎ、広場はやや落ち着きつつあった。カナンは声を潜め、ケティネと目を合わせる。
「念を押すようで申し訳ありませんが、このことは内密にお願いします。……ウォルテール将軍自身にも、この件に関して話をすることはご遠慮ください。どこで誰が聞いているか分かりませんから」
「分かりました。ウォルテール将軍閣下にもよろしくお伝えください」
ケティネは幾分かすっきりとした表情で笑った。人に話せば楽になるというのは本当らしい。
「それにしても、イリージオは幸せ者ですね。こうも心を砕いてくれる方がたくさんいて」
「え?」
予想だにしない方向から、不可解な話題が飛んできた。カナンは動揺を押し殺しながら、ケティネを見返す。「そうなんですか?」と精一杯の相槌に、彼女は「はい」と頷いた。
一陣の風が広場を通り抜けた。出店にかけられた幌がばたばたと音を立て、帽子を飛ばされた子どもが悲鳴を上げる。話をするうちに少しだけほつれたケティネの髪が、風に煽られる。束ねた髪が浮き上がり、冷たい空気がうなじに触れた。カナンはぶるりと体を震わせる。
それは、世間話の延長線上にあった。
「オルディウス様が亡くなった直後、イリージオは塞ぎ込んで食事も摂れなくなった時期があったんです。でも、閣下のお兄様が、本当につい最近まで、何度もイリージオのところへ来て下さって。それでようやくイリージオも少し立ち直れたみたいです」
カナンは鋭く息を飲んだ。ケティネは気づかなかった様子で、ごく穏やかな声でその名を告げる。
「――ルージェン様には、感謝してもしきれませんね」
***
噴水の縁に腰掛けたまま、カナンは凍り付いたように動けないでいた。
(イリージオに、ルージェンが接触していた……? ルージェンの名前をここで聞くとは、)
第一王子ラダームを廃し、エウラリカを次期皇帝にと語っていた。……その考えが今も同じなら、エウラリカの婚約を阻止したいと考えているはずだ。
(まさか、オルディウスを殺したのは……)
かつて、エウラリカはルージェンのことを『泳がせておきましょう』と言っていた。それは、エウラリカがこの男のことを利用できまいかと画策していたためである。
しかし、その結果がこれならば……。
カナンが表情を険しくしたところで、「こほん」といきなり咳払いが響いた。
「なっ!?」
弾かれたように振り返る。空耳かと思ったが、そうではなかった。見れば、眼前には帽子を目深に被った少年が立っている。呆然としているカナンに向かって、その口元がにんまりと弧を描く。
「あら、どうも」
人差し指でついと帽子のつばを持ち上げ、少年の姿をしたエウラリカは唇の端を上げて笑った。
カナンは慌てて立ち上がる。
「何でこんなところにいるんですか!」
「やだ、大きな声出さないでよ」
エウラリカはカナンの叱責もどこ吹く風で、わざとらしい仕草で耳を塞いでみせた。つーん、と一旦顔を背けてから、目線だけを寄越してくすりと笑う。
「お前、面白いことが分かったわよ」
その得意げな表情に、カナンはこれ以上の諫言を諦めて口を閉じた。エウラリカは寒さに鼻先を赤くして、目を輝かせて口を開こうとする。それを手で制して、カナンは腰に手を当てて嘆息した。
「帰りましょう。詳しい話をするには、ここは寒すぎます」
そうね、とエウラリカはあっさり頷いた。
うなじも露わに、エウラリカは不用心にも単身で帝都の中を堂々と歩いていた。それも、随分とご機嫌な様子である。鼻歌でも歌いそうな弾んだ足取りで、彼女はカナンの半歩先をゆく。
人通りの少なくなった目抜き通りの隅を歩きながら、エウラリカは首を傾げた。
「どうしてお前、あんなところでぼうっとしていたの?」
「ほっといて下さい。帰ったら厄介なのに絡まれると思って時間を潰していただけです」
「あら」
くい、とその口角が持ち上がる。「誰のことかしら」と嫌味混じりの呟きに、「さあ?」とカナンはわざとらしく応じた。
カナンはため息をつき、腕を組んでしかめ面を作る。
「逆に訊きますが、どうしてこんなところにいるんですか。だいいち、どうやって宮殿から出てきたんですか? 門の警備はそんなに甘くないですよ」
「城から出るくらい簡単よ」
エウラリカは肩を竦めた。その言葉に見栄を張った様子はなく、本気でそう思っているらしい。一体どんな手を使ったのやら。
「じゃあ、私は別の道で戻るから、お前はちゃんと正規の通路で帰りなさい」
がらがら、と車輪の音を立てて、馬車がすぐ脇を通り抜けた。さりげなく道路の側に立って歩きながら、カナンはため息をつく。
「その『別の道』ってのは安全なんですか」
「うーん、多分?」
エウラリカは腕を組み、首を傾げた。どうにも信用ならない答えである。カナンは渋面でため息をついた。
「……僕も行きますよ」
「あら、駄目よ」
ばっさりとカナンの言葉を切り捨て、エウラリカは不意に横の小径に体を滑り込ませた。
「――私、お前のことをまだそれほどには信用していないの」
朗らかな調子で告げたエウラリカは、あっという間に次の角を曲がって姿を消してしまう。追おうと思えば追えたのに、カナンは身動き一つすることが出来ずに立ち尽くしていた。




