婚約騒動-絡む糸3
時をやや遡り、それは一人の男が突如として息の根を止めた夜のことであった。
カーテンを閉め切り、薄暗闇に落ちた室内に、一筋の光が射し込んだ。扉が開かれたのだ。扉を薄く押し開けて部屋に入ってきた男は、動かぬ体が横たえられた寝台と、そのすぐ脇でへたり込む青年を見つける。
「イリージオ、」
声をかけると、彼は振り返ることなく「ごめんなさい、今は放っておいて貰えませんか」と力なく応じた。精根尽き果て項垂れる彼に、男は小さな息をつく。
痛ましげに目を逸らした男は枕元の棚に視線を移し、そして、鋭く息を飲んだ。
「何てことだ、イリージオ! まさか、その瓶の中身をオルディウスに飲ませたというのか!?」
「……どういうことですか?」
彼は泣き疲れてぼんやりとした頭で振り返った。掠れた声で問い返せば、その男は愕然とした表情で棚の上の瓶を見つめている。その中身は半分ほどに減っており、僅かに金色を帯びた液体は波打つこともない。
「これは、猛毒じゃないか」
「え……?」
彼は、呆然としたまま、自身の兄を振り返った。寝台の上で横たわっているその姿を見る。その胸は上下せず、どの指先に触れても熱はない。息絶えた兄の骸を、眺めた。
「とんでもないことだ、お前が、自分で兄を殺したなど……。わざとじゃなかったんだろう?」
「……俺が、兄さんを殺した?」
声が震えた。対する男は「あぁ……」と声を漏らし、頭を抱えてその場に崩れ落ちる。彼はただただ何も言えずに立ち尽くした。男は両手で顔を覆い、「何ということだ」と呻く。
青年は兄を一度振り返り、それから頭を振って腰を浮かせた。
「そんなはずは……違うんです、俺はただ、兄さんに喜んで貰いたくて……」
「では、その薬はどこで手に入れたんだ、イリージオ」
「前に遠出をした際に、行商人から……。東部でよく作られている酒の一種で、旧ドルト時代から飲まれているものなんです。兄さんは昔からこれを手に入れたがっていたから、驚かせようと思って……!」
彼の言葉に、男は「そんな」と額を押さえる。
「しかしその瓶に入っているのは……猛毒じゃないか」
彼は首を横に振り、反駁した。
「これは毒なんかじゃ……!」
「信じられないのなら、犬か猫にでも飲ませると良い。……それで分かる」
男はそう言って、深く項垂れた。
泡を吹いて倒れた野良犬を見下ろして、彼は絶望していた。
「俺は、どうすれば……」
打ち震える彼の肩を抱いて、男は低く囁く。「大丈夫だ。俺が何とかしてやる」
彼は茫然自失としたまま、「どうやって」と呟いた。男は微笑む。
「お前は何もしていない。オルディウスが死んだのは不幸な事故だった。持病の発作だ。――良いな?」
「そんなの通るはずが、」
「大丈夫だ。……俺は何も知らない。お前は、突然の病で兄を喪った、可哀想な弟だ。そうだろ?」
男は細身である。彼が一度でも強く突き飛ばせば、あっさりと倒れるであろうことは想像に難くない。昔から付き合いのある家の子息である。顔なじみで、彼が最も慕う教官の兄でもあった。
イリージオの目の深くを覗き込み、男は確信に満ちた表情で笑う。
「何も怖いことなんてないさ、イリージオ。俺がお前を助けてやる」
その言葉は、酷く甘美な響きをしていた。イリージオは顔を歪めて呟く。
「――ルージェン、」
そうしてイリージオは、ルージェン・ウォルテールの手を取った。
***
シェルナから受け取った瓶をエウラリカに渡すべく、カナンは城内を早足で歩いていた。エウラリカの一人目の婚約者は不審な死を遂げ、弟であるイリージオは異常な早さでその後釜となった。そのイリージオは、謎の空瓶を、人目を忍んで捨てようとした。これで疑うなという方が無理である。
(それにしても、これからどうするかな)
放っておけば、エウラリカはこのままイリージオと結婚させられることになる。流石にそんな事態はエウラリカが許すまいとは思うが、事態がどう動くか分からない以上、イリージオの動向は把握しておきたかった。
何せ、兄を殺害してその座を狙うような男である。――よもや、エウラリカにその手が伸びはしまいか?
害のなさそうなオルディウスとは訳が違う。エウラリカの身の安全のためにも、イリージオをいち早く遠ざけたいところだった。……とはいえ、手段は限られているだろう。カナンは腕を組んで中空を眺める。
(ネティヤに『あれは駄目だ』と伝える……聞かなそうだな)
あれは頑なな女である。どういう訳か知らないが、時折驚くほどの敵愾心を覗かせることがあった。扱いが難しそうなので近づきたくない。
(俺が直接『近づくな』と本人に言うか……? しかし、俺が動いているのを知られるのは嫌だな。これは最終手段だ……)
そんな風に取り留めもなく思考を巡らせていたカナンは、ふと、噴水の縁に腰掛ける後ろ姿を見つける。
(ウォルテール、)
そのとき、カナンはぱっと閃いた。……ウォルテールを使えないだろうか?
カナンは瓶を背の後ろに隠したまま、微笑みを作って歩み出た。「どうされましたか?」と声をかければ、ウォルテールは憔悴しきった表情で顔を上げる。その顔が思いのほか疲弊していて、カナンは一瞬ぎょっとする。
「……辛そうな顔をしておられますが、大丈夫ですか」
問えば、ウォルテールは項垂れるようにしながら首を横に振った。
「お前が気にすることじゃない、カナン」
「アニナさんが心配しておられましたよ」
「彼女だって関係ないだろう」
「まあ、そりゃそうですけど……」
知り合いの侍女の名を出してみたが、ウォルテールの答えはにべもない。カナンはやや当惑し、どうにか会話を繋ごうと話題を探す。が、友人を失って意気消沈するウォルテールにかけられる言葉が見当たらない。
結局、彼は単刀直入に本題へ切り込むことにした。
「……オルディウス様、でしたっけ」
その名前を出した瞬間、ウォルテールの顔がぎゅっと歪んだ。頭を垂れて、「ああ。知己だった」と苦しげに応じる。身長差ゆえに普段見ることのない頭頂部を眺めながら、カナンは慎重に声を発した。
「――毒殺、という噂を聞きました」
これは鎌をかけるような問いであった。何かしらの反応がないかと期待していた。もしもこれでウォルテールが反応を示せば、オルディウスの死に関して毒殺の可能性が浮上していることの証左になる。これは隠し事の出来る質の男ではなかった。カナンは背後に隠した瓶に指先を這わせながら、ウォルテールの様子を窺う。
しかし、ウォルテールはあっさりと首を振った。
「滅多なことを言うもんじゃない」
その言葉に、カナンは苛立ちを覚えた。ウォルテールが毒殺の可能性を頭に入れてくれたら、それでイリージオに少しでも疑いの目を向けてくれたら、どんなに都合が良いことか。
ラダームとアジェンゼに関しての真相究明の際のように、全てをウォルテールに着せて、自分は素知らぬふりをしたいのである。
しかしウォルテールにその様子はなかった。
「オルディウスには持病があったし、幼い頃から体が弱い質だった」
懐かしむような声音に、カナンは思わず食い下がっていた。
「それでも、いきなり人が一人、何の危害も加えられていないのに息を引き取るなんてことがあるんでしょうか」
自分でも、むきになっている自覚はあった。ウォルテールは面食らったように目を丸くし、それから声を尖らせて「何が言いたい」と目線を鋭くする。カナンは咄嗟に「いえ」と一歩退いていた。
気持ちを落ち着かせるように、首輪を握る。臆した自分を奮い立てるように、手の中で音もなく揺れる鈴の感触に耳をそばだてた。
「……今の状勢を考えれば、有り得ない話ではないと、そう思ったのみです」
じっと、ウォルテールの顔色を窺いながら、彼は低い声で囁いた。唇を真一文字に結んだウォルテールを見下ろす。動揺を示した表情に、カナンは更に畳みかける。
「これは、俺だけに内密で伝わっている話です。決して他へ流さないで頂きたいのですが、」
唇の前に立てた人差し指をかざし、身を屈めた。わざとらしく声を潜めれば、ウォルテールは面白いほどに狼狽した。
その耳元に向かって、カナンは囁く。
「次の婚約者として、オルディウス様の弟さんの名が挙がっています。ウォルテール将軍と仲がよろしいとか」
「イリージオが?」
目を剥いたウォルテールに、カナンは小さく、しかしはっきりと頷いた。ウォルテールは僅かに腰を浮かせ、手を伸ばして何かを止めようとするような仕草をする。その眼窩の中で、見開かれた目がうろうろとあてもなく彷徨った。そうした動向をじっと観察しながら、カナンは手応えを感じて息を吐く。
「待て、イリージオは駄目だ、」
「声を潜めてください」
呆然として首を横に振るウォルテールを叱りつけ、カナンは追い打ちをかけるように告げる。「まだ内々の話ですが、本人からも了承の言葉を頂いたと聞いています」
「……嘘だ」
ウォルテールの表情が、大きく歪んだ。カナンは笑みを堪えながら、白々しく眉をひそめる。
「少なくとも俺が聞いた限りではそうなのですが……。比較的簡単に了承頂けたとネティヤさんも言っていました」
顎に手を当てて首を傾げる、とってつけたような仕草だった。しかし、ウォルテールは「そんな……」と声を漏らすばかりで疑う様子を見せない。
カナンが黙って見ている間にも、ウォルテールは無言のまま表情を何度も変えた。呆然と遠くを眺め、不意に苦しげに顔を歪めたかと思えば、眉根を寄せ、終いには決然とした眼差しで立ち上がる。
明らかに、今の話を受けて何かしら動こうとしている者の目つきだった。カナンは胸を撫で下ろす。
歩き出そうとしたウォルテールが、そこでふとカナンを振り返った。
「……カナン、どうして俺にこの話を伝えた。機密なんだろう」
その瞳に浮かんだ僅かな疑念に、カナンは咄嗟に動揺を覆い隠す。「知りたいかと思いまして」と見上げれば、たじろいだのはむしろウォルテールの方だった。
「そ……それだけで、情報を漏らすのか? お前は、俺にどうして貰いたくてこんな話を……」
「僕の個人的な理由です。詳しくは訊かないで頂けると有り難いのですが」
「しかし……!」
薄ら笑いと共に淀みなく応じると、ウォルテールが反駁する。が、その声に威勢はなく、明らかに怯んでいる様子が見えていた。それを感じながら、カナンは笑みを深める。
「ウォルテール将軍、」
背に隠した瓶を親指で撫でる。空いた右手を持ち上げ、唇の前に人差し指を立てた。出来るだけウォルテールには情報を与えたくない。
くすり、小さく息を吐いて笑う。自分より歳も体躯も大きな男が、自分の言葉にこうも踊らされるのが愉快でならなかった。
「――好奇心は犬をも殺しますよ?」
囁いて、カナンは踵を返す。瓶を胸の前で握り、カナンは機嫌良くその場を立ち去った。イリージオが怪しいという証拠を手に入れ、シェルナを手駒にし、ウォルテールに発破をかけることが出来た。今日は上手くいった一日だった。
きっとエウラリカも喜ぶだろう。
***
が、予想に反してエウラリカの反応は淡白だった。
「なるほど」
彼女はあっさりと頷き、瓶を検分し始める。「瓶の首が細くて長めね。この形はよく東の方で見るらしいけれど……」
瓶を目の高さに掲げて、エウラリカは早口に呟いた。それを眺めながら、カナンは上着を脱いで長椅子の背にかける。
「中に入っていたのは何かしら? わざわざこの大きさの瓶に入れるってことは、あまり大量に使うものじゃない……。毒の可能性は十分にあるわね」
エウラリカが真剣な表情で瓶を睨みつけている。放置されたカナンは部屋の隅の暖炉に足を向けて座り直した。
爪先を温めながら、カナンはエウラリカに顔だけを向ける。
「……僕は、よくやっているでしょう」
「ん? ああ、そうね」
なおざりな返答で、エウラリカは瓶の口に顔を寄せて匂いを嗅いだ。少し不思議そうな表情で中空を眺め、「何かに似ているわね」と首を傾げる。
「何だったかしら……。最近嗅いだ気がするのだけれど」
顎に指先を当てて思案する視線は、一度としてカナンを向かない。
まるで相手にされず、カナンは死んだような目で暖炉の炎を眺めた。
(まあ別に……何かを期待していた訳ではないけども……)
どういう訳か、ふて腐れたような感情が胸に浮かんでいた。カナンはむすりと唇を尖らせて、無言で膝に頬杖をつく。
そんなつもりではなかったが、あからさまに拗ねた態度を取ってしまっていた。それに気づいて表情を取り繕うも、その間、エウラリカは一度としてカナンに注意を向けなかったご様子である。彼女が反応を示すことはない。
(まあ、別に、良いけど……)
カナンが自嘲するように半笑いを浮かべたところで、首を曲げるようにして本の文字列をなぞっていたエウラリカの視線がいきなり差し向けられた。ぐるんと頭ごと振り向かれて、カナンはぎょっとして椅子から転げ落ちる。
「ねえ、この瓶ひょっとして、とても貴重なものかもしれないわ!」
青い目を輝かせて、エウラリカが身を乗り出す。カナンは何とか座面にずり上がりながら、面食らって「何ですって?」と聞き返した。
エウラリカは瓶に嵌まっていたコルクを指して、「この焼き印を見て」と頬を紅潮させる。カナンも机の天板に手をついて身を乗り出し、示された面を確認した。
「何かの絵……ですか?」
「この図柄に似ていると思わない?」とエウラリカが本を反転させて差し出したのは、黄ばんだ紙の古びた本だった。その指先が、表紙の一点――複雑に線の入り組んだ装飾の一カ所を指し示す。
「二振りの剣と蔓草。これは今の帝国が出来るよりも昔の時代のもので、この印を使える物品は相当に限られていたはずなの。確か、東の方の領土だったかしら……」
「そんなの、知らない人が『格好いいから』みたいな理由で入れたんじゃないんですか?」
「だから『ひょっとして』って言ったでしょうが」
素早い反駁の応酬ののち、エウラリカは胸を高鳴らせる子どものように鼻から長く息を吸った。
と、そこでエウラリカが雰囲気をきりと引き締めた。
「とにかく、よ。疑いが出てきたのはイリージオね。この瓶の正体が分からないにせよ、イリージオがこれに関与しているんでしょう?」
差し向けられた視線が硬質なものに変わる。カナンは喉を鳴らして唾を飲み、「彼女が嘘をついていなければ」と応じた。
「お前はどう思うの?」
エウラリカは無感動な目でカナンを見据えた。全くもって支配的な眼差しだと思った。カナンは肩を強ばらせながら頷く。
「嘘では、ないと思います」
「そう」
あっさりと応じたエウラリカに、カナンは拍子抜けした。もっと情報源を正されるものだとばかり思っていたのだ。目を丸くするカナンに、エウラリカは少し不思議そうな顔をした。
「何よ」
「いやに簡単に信じるんですね」
カナンが瞬きを繰り返しながら言うと、エウラリカはゆったりと首を傾げた。肩に乗っていた金髪が胸を滑り落ちる。
「あら。じゃあ逆に訊くけど、お前はどうして、その『彼女』とやらの情報をそんなに簡単に信じているの?」
どこか泰然とした雰囲気を纏いながら、エウラリカは薄らと微笑んだ。カナンはシェルナのことを回顧しながら、慎重に答えを探す。
言葉はあっさりと唇を転げ落ちた。
「……だって、彼女は、……僕に嘘はつかないだろうから、」
否、正確に言えば、――『嘘はつけない』、だろう。
実際、シェルナはカナンの手のひらでいとも容易く転がされていた。いかに彼女が反発し、嫌な顔をしようとも、シェルナは彼の手の上で踊っているだけである。それをカナンは知っている。どれだけ対等を装ってやったとしても、決してカナンはシェルナを同列などと思ってはいなかった。
優しくしてやることはできる。甘やかしてやることもできる。まるで友人や恋人かのように振る舞ってやってもいい。情だってそのうち沸くだろう。けれど、シェルナと一緒に命運を共にすることなど考えられない。どれだけ彼女がさもカナンを支配したかに見えたとしても、カナンは決して彼女の手の中に落ちることはないのだ。
自分はシェルナを掌握している。彼にはその自負があった。
それらの言外を汲み取ったかのごとく、エウラリカはゆるりと目を細めて口角を上げた。
「そういうことよ」




