婚約騒動-絡む糸2
ここ最近、ネティヤはずっと難しい顔をしていた。何せ、様々な方面に手を回して進めてきたエウラリカ婚約の手筈が、オルディウスの死によって全て水泡に帰したのだ。死んだ人間を婚約者には立てられまい。
だから、彼女が晴れやかな表情で現れたとき、カナンは『何かあった』のだとすぐに察することができた。
「ネティヤさん、どうかしましたか?」
久しぶりに顔色の良いネティヤに話しかけると、彼女は「ああ」と機嫌よさげに頷いた。
「新しい婚約者が用意できたんだ。私の上役が見つけてくださった」とネティヤは腕を組んでご満悦である。「やはりあの方は他の人間とは違って、私たちのことを分かってくださる」
その呟きにカナンは首を傾げかけた。――と、そこでネティヤがさらりと告げる。
「新しい婚約者は、イリージオ・アルヴェール殿だ」
その名に、カナンはぴくりと眉を跳ね上がらせた。神経が張り詰めるのを感じる。
「……アルヴェール?」
ネティヤの口から出てきたのは、イリージオという聞き慣れない名前であった。しかし、その姓である『アルヴェール』には、過ぎるほど心当たりがある。
「オルディウス……さん、と同じ家名じゃないですか」
カナンの呟きに、ネティヤは「その通り」と頷いた。
「亡くなったオルディウス殿の実の弟君だ」
ネティヤの言葉を反芻し、カナンは言葉を選ぶ。
「あ……兄が亡くなって、こんなにすぐに、その後釜に、と?」
「ああ。私としても正直信じられないが、……帝国民とはこういうものなのかもしれないな。彼が自らこの話を引き受けたのは事実だ。兄が死んだばかりだというのに、権力に目が眩んだか」
彼女の口元に浮かんだのは呆れと嘲笑であった。
「恐ろしい話だ。……私たち東方の民は、家族というものをもっと重んじる。そうだろ?」
同意を求めるような問いかけに、カナンは咄嗟に頷けずに息を止めた。瞬時に脳裏をよぎったのは、自身の兄の喉笛を切り裂いて嗤うエウラリカの横顔である。しかし次いで、ウォルテールやシェルナの顔が蘇る。
「……どうなんでしょう」
カナンには、そう答えるのが精一杯であった。
城内でエウラリカを見つけられなかったため、カナンはその足で宮殿を出、オルディウスの屋敷を目指した。今は亡き兄と、その弟が住むという屋敷である。
(イリージオ・オルディウス……)
カナンはその名前を胸の内で反芻しながら、帝都の路地を歩いていた。
兄が死に、まだ数日も経たぬうちに、エウラリカの婚約者の座についた男である。そこに、オルディウスが何者かに殺されたという可能性を重ねれば、一つの道筋がくっきりと浮かび上がってくる気がした。
(彼は兄を殺し、その後釜を狙った。どうして? ……帝国の王女の伴侶ともなれば、そこらの貴族の次男坊には過ぎるほどの権威を手に入れられるだろう)
カナンはゆっくりと瞬きをした。自ら視野を狭めることはしないが、しかし、――これは大きな手がかりではないか?
屋敷の中は、幾分か落ち着きを取り戻していた。軍の関係者らしき人員が正面から出入りしているのを横目に、カナンは裏口から屋敷へと侵入した。
屋敷の間取りはほぼ大体分かっていて、オルディウスが殺された現場の様子も既に確認済みである。しかし、まさか家主の部屋に入り込んで中を探るなんて冒険は躊躇われる。そういう訳で、屋敷の内部を偵察しようにも、出来ることは限られていた。
(取りあえず、シェルナに屋敷で変化がなかったかを訊いておくか)
そう算段を立てつつ廊下の角を曲がったカナンは、直後「げっ!」と声を漏らして飛び退いた。
(何でバーシェルがここにいるんだよ!)
内心で盛大に毒づきながら、カナンは角の壁際に隠れて耳を澄ませる。
「お兄様は、突然倒れられたのですか?」
「はい、そのように聞いています」
「聞いている……ということは、あなたはそのとき席を外していた、と?」
「ええ」
質問を投げかけているのは、カナンが最近まで一緒に訓練を受けていた兵士のバーシェルである。彼の言葉を借りるなら『友達』だ。城外警備に当てられたとは聞いていたが、なるほど、軍はこうした不審死に関しても取り扱うらしい。
それにしたって間が悪い。うっかり視界に入ってしまえばバーシェルはカナンを絶対に見逃さないだろうし、何故カナンがここにいるのかと疑問に思うに違いない。
(見つかる訳にはいかない)
歯噛みしながら、カナンは角の向こうの会話に再び注意を向ける。
「医局の医師が言うには、病死である、と。兄は生まれつき心臓に持病を抱えていて、その発作によるものだそうです」
「なるほど……本当ですか?」
「俺が嘘をついているとでも?」
不服そうな声が応じると、バーシェルは「ああ、そうじゃなくって……」と声を潜めた。
「……お兄様、王女様の婚約者だったんすよね? それで色々とうるさい人がいるんですって」
心底うんざりとした口調に、緊張感が抜ける。まったく、バーシェルらしい物言いである。いやに率直で遠慮がないのが、彼の長所であり欠点だった。カナンは呆れて苦笑しながらも、バーシェルの話し相手の正体に思いを馳せる。
オルディウスを兄と呼ぶのは、その弟であるイリージオしか有り得なかった。すなわち、エウラリカの新たな婚約者である。カナンは唇を引き結んで、イリージオの言葉に耳を傾けようと神経を尖らせた。
と、足音が近寄る。
「あっ、来てたの?」
「うわっ!?」
突如、背後で声がすると同時に肩を叩かれ、カナンは飛び上がって驚いた。振り返れば、カナンの驚きように意表を突かれた様子のシェルナが立ち尽くしている。
「な、何むぐ」
「黙って」
再び口を開こうとしたシェルナの口を片手で塞ぎ、カナンは彼女を引きずるようにして近くの部屋の中へと転がり込んだ。
「ん? 何か今声がしたような……」
バーシェルの声が近づく。カナンはシェルナの口を塞いだまま、廊下から隠れるように扉の影へ姿を潜めた。明かりのない部屋の中で、二人は息を殺して外の様子を窺う。シェルナの肩を壁に押しつけ、カナンは覆い被さるように壁に身を寄せた。
「気のせいか……?」
バーシェルは不思議そうにしつつも、「すみません、空耳だったみたいです」とイリージオの方へ戻ってゆく。
足音が完全に遠ざかるまで、カナンは身動きしなかった。壁に押さえつけた手の下で、シェルナは不満げに身じろぎをする。カナンの手を口から剥がしながら、シェルナは目線を鋭くした。
「……離して」
「悪い、」
カナンは一歩下がりながら、改めてシェルナと向かい合った。彼女は不満げな表情で腕を組み、じとりとカナンを睨みつけている。
「……あなたは、軍に姿が見られたらまずいのね?」
「さあ?」
カナンはしらばっくれて首を傾げながら、顔だけを通路に出して気配を探った。どうやらバーシェルとイリージオは立ち去った後らしい。もう少し様子を窺いたいところだったが、仕方がないだろう。
部屋から出てシェルナを振り返ると、彼女は決然とした表情で扉のところに佇んでいる。何やら確信を抱いているような顔に、カナンは聞こえぬようにこっそり舌打ちをする。
「あなたは、軍の関係者なのね? だからまだ公になっていない情報も持っていたし、あのときも将軍がアジェンゼ大臣を捕まえるのを手助けした。さっきの兵士に見つかるわけにはいかない、つまり軍人に顔を知られているのも頷けるわ。……そのあなたがここにいるってことは、オルディウス様の死はやっぱり何かの」
「これは忠告だが、」
シェルナの言葉を遮り、カナンは剣呑な声と表情で彼女を黙らせた。
「俺のことを探ろうとするのはやめた方が良い。身の破滅を招きたくなかったらな」
その言葉に、シェルナは一瞬気圧されたように顎を引いたが、すぐに「そんなの、今更じゃない」と強い言葉で反駁した。
「あなたが、その……真っ当な人じゃないって、そんなの見ればすぐに分かるわ。あなたと関わった時点で、私は否応なしに危険なことに足を踏み入れているっていうのに、今更『身の破滅』ですって? だったら今からでも縁を切らせて欲しいものだわ」
「残念ながら、俺としてもそれは出来ない」
「あくまでも私を共犯者にしたいのね」
思いのほか鋭い指摘に、カナンは閉口する。その反応をどう取ったのか、シェルナは鼻を鳴らして腰に手を当てた。
「良いわよ、私だって薄々分かっていたし」
そう言って、シェルナはカナンに手招きした。着いてこい、というように歩き出した彼女の後を追う。
「どこへ行くつもり?」と問えば、シェルナは当然のような口調で即答した。
「私の家」
***
薄暗い路地に入り、シェルナが向かったのはそびえ立つ集合住宅の高層階だった。
「うわ、何だこの階段」
「この辺の家なんてみんなこんなものよ」
すれ違うのも困難な階段は、至る所で床が抜け、軋み、今にも崩れ落ちそうである。カナンはおっかなびっくり階段に足を乗せて上ってゆく。途中まではまだまともな階段だったというのに、上がれば上がるほど不安定になってきた。
つんと鼻を刺す刺激臭に、カナンは袖で口元を覆った。手すりから身を乗り出して階段の上を覗き込む。
(増築を繰り返した結果か)
異臭の漂う階段では、正体も分からないごみの山や積まれた木箱、使用済みの日用品や家具などが行く手を塞いでいた。踊り場の床は明らかにたわみ、今にも割れて落ちていきそうである。
(戻るときに足場が残っていれば良いが)
顔を歪めたくなるのを堪えながら、カナンは先を行くシェルナの背を追った。
ひとつの扉の前に立って、シェルナは「そこで待ってて」とカナンに声をかけた。目の前で扉を閉じられ、カナンは手持ち無沙汰に立ち尽くす。
階段の踊り場に立ち、手すりに寄りかかろうとしてやめておく。手すりが壊れでもして、この高さから転落したらことである。カナンは澱んだ空気に顔をしかめながら唇を引き結んだ。……帝都に、ここまで劣悪な環境があるとは。
(宮殿にいたら気づかないだろうな)
宮殿で働く人間は、たとえ下働きであっても、結局はそれなりの出自を持つ者が大半である。帝都にこのような場所があるなど、聞いたこともなければ想像もできないに違いない。
そして、どうやらここがシェルナの住む家らしい。扉の向こうからは何やら物音が続き、ややあって足音が近づいてくる。つんと上階のどこかから漂ってきたのはきつい酒の匂いだろうか。鼻に皺を寄せながら、カナンはため息をついた。
扉を開け、シェルナが顔を出した。カナンはあからさまに鼻を覆うのをやめて彼女に向き直る。
「あんまり、外に持ち歩くのは良くないと思ったから」
そう言って彼女が差し出したのは、片手で持てるような小瓶だった。大きめの香水瓶のような大きさだが、それにしては無骨な形である。思い当たる節のない物品に戸惑いつつも、カナンは小瓶を受け取った。
「これは?」
「お屋敷の裏庭にある焼却炉に捨てられていたの」
「捨てられていた?」
カナンが聞き返せば、シェルナは「ええ」と頷いて声を潜めた。
「……イリージオ様が、これを、焼却炉に捨てているのを見たわ」
低い声で囁かれた名に、カナンは鋭く息を飲む。シェルナは探るような眼差しでカナンをじっと見据えていた。それに気づいて、彼は慌てて感情を覆い隠す。
指先で瓶の首をつまみ上げ、目の高さに掲げた。中身はどうやら空で、底の僅かな残滓が円を描いている。口にはぼろぼろになったコルク栓が嵌まり、壁面には小さなひびが走っていた。焼却炉に捨てていたことと言い、あまり丁寧に扱われている様子ではない。
(イリージオ・アルヴェール、)
エウラリカの婚約者となったその男の名を胸の内で繰り返す。
「イリージオ様たちは、ご自分で焼却炉にごみを捨てにいくことなんて基本的にはないのよ。お部屋のくずかごから、私たちが処理をするの。……それなのに、どうしてこの瓶だけは別にしたのかしら?」
シェルナの言葉を、カナンはゆっくりと噛みしめた。彼女は腕を組んで壁に寄りかかり、頑なに心を開くまいとするように眉をひそめている。
カナンは小瓶を手の中に握り込んだ。鋭い眼差しで汚れた壁を見据える。この瓶が一体どのように関与しているかは分からないが、まずはエウラリカのところに持ち帰らねばなるまい。
「……ありがとう、シェルナ」
ややあって、カナンはシェルナを振り返った。彼女は壁に背を預けたまま、「別に」と小さな声で呟く。赤毛が一房、その頬に落ちて波打っている。困惑と嫌悪の入り交じる表情であった。そこに、一瞬だけ、喜色が覗く。それをカナンは見逃さなかった。
カナンは彼女に歩み寄った。
「こうして大切な手がかりが得られたのも、君のおかげだ。心から感謝するよ」
その肩に軽く触れると、固く組まれていた腕が僅かに綻ぶのが分かった。シェルナは無言のまま目を見開き、カナンの顔をじっと上目遣いで見上げる。彼女は背が高く、その顔が思いのほか近いことに驚く。……何と比べて『思いのほか近い』のだろうか?
シェルナは目を逸らす。
「それなら、もう私の役目は終わったわね? ただでさえ屋敷の中はぴりついているっていうのに、これ以上怪しい真似なんてしたくないわ。これで恩返しってことで良いでしょ? 私はこれで手を引かせてもらうわ」
「いや、シェルナ」
カナンはシェルナの肩に触れる手に力を込めた。彼女は目を見開いた。それで、カナンは自分が薄らと微笑んでいることに気づいた。
「俺一人じゃ出来ないこともある。これからも君を頼りたいんだ。……駄目かな? もちろん、礼はするよ」
瓶を手のひらに握ったまま、浮かせた指先でシェルナの顎を持ち上げた。視線を合わされた彼女は、はっきりと苦悩の色を浮かべる。
ふと視線を落とした。床に打ち捨てられた鏡に自身が映っている。シェルナを見下ろすその表情は、艶然と嗤うエウラリカのそれによく似ていた。




