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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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婚約騒動-絡む糸1



 その報せが入ったのは、いきなりのことだった。

「――オルディウスが死んだ!?」

 弾かれたように立ち上がり、目を剥いたエウラリカの叫び声が部屋に響く。

「ど……どうやら、そのようです」

 険しい剣幕に圧されて、カナンは思わずたじろいだ。大声を出したエウラリカは一旦口を閉じ、それから落ち着きなく腕を組んで部屋の中を歩き出す。窓際で立ち止まり、彼女はくるりとカナンを振り返った。


「一体どういうこと? 説明しなさい」

「はい。……僕も、ネティヤから伝え聞いただけで、ネティヤも更に上から連絡を受けただけのようで、いまいちはっきりしませんが、」

 カナンはなるべく言い淀むことのないよう、ネティヤとの会話を一度反芻した。それから、慎重に話し出す。

「……昨晩、オルディウスとその弟が暮らす屋敷において小規模な宴会が催されていたとか。その席でいきなり吐血し昏倒、そのまま死亡、とのことです」

 端的に述べた経緯に、エウラリカは「なるほど」と低い声で頷いた。


「毒の可能性が高いわね」

「聞く限りではそのようです」


 二人は顔を見合わせて首肯する。

「表向きは病気による急死ということになっているようですが」

「私との婚約の話が進み始めた頃合いに、そんなに都合良く人前で派手に死ぬかしら?」

 恐らく二人の頭の中にある考えは一致していた。――オルディウスは、何者かに殺された。


「調べてきましょうか」

「私も探りを入れてみるわ。お前は城外で動きなさい。人に気取られるんじゃないわよ」

 ちら、と向けられた視線に、カナンは受けて立つように頬を吊り上げた。

「僕を何だと思っているんですか」

「あら、こう見えても私、お前のことは結構買っているつもりなのよ? そうじゃなきゃ可愛いワンちゃんをひとりでお外に出す訳ないじゃない」

 腕を組んだまま、エウラリカは小馬鹿にしたように告げる。その指先がすいと持ち上がり、揶揄するように自らの喉元をとんとんと指した。カナンは渋面で首輪を握りしめる。


 聞こえよがしにため息をついて、カナンは腕を組んだ。

「……好きに言ってください。では、薬に関しての調査は一旦後回しにしても?」

「そうね。今はオルディウスを毒殺した犯人の方が気になるわ」

 頷いたエウラリカに短く応じて、カナンはそのまま部屋を出ようとした。と、そこで一旦振り返る。


「…………気をつけてくださいね」

 躊躇いがちに投げた言葉に、エウラリカはあからさまに怪訝そうな顔をした。カナンは誤魔化すように言い訳を続ける。

「僕たちが追うのは、人を殺すのも厭わない輩ですから、」

 ぼそぼそと、低い声で言い訳がましく付言した。ぽかんと口を半開きにしているエウラリカを横目に見ながら歯噛みする。言い出さなければ良かった。これではまるで、僕がエウラリカを心配しているみたいじゃないか。

 依然として呆気に取られたようなエウラリカの顔を見ながら、カナンは内心で後悔する。彼女は少しの間、反芻するように瞬きを繰り返した。


「あら」

 不意に、エウラリカの声に愉楽の色が滲んだ。

「――それなら、おあいこじゃない」

 その言葉に、カナンは唇を引き結ぶ。エウラリカは挑戦的に顎を引き、頬を緩めて鼻を鳴らした。カナンはその目を見返すことなく、ふいと顔を逸らした。


 まるでエウラリカの身を案じるようなことを考えた自分が馬鹿だった。エウラリカはなかなか殺しても死なない女である。カナンが守るべきはエウラリカではなく、彼女の剣が向けられる先にいる人間である。

 自らの決意を忘れぬように、立ち返るように、カナンは自身に言い聞かせた。

(これ以上、エウラリカに、人を殺させてなるものか。次の被害者など出すものか)

 内心で固く誓う。ぎり、と音がするほどに奥歯を噛みしめる。今となっては、善悪のありかたも、何が真実なのかも、ろくに分からなかった。自分がエウラリカに対して、ひいては帝国に対して、どのような立ち位置を示すのが最善なのか分からない。


 けれど、人死にを厭う程度には、カナンは愚直であった。ましてや、この女のせいで人が死ぬなど。



 ***


 現場となったオルディウスの屋敷は、些か複雑な形をしていた。屋敷の周囲を三周ほどして、建物の形や内部の様子を探る。家主の一人が急死したとあって、屋敷内は騒然としていた。

(案外、そのまま入っても気づかれないんじゃないか?)

 外部の人間が大勢出入りする頃合いならば、見知らぬ人間が多少怪しい動きをしていても注目を浴びないものである。それは既に経験済みだった。


 アジェンゼ邸にて開かれた夜会を思い返す。……あのときは逆に怪しまれなさ過ぎて、さんざんこき使われたものである。

 薪の運搬やら会場設営やら給仕やら、なりゆきで押しつけられた作業を思い返しながら、カナンは苦笑交じりに頬を掻いた。あれはあれで、まあ、思い出の一つか。



 使用人が慌ただしく出入りする裏口に近づきながら、カナンはさも用事があるかのように小走りになる。絶えない人通りのために扉は開けっぱなしになっており、彼は何の障害もなく屋敷の中へと入り込むことに成功した。

 とはいえ、何をする様子もなく屋敷内をうろうろするのも憚られる。カナンは使用人が行き交う通路をざっと見回し、近くに詰まれていた木箱を一つ抱え上げた。そして、悪びれる様子もなく、屋敷の中を探り始めた。


 最初にたどり着いた玄関ホールを見回し、カナンはふと、壁に掛けられた水彩画に目を留めた。

(……見たことがある風景だ、)

 それは、カナンが生まれ育った都を描いたように見えた。ジェスタだ、そう思って歩み寄ってみたが、よくよく見てみれば、どこか特定の場所が思い浮かぶでもない。馴染んだ都の姿も描かれていない。もしかしたらどこかの名所を描いた絵なのかもしれなかったが、要するにそれは、ジェスタを含む大陸北東の風景によく似ていたのだ。

 切り立った尾根と谷、緑に包まれた山。水の豊かな山岳地帯。

 カナンの胸に耐えがたい郷愁がこみ上げる。つと息ができなくなった彼は、声もなく絵の前に立ち尽くした。

(俺は、いつか、絶対にジェスタへ帰る)

 胸の内で固く誓う。そして、僅かに目を伏せた。――そのためには、エウラリカを殺さねばならないのか。



 と、そのとき、先程歩いてきた方向から騒々しい会話が聞こえてくる。

「裏口にあるはずの荷物が一つ足りない? そんなはずがないだろう、もう一度よく探してこい!」

「で、でもっ! 本当に見当たらないんです!」

「…………。」

 カナンは無言で視線を落とし、自身が抱えている木箱を見下ろした。裏口に積んであったものを一つ拝借してきた代物である。

(……いや、そうと決まった訳ではないし、)

 言い訳しつつも、カナンは声がした方から逃げるように、そそくさとその場から逃げ去った。


 木箱を抱えたまま、カナンは人のいない方向を目指して歩き出す。できれば人目につかないところでこっそり木箱を手放したいところだが……。何も考えずに荷物を持ち出してしまった浅慮を悔いながら、カナンは屋敷の中をうろつき、そして、ついには屋敷の外に出た。乾燥した風が頬を撫でる。

(裏庭……か?)

 塀に囲まれた庭には、いくつかの低木と花壇があり、その他に見当たるものとしては、焼却炉に井戸、物干し竿くらいである。どれも、一般的な裏庭の範疇に収まる代物だ。むしろ名家の屋敷にしては質素な裏庭といえた。



 さっさと木箱を手放してしまおうと、カナンはちらと肩越しに背後を振り返る。

「あ、その箱っ!」

 瞬間、耳に届いたその声に、彼はぎょっとして顔を引きつらせる。そうして声の主と視線を重ね、そこで、息もできずに凍り付いた。


 ……初めて会ったのも、こんな冬の日のことだった。


「――あなたは、」

 蒼白な顔をしているのは、カナンよりむしろ彼女の方だった。特徴的な赤毛は前より伸びただろうか。

「ど、して、こんな、ところに」

 癖の強い赤毛を束ねた彼女は、冷たい外気に鼻を赤くして、白い息を立ち上らせて、その場に立ち竦んでいた。その視線ははっきりとカナンの顔を見据えており、彼は目眩がするような心地がした。


 彼女とは面識があった。彼女はかつてアジェンゼの屋敷で働いていたはずである。二年前、カナンがアジェンゼ邸に潜入した際のことだ。カナンは、彼女が薪の買い付けに行くところに出くわし、その場にいたせいで引っ張って行かれた。それが出会いである。

 別れも同じ冬であった。アジェンゼが捕らえられる現場で、カナンが大臣を陥れるところを目撃された。だから逃げるように去った。そんな程度の関係だ。

 特筆すべき思い出も感傷もない、ただの通り道のひとつである。


 ――しかし彼女は、カナンにとって唯一と言っても良い、明確な瑕疵だった。


(まずい、)

 この一瞬の邂逅のうちに、彼の鼓動は一気に早鐘を打っていた。背中に汗が滲む。カナンは木箱を抱えたまま、逃げるように数歩後ろに下がった。


 この侍女は、自分がアジェンゼの足を引っかけて階段上で転ばせたのを目撃している。ひょっとしたら、あの屋敷に使用人のふりをして忍び込んでいたことにも感づいているかもしれない。

 ――その事実と、エウラリカの従僕である自分を結びつけられたら、どうなる?


(この女にだけは出会う訳にはいかなかった)

 悔いるも、もう遅い。そもそもこの屋敷にこの娘がいるなど完全に予想外である。



 侍女は胸元でぎゅっと拳を握りしめ、カナンを追い詰めるように一歩前へ進み出た。

「……あなたは、一体、誰なの?」

 その表情は険しく張り詰め、彼女がこれまでに何度も思い悩んできたことを伺わせる。二年も経てば、この少女もいつの間にか娘らしく成長したらしかった。薄らと記憶に残るものより大人びた顔立ちと口調で、彼女はじっとカナンを見つめる。


「ずっと気になっていたのよ。――ねえ、あのときあなたは、『早めに転職先を探した方が良い』、そう言ったわね。……あなたは真実が公になるより先に、ご主人様が王子様を殺したって既に知っていた。違う?」

「…………そんな真実は知らなかったな、ちっとも」

 カナンは目を眇めてしらばっくれた。嘘はついていない。けれど彼女は「嘘よ」と強い語気とともに首を振った。


「だって、ご主人様のこと転ばせて、軍がご主人様を逮捕する手助けをしたじゃない!」

「声が大きいよ、勘弁してくれ。ほら、これは返すから」

 身を乗り出した侍女に歩み寄って、カナンは木箱を彼女の胸に押しつけた。思わずといった風にそれを受け取って、彼女は「納得がいかないわ」と呟く。カナンは自由になった両腕を組みながら、少しの間、中空を睨んで思案した。どうやってこの女の口を塞いでやろうか。



「……君、名前は?」

 唐突な問いに、少女は面食らったように目を瞬き、それから小さな声で「シェルナ」と応じた。カナンは目を細めて嗤った。身を屈め、甘い声で語りかける。

「シェルナ。君がここで働けているということは、あのあとすぐに転職したのかな?」

 アジェンゼが処刑されて以後、彼の家が取り潰され、一族郎党が罪に問われたことは知っていた。恐らく大抵の使用人は紹介状もなく路頭を迷うことになったのではないだろうか。軍がそうしたところに気を回すとは思えない。


 シェルナは大きく目を見開き、それから「ええ」と低い声で頷く。

「でも、それとこれとは」

「関係ないって? とんだ恩知らずだな。俺の助言がなかったらこうはいかなかっただろう。言っておくが、俺にはあのとき、君にそんなことを教える義理なんて何ひとつとしてなかったんだよ」

 恩着せがましくそう告げると、シェルナは途方に暮れた顔をした。カナンはシェルナの抱える木箱に片腕を置き、その目の奥を覗き込む。

「君が今も弟たちを養えているのはどうしてだ? 君が厄介ごとに巻き込まれる前に転職できたのは何故だろうな」

 煽るように言えば、シェルナは唇を噛んだ。下唇が白くなる。


「……何をしろって言うの?」

 ぎこちなく吐き捨てたシェルナに、カナンは「聞き分けが良いのは良いことだ」と笑ってみせた。ぎゅっと肩を縮めたシェルナの一挙一動をつぶさに観察しながら、カナンは素早く計画を巡らせる。


「ここの家主が殺されたのは知っているね?」

「オルディウス様のこと? 殺されただなんて……持病の発作だって聞いたわ」

「まさか、そんなに都合良く人が死ぬもんか。俺が訊きたいのは、そのことに関して何か分からないかってことだけだ。簡単だろ」


 わざと強い言葉で問えば、面白いほどシェルナは萎縮した。怯えたように唇を噛んで顎を引きつつ、しかしその目は屈するものかとばかりにカナンを見返している。

「……恩返しを名目に、ご主人様のことを調べてこいって言いたいの?」

「それで君の気が済むならね。俺は別に命令している訳じゃない、ただ提案しているだけだよ」

 シェルナは一瞬泣き出しそうな顔をした。嫌だ、と言いたげな表情だったが、今更引き返すことを許されるとも思っていない顔だった。



「……分か、った」

 長い逡巡の末に渋々頷いたシェルナに、カナンは密やかに微笑む。自然と言葉が唇から転げ落ちた。

「――良い子だ」


 見下ろした視線の先で、シェルナは心底不本意だと言わんばかりに目を伏せていた。……引き結ばれたその口元の端に、安堵と僅かな喜悦の色が浮かんでいた。カナンは目を見開いた。自らの手のひらの上に、シェルナが乗ったのを確信したような気分だった。

 そのとき、首元の鈴が一度、嘲笑うように音を立てた。その音色で我に返る。……自らの言葉を反芻して、カナンは不快感と、僅かな吐き気を覚えた。


 それは、喉の奥でざらりと飲み下せない自己嫌悪がわだかまっているような。



 ***


 オルディウスが殺されて数日経ち、そのことが徐々に知れてきた城内は騒然としていた。カナンは厨房脇で芋の皮を剥きながら、顔見知りの料理人見習い、グエンと隣り合っていた。結構前から場内にいる気がするが、ちっとも見習いから昇格する気配がない。よほど才能がないのか、不真面目なのか。

 ……取りあえず、彼の性質が不謹慎であることは間違いなかった。


「なあなあ、王女様の婚約者が死んだってマジ? 何か聞いてないのかよ」

 カナンがエウラリカの奴隷であることを承知のグエンは、不届きにも楽しげに目を輝かせて身を乗り出す。カナンはわざとらしい仏頂面で「なんにも」と首を振った。むしろ何か噂が流れていないか聞きに来たのである。


 が、噂好きのグエンも、今回は何も知らないようだった。

「ええー、つまんねぇの」

 てらいもなくそんな暴言を吐いて、グエンは唇を尖らせる。こうした発言が何故か許されるような雰囲気が、この青年にはあった。グエンは剥いた芋を籠に放りながら、遠くを眺め、不思議そうに呟く。


「誰にやられたんだろうな」

「……それが分かれば苦労しないだろ」

 カナンはため息交じりに応じ、抉った芋の芽を投げ捨てた。事実、今のところオルディウスを殺害した人間に見当はつかず、何を手がかりにすれば良いか分からない状態であった。

 シェルナにはほとんど期待していない。ただ、自分のことを人に言い触らさなければ良い。そのために、形だけでも共犯者と思わせただけである。



 ふと気づくと、グエンがじっとこちらに視線を向けていた。そのことに気づいて、カナンは「何だ」と眉をひそめた。「いや」と彼は珍しく微笑んで、それから目を伏せた。

「一応、それなりに長い付き合いだからさ、あらかじめ言っておこうかと思って」

 そう前置いて、彼は苦笑する。黙って続きを待つカナンに、グエンは肩を竦めてみせた。


「俺、もうすぐここでの仕事をやめて、地元に帰ろうと思うんだ」


その言葉に、咄嗟に胸に浮かんだのは『代わりの情報源を探さねば』という考えだった。カナンは一瞬、完全に混乱する。

(……俺は今、何を考えた?)

 今更覆せない思考の動きに、カナンは思わず額に手を当てた。視界がぐるりと回った気がした。


「そうか、寂しくなるな」と口では言いながら、彼はこみ上げる吐き気を堪えていた。自己嫌悪に目眩がするようだった。

 喉元で鈴が鳴る。それを遮るように首輪を掴んでいた。

(くそ、)

 これではまるで、あの女のようじゃないか――。



 ***


「あら」

 ぐったりと項垂れるカナンの耳に、憎々しいその声が届く。ただその一言のみで誰の言葉が分かる自分も恨めしかった。

「どうしたの?」

 長椅子が沈む音で、その女が向かいに腰掛けたのが分かった。


「何かあったの?」

 エウラリカは静かな声で問う。その声に顔を上げれば、部屋の中は驚くほど暗くなっていた。一年のうちで、昼が最も短くなる時期が近づいている。薄暮時の薄ら闇に溶けるようにしながら、エウラリカは机を挟んだ反対側で、にこりともせずにカナンを見据えていた。


「上手くいかないことでもあった?」

「……別に、まだそういう段階じゃないでしょう」

「態度が悪いわよ」

 エウラリカは腕を組んで顎を上げ、高圧的にカナンを見下ろす。カナンはその眼差しを真っ向から受け止め、睨み返した。が、すぐに心が砕けて目を逸らす。



 俯いたまま、カナンは、小さな声で呟いた。

「……あなたは、周りにいる人間が、全て駒に見えるんですか」

「全てって訳じゃないわ」

 何を言いたいのか、と怪訝そうな顔で、エウラリカは曖昧に応じた。カナンは一度唾を飲み、おずおずと問う。

「――じゃあ、僕は?」

「ちょっと使いやすい駒」

 即答された短い言葉に、カナンは息を吐いた。これは自惚れでも何でもない事実だが、――今のエウラリカに、自分より近しい人間はいない。それでいて、自分でも『ちょっと使いやすい駒』程度である。


(この女は、誰のことも人として見ていないのだ)


 やり場のない感情がこみ上げ、カナンは前髪をぎゅっと強く掴んで呻いた。

「……誰かを、大切に思ったことは、ありますか」

 エウラリカの表情は変わらないままで、その唇からは「はい?」と静かな声が零れる。何も分かっていないようにとぼける素振りに、かっと頭が熱くなった。


「そんなんで、誰かを好きになったことがあるんですか? 誰かを愛することが出来るんですか?」

 矢継ぎ早に放った問いに、エウラリカはしばらく唇を引き結んだまま答えなかった。八つ当たりの自覚があったカナンは、その沈黙に口をつぐんで項垂れる。


 ややあって、彼女は冷え冷えとした声で告げた。

「どうしてそんなことをお前に語らねばならないの?」

 ぴしゃり、鋭く撥ねのけるような言葉だった。エウラリカが無表情でいることなんて日常茶飯事なはずなのに、今はその真顔が怖かった。


 首筋に刃を突きつけられたかのような心地だった。無感動な眼差しは、何より雄弁に告げていた。

 ――『少なくとも お前は 違う』。



「……お前は、」

 ややあって、エウラリカはため息交じりに吐き捨てた。

「優しいのね」

 それは嘲笑に聞こえた。それは言外に、そんなもの捨ててしまえと、そう言われているような気分だった。


 エウラリカについていくためには。彼女の側にいるためには……

 カナンは眉間に力を寄せ、奥歯を強く噛みしめた。


 ……他者への慈しみや哀れみなどを抱いている場合ではないのだ。誠実に生きることも、罪悪感を覚えることも、大切な人に恥じない生き方をすることも、そうやって自らの尊厳を守り通すことすら、きっと許されないのだろう。それがエウラリカと共にあるということである。


 ――たとえその向こうにどんな目的があろうとも、それが大義のためであろうとも、自身の手を汚さずして、綺麗な表層に立っていることは許されない。




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