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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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婚約騒動-前3



 既に日は落ち、向かう大広間からは既に多くの人間が集っているであろう喧噪が伝わってくる。宴会の途中に乱入するのはどうしてか、と聞いたことがあったが、ただ一言「趣味」とだけ答えられて終わった。

 そういう訳で、今回もまたエウラリカの趣味に付き合わされ、カナンは晩餐会の最中に会場へ飛び込む羽目になっていた。

(城内での立ち回りとか策略とか関係なしに、人前に出るのが普通に嫌なんだよな)


 カナンは念のため襟元を正したり髪を軽く整えるなどして、衆目に晒される覚悟を決める。末王子だったせいもあり、あまり人前で何かをするという経験には乏しかった。好き勝手に振る舞うエウラリカの後ろに立って真顔で控えているのを想像するだけで、胃が痛むような思いである。


 そわそわと身じろぎするカナンに、エウラリカは愉快そうに口角を上げた。

「あら、怖じ気づいてるの?」

「逆に訊きますが、よくもまあそう気楽に場をぶち壊しに出来ますね」

 カナンは恨みがましくエウラリカを睨む。エウラリカはカナンの文句などどこ吹く風で、「何も怖がることなんてないじゃない」と楽しげな笑みさえ浮かべていた。


 気づけば目の前には大広間へ続く扉がある。両脇に控えた兵士が、エウラリカの合図でゆっくりと扉を開いた。隙間が出来た瞬間、向こうから話し声が一気に流れ出る。きらびやかな照明が目に眩しい。

 エウラリカは揚々とそのかんばせをもたげ、艶然と微笑んだ。カナンはその背後に控えて目を伏せる。会場にいる人間たちがエウラリカに気づくより一瞬早く、彼女はくすりと笑い、唇をほとんど動かさずに囁いた。


「――だって、失うものなんて何もないもの」

 そして、エウラリカは天使もかくやとばかりに輝かしい笑みを浮かべ、大広間に歩み出た。



 カナンは会場に視線を走らせた。覚えのある顔をいくつか見つけ出し、身を屈める。

「右端、婚約絡みで僕に声をかけてきた官僚です。予定ではその隣にある扉から外に出る手筈です。左の机の端から五番目、ルージェン・ウォルテール。右手前方の机は第二王子の従者たちのはずです」

「なるほど」

 エウラリカは呟き、カナンの示した方向に目を走らせた。小さく笑って、そして彼女は不敵に頬を緩める。


 ふむ、とエウラリカの口から息が漏れた。

「これは私の予想なのだけれど」

 次第に集まってくる視線をものともせず、エウラリカは泰然と首を伸ばす。そうして姿勢を伸ばすと、いつにも増して大人びた風格が漂う気がした。会場がざわつく。


 すっと、その目が眇められた。

「ひょっとしたら、今回もルージェンが一枚噛んでいるかもしれないわね」

 その言葉に、カナンは瞬きをする。どうしてそのように断言できるのか。



 ルージェン・ウォルテールとは、帝国軍が擁する将軍――ロウダン・ウォルテールの、実兄である。城内で高級官僚として働く一方で、先のアジェンゼ大臣の件では別の官僚の後ろに立って糸を引いていた人物でもある。アジェンゼの横領を知っていながら、彼はそれを咎めることなく、逆に利用せんとしていた。

 カナンは視線を鋭くした。ルージェンのことをエウラリカが警戒しているのはそれが理由ではない。


『――第一王子を皇帝の座につけることは何としてでも阻止せねば』

 あの男は、明らかに、皇位につく人間を操作しようとしている。それはあるいは、エウラリカの手助けとなり得るかもしれないし、障害となるやもしれなかった。


 男の細面は油断なく引き締められ、鋭い眼差しはエウラリカを見据えている。エウラリカはその視線を受け止めることはせず、小さく肩を竦めた。

「ウォルテールの縁者じゃなければ、どうにでも始末できるのだけれど」

 今はまだ、ウォルテールを敵に回すのは避けたいのだ、とエウラリカは不満げに呟いて、そして歩調を速めた。



 大広間を横切るエウラリカを、誰もが目で追っている。まるで舐めるような視線に、カナンは思わず眉をひそめる。何とも居心地の悪い空気である。

 とはいえ、真の地獄はその直後だった。


 それまで、どこか悠然とした風格まで漂わせていたエウラリカの横顔が、不意に緩む。その視線の先を追えば、そこには相好を崩した皇帝の姿があった。

「おとうさま!」

 その声が響いた瞬間、カナンの胸を強烈な苛立ちが襲った。その感情の理由すら分からず、カナンは奥歯を噛みしめたまま、走り出したエウラリカを追った。


「エウラリカ、体調は治ったのか?」

「おとうさまに会うためなら這ってでも来るわ!」

 両手で皇帝の首に抱きついて、エウラリカは幸せそうに頬を緩めていた。カナンは表情を保ちつつも、やり場のないやるせなさに奥歯を噛みしめる。


 気に入らない。

 自分の主人が、人前で殊更に愚かに振る舞うことも、その主人に付き従う自分も、何をすることも出来ずに立ち尽くす自分も。何もかも気に入らなかった。

 エウラリカの一番良いところを知っているのは自分だけで良い。しかし、この女が、わざとこのような振る舞いを人に見せつけることはどうにも憤懣やるかたなかった。カナンにも底知れない深慮をその目に浮かべるこの主人が、大勢から嘲られ侮られることが、どうにも歯がゆくて仕方なかった。

 ――首輪を、つよく、握りしめる。



 エウラリカの席の後ろに回り、カナンは椅子を引いた。エウラリカは腰を下ろす間際、皇帝からするりと離れながら、そのいくつか隣にいた少年を、静かな眼差しで見据えた。

 冴えない栗毛の少年だ。どうにも垢抜けない様子で、態度もどこかおどおどとしている。

(これが、第二王子……)

 ユイン・クウェール。第一王子のラダーム亡き今、皇帝の血を引く唯一の男児である。そう思って見てみれば、その鼻筋や輪郭に、皇帝の面影を色濃く残しているように思える。


 エウラリカは子どもを睨みつけるでもなく、ただ凪いだ視線で見据えていた。びくりと肩を竦めたユインに、彼女は僅かに哀れむような顔をする。もっとも、眉根を寄せた表情は、ユインにとっては不快を示したものにしか見えなかったらしいが。


 顔を引きつらせたまま硬直するユインから目を逸らし、エウラリカは椅子に座った。片手で髪を払いのけ、『勝った』と言わんばかりの不遜な態度である。カナンも概ね同意だった。


 ――ユインは恐るるに足らない。





 晩餐会は恙なく進んだ。時間が進み、夜も深まった頃、カナンの背を一つの手が叩く。声をかけられるのは計画のうちだったので、振り返ってその顔を確認することはしなかった。

「――準備を」

 それだけ囁かれたカナンは、さりげない仕草で頷く。気配が素早く離れ、カナンはそっと身を屈めてエウラリカの耳元に口を寄せた。


「時間です。……遊びに行きましょう」

 薄ら笑いを浮かべて告げれば、エウラリカはわざとらしい仕草で喜びを表現した。目を輝かせたエウラリカの表情など、正面から見ることは滅多にない。嘘くささに失笑すると、エウラリカは一瞬むっとしたような顔をした。



 手筈通り、エウラリカを人目につかないように誘導し、カナンは扉の前で待ち構えるネティヤと視線を合わせた。ネティヤは満足げに頷きつつ、多少の驚きを湛えた表情でエウラリカをちらちらと見ている。直視すれば目が潰れるとでも思っているのか、決してエウラリカをしっかりと視界に収めようとしない。

 その場では話しかけることはしない。ただ偶然そこに立っていた官僚の前を通っただけのような素振りである。そのままカナンとエウラリカは扉をくぐり、大広間から夜の庭へと繰り出そうとした。


 そのとき、ネティヤの瞳に浮かんだ強い感情に、カナンは密かに息を飲んだ。それは嫉妬のような、羨望のような、憎悪のような、……ひりつくように焦がれた感情だった。

 その視線にエウラリカは気づかない様子で、素知らぬ顔をしている。


 刹那、エウラリカがすれ違いざま、はっきりとネティヤを見据えた。

「……どうしたの? 苦しそうな顔ね」

 全てを見透かすみたいな、透明な眼差しだった。エウラリカの視線を真っ向から受け止めてしまったネティヤはぎょっとしたように目を瞬かせ、そして「いえ」と顔を伏せた。

「何でもございません」

「そう? それなら良いけど」

 エウラリカは微笑みを湛えたまま、ネティヤから顔を逸らす。


「――あなたが幸せになれるように願っておくわ」


 ちっとも思っていないような顔で、エウラリカはカナンを追い越し、真っ先に外へと足を進めた。くるりとその場で回転し、にこりと華やかな笑みを浮かべてみせる。

「それで、そのお花っていうのはどこにあるの?」

 無邪気そのものの姿をして、エウラリカは問うた。どうやら、これは庭の花を見に行くという体を取ることにしたらしい。




 その場でエウラリカは再度、踊るように回転した。そうして軽やかな足取りで、庭の暗がりへと滑り込んでゆく。まるで怖れのない仕草であった。それを追うように、カナンも足を踏み出す。

 大広間を去り、庭へと入ってゆく間際のことだった。きらびやかな大広間の明かりに慣れた目では、もはやエウラリカの小さな背中を捉えることは出来ない。急ごう、とカナンは短く息を吐いて、前へ乗り出した。


 刹那、こほん、と、小さな物音が前方から届く。耳に入ったのはエウラリカの咳払いである。


「……っ!」


 カナンは鋭く息を飲んだ。指先が痛いほどに首輪を強く握りしめた。――その、僅かな一呼吸が。エウラリカの一瞬の息の溜めと解放が、カナンに驚くほどの緊張感をもたらしていた。

 神経を張り詰めさせてその場に立ち尽くしたカナンは、周囲に耳を澄ませ、身動きを取ることなく視界を端々まで見渡し、そうして、ゆっくりと、振り返る。それは焦れるほどに緩慢な動きに思えた。あるいはそれはカナンの集中によるものだったかもしれない。



 肩越しに振り返った先にあるのは、当然のごとく絢爛豪華な大広間である。その前方では皇帝が立ち上がり、何やら話を始めようとしているところだった。誰もが皇帝を見ていた。一体何の話が始まるのだろうと固唾を飲み、その一言一句を漏らすまいとしているようだった。


 その、中に、ただひとりだけ。ただ一人だけ、皇帝を見ていない者がいた。皇帝には目もくれず、姿勢を保ったままでいる男がいた。彼は真っ直ぐに庭を見据えていた。エウラリカたちが今しがた出てきた扉を、ひいてはその側に立ち尽くしたカナンを、射貫くようにして正視していた。


 その姿を見咎めた瞬間、カナンの背筋を耐えがたい怖気が走り抜ける。その名を心中で呟く。

(……ルージェン・ウォルテール)

 彼は、明らかに、こちらを見ていた。エウラリカの行く先を凝視していた。それは監視と言っても差し支えのないような眼差しだった。どうして大広間を出たのかと訝しむような表情ではない。


 カナンは一瞬のうちに悟る。根拠のない直感であった。けれどそれは圧倒的な予感を伴って耳元に囁きかける。


 ――ルージェンは明らかに、エウラリカの動向を把握している。



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