婚約騒動-前2
エウラリカとその婚約者の顔合わせとして指定された期日は、第二王子ユインが入城する、まさにその日だった。
(エウラリカの狙い通り、皇帝の権威は失墜し、官僚の言う通りに第二王子が帝都に入ることになった)
褒めるべきことではないが、直接的に何かした訳でもないのに、よくもまあ状勢を思うままに動かせたものである。カナンは呆れ果ててため息をつく。
表向き、エウラリカはユインの入城に対して強固に反対していることになっている。実際のところどう思っているのかは判然としないが、この辺りの設定を忘れないようにせねばとカナンは気を引き締めた。
カナンは城門の方へと歩いて行きながら、ふととある後ろ姿を見つけて足を止めた。柱の陰に隠れるようにして様子を窺っている男である。カナンは周囲に視線を配り、柔らかい微笑みを作ってから、口を開いた。
「ウォルテール将軍、」
「お、どうした?」
一歩歩み寄って声をかけると、ウォルテールは振り返って笑顔を浮かべる。ここ最近はエウラリカの婚約に関することや、その他エウラリカが注力している事案に関することでこき使われ、軍部に顔を出す暇がなかった。ウォルテールと顔を合わせるのも一週間ぶりくらいだろうか。
「もうじき、ユイン様が到着される頃かと思いまして」
言いつつ、カナンはウォルテールの隣に立って城門の方に視線をやる。城門の前にある広場には大勢の群衆が詰めかけ、ほとんどお祭り騒ぎの様相を呈していた。城外に住む帝都の住人たちが、入城する第二王子を歓迎しているのだ。
城内で起こる様々な事柄は、城外にはあまり伝わっていない。それが、城壁の内外を何度か行き来した際の感覚だった。エウラリカが城内で愚鈍な姫君とされていることも知らなければ、皇帝と官僚たちの関係が悪化していることも知らされていないのだ。
(可哀想なものだな)
初めて帝都に来たのがはるか昔のことのようだ。捕虜として家畜のように繋がれ、馬車に乗せられて見世物のごとく帝都の中を引き回されたときのことを思い出す。
あのとき確かに覚えたはずの敗北感や畏怖、圧倒的な力の前に為す術なく項垂れるやるせなさは、帝都の実情を知るうちに、いつの間にか別の感情に変わっていた。無論、当時よりも状況が悪化しているせいもあるのだろう。それにしても、帝都は思っていたよりも狭く、矮小な土地であるように感じられた。
気づけば、カナンが帝都に来て、もう三年ほどが経とうとしている。
ウォルテールは腕を組んだままカナンを振り返った。
「エウラリカ様の調子はどうだ、カナン」
その言葉に、カナンは「んー……」と間を置いて考える。恐らく話の流れからして、ユインの入城を受けてエウラリカがどう思っているかということだろう。エウラリカは表向きユインが帝都に入ることに強固に反対する素振りを見せていた。が、いざ皇帝が官僚の言い分に押し負けてユインの入城が決まったら、やることは終わったと言わんばかりにけろりとしているのである。
(とは言えないし)
カナンは遠い目をしてから、肩を竦めた。
「すっかりお拗ねになってしまって、部屋から出ていらっしゃいません」
「そうか」
ウォルテールは苦笑して頷いた。何も怪しんでいない様子の表情に内心でため息をつく。
「晩餐会には出られそうか?」
「どうでしょう、何せ色々あって、大層ご機嫌を損ねてしまっているので……。俺も何とか宥めてはみますが」
息をするように嘘をつきながら、カナンは薄らと笑った。エウラリカは今宵の晩餐会に必ず参加する手筈である。
今夜に待つ『逢瀬』を思い浮かべて、カナンは鼻先で息を漏らす。ウォルテールは少しの間黙ってから、柔らかい微笑みでカナンを振り返った。
「もしもエウラリカ様が出席されないとしても、参加したければ俺に言えば良い。席の一つや二つくらいなら工面してやる」
その言葉が咄嗟に理解できず、カナンは数度瞬きを繰り返した。席を用意する? その意味を何度か反芻してから、カナンは思わず頬を緩めた。
「……いえ、お気遣い頂きありがたいですが、」
この男は、エウラリカなしでも自分を一人の人間として扱おうとしてくれているのだ。そのことに気づいて、驚きと呆れ、ほんの少しの面はゆさを覚える。エウラリカと面識がある人間の中で、カナンを見ている者は驚くほど少なかった。カナンは声を出さないまでも息を漏らして笑った。
(俺はこの人を大事にした方が良いかもしれない。エウラリカの言う『手駒』なんかじゃなくて)
カナンはウォルテールを見上げ、ゆっくりと首を振った。どこまでも有り難い申し出ではあったが、それに甘える訳にはいかない事情があった。
「俺は一人でそうした場へ出るつもりはありません。俺はあくまでも、いち従者ですから」
カナンが今ここでエウラリカと離れて人前に出ることは避けたいのである。――自分とエウラリカは二人で一つなのだ、そう印象づけたい相手がいる。
(この人が分かってくれてるんならそれで良い)
そう胸の内で唱えて、カナンは彼方の空に視線を投げながら、ゆっくりと微笑んだ。しかし「カナン」と呼ばれて視線を向けると、ウォルテールは何故か哀しげな目をしている。一体何を考えてそんな顔をしているのか。カナンは思わず身構えた。
「お前は……」
「何でしょう」
言葉に詰まって立ち尽くすウォルテールを促すと、彼は一瞬、驚くほど明確な哀れみをその目に浮かべた。あまりに明け透けな感情に、カナンは思わず冷めたような気持ちを抱えて眉を持ち上げた。
(そういうところがちょっと玉に瑕だよな)
そこが良いところと言えば、そうなのかもしれないけれど。
ウォルテールは空気を変えようとするように一度息を吐いた。
「お前は、エウラリカ様に仕えていて、不満などはないのか? ……何しろ手のかかるお方だろう」
「いいえ。確かに大変なことはありますが、不満などは」
「何故だ? ……言っては何だが、エウラリカ様が主君として優れているとはあまり思えないぞ」
心配そうというべきか、懐疑的というべきか。とにかく不審げな様子のウォルテールを横目で見ながら、カナンは笑みが堪えきれないのを感じた。持ち上がってしまった唇の端を隠すように片手を挙げる。しゃらりと小さく鳴ったのはエウラリカと揃いの鍵――腕輪である。
くつくつと喉の奥で笑いを噛み殺しながら、カナンは愉悦に満ちた声で告げた。
「――俺にしか見せない姿ってのが、あるんですよ」
それは例えば理知的な声と言葉だったり、存外行儀の悪い足だったり、嘲るみたいにつり上がった唇だったり、流れるように文字を綴り本を操り鮮やかに動く指先だったりした。
来たる晩餐会の裏で、エウラリカとその伴侶候補の逢瀬の準備は整った。あとは、エウラリカ全面協力のもと行われるこの計画を、二人がかりでぶち壊しにするのみである。
自室か温室か、どうせそこら辺で待っているであろうエウラリカの姿を思い描いた。その挑戦的な瞳が、真っ直ぐに自分を見つめて笑う様が浮かぶ。
(他の奴らになんて教えてやるものか。……今のところは)
エウラリカの一番良いところは、自分だけが知っていればいい。
***
「あら」
部屋に入ると、顔を上げたエウラリカがカナンを振り返った。その両手には青々とした葉と、鈍い色を放つ小刀がある。
「どうしたの? ご機嫌そうじゃない」
「別に、そうでもありませんが」
カナンはため息をつきながら後ろ手に扉を閉めた。
「またその葉っぱで遊んでいるんですか」
カナンの言葉に、エウラリカは二人きりのときには珍しく、「うふふ」と可愛らしい笑い声を漏らした。頬に手を当て、葉柄を指先で摘まんでは、うきうきと葉を回して眺めている。ご機嫌なのはそっちじゃないか。カナンはやれやれと肩を竦めた。
「トルトセアは依存性があるということですが、……ひょっとしてキメてしまわれたとか?」
「そんなに興味があるなら、寝ているお前の鼻先で嗅がせてやるわよ」
嫌味を言えばすぐさま目を眇め、エウラリカはカナンを睨みつけた。この手の脅しは散々言われてきたが、今のところエウラリカが実行に移したのはその一割程度である。……エウラリカがこれを実際に行うことはないだろう。
「この間読んだ本に、トルトセアから作る面白い毒の話が載っていたのよ。それが気になって」
「作ってみよう、と?」
「ええ。でも登場するのはたいてい伝承や民話の類だから、詳しい材料も、どうやって作っていたのかも分からないのよね。地域は確か帝国南部だったかしら? 何らかの儀式に使われていたとかいないとか……。この『月の雫』というのは何の比喩なのかしら。あちらの地方に生えている植物……?」
エウラリカは表情を変え、楽しげに語りながら葉を眺めている。ご機嫌なのに間違いはなかったようだ。
カナンは日の高さを確認し、まだ時間があることを確認する。上着を脱いでエウラリカの向かいに腰掛けると、彼女は視線だけでそれを確認したようだった。
「この間、僕が回収してきた代物はどうでしたか」
「とんでもない粗悪品。驚いたわ」
言いつつ、エウラリカは傍らに置いてあった薬包紙を引き寄せて鼻を鳴らした。その形には見覚えがある。数日前、カナンが夜の帝都で売人から没収してきたものだ。
盗み聞いた商談を思い返しながら、カナンは膝に肘を置いて身を乗り出す。
「子どもと引き換えにしようとしていたみたいですが」
「ああ……。子どもをどうするつもりなのか知らないけど、ボロもうけね。ここに入っている刻み葉の中に、トルトセアなんて一割もないわよ」
「一割?」
「ほとんど香草と、あと煙が出やすい草。ゴミね」
エウラリカは薬包紙を指先で弾いてカナンの前に滑らせた。「大した効果なんてないわよ、興味がおありなら吸ってみれば?」と、その口調はあからさまに小馬鹿にしている。
カナンは腕を組み、小さくため息をついた。
「嫌ですよ。純度は低くても一応、依存性のある違法薬物なんでしょう?」
「前に人から貰った煙管があるわよ、持ってきてやるわ。あ、それとも皿に乗せて火を付けたい派?」
「あの手この手で吸わせようとしないでください。吸いませんからね」
断固として首を振ると、エウラリカは「あはは」と声を上げて笑う。どうやら戯れていたらしい。本気だかそうでないんだか分かりにくいのが、この主人の沢山ある欠点の一つだった。
「さて」と立ち上がったエウラリカが、紫紺の外套を羽織って微笑んだ。
「私の婚約者とやらが城に来るのは、今晩だったかしら?」
「はい。晩餐会の途中に顔合わせをするので、上手く誘導するようにと言われています」
「それなら今日は誘導されてあげるわ。感謝して頂戴」
つんと顎をもたげて語る姿に、不安げな様子は一切見られない。昂然と顔を上げた横顔を数秒眺めて、カナンは「はい」と頷いた。エウラリカは横目でカナンを見て、眉をぴくりと跳ね上げる。恩着せがましい言い方に反応を示さないのが面白くなかったらしい。
エウラリカは居住まいを正し、鏡をちらと見やる。一点の曇りもなく美しい女の姿が、その頭の先から爪先まで映っていた。微笑めば馬鹿みたいに甘ったるく可愛らしい、その顔を歪めて、エウラリカが鼻先でせせら笑う。
「お前は年々つまらなくなるわね。初めの頃の憎悪と野心はどこに行ったのかしら? 私、腑抜けは好きじゃないの」
「お言葉ですが、この数年ですっかり平和ボケされたのでは? 隠された牙には気づけないご様子であらせられる」
カナンはエウラリカに追従するように立ち上がりながら、微笑みを絶やさずに反駁した。鏡越しに視線を合わせて、エウラリカは一瞬だけ意外そうに大きな目を丸くする。平静より僅かに幼げな表情を見せたエウラリカは、しかしすぐにその眼差しを冷ややかに鋭くした。
「案じて下さってどうもありがとう。そうね、確かに、最近はちょっと気持ちが緩んでいたかもしれないわ」
口ではそう言いつつ、その視線に感謝の色は一欠片も込められていない。カナンは薄ら笑いを浮かべて肩を竦めた。自らの上着を回収しつつ、エウラリカの背後に近づく。エウラリカが口元に嘘くさい笑みを湛える、鏡越しにそれを目視した直後のことだった。
「――まずは手始めに、生意気な奴隷を始末することから始めようかしら」
言い終えるより早く、エウラリカは目にも留まらぬ速さで振り返った。咄嗟に足を止めたカナンの首筋に、ひやりとした金属が添えられる。それに気づいた瞬間、カナンは背筋を凍らせた。
「良いこと。お前がどんなに口先で悪態をつこうと、反抗的な態度を示そうと、私は別にそんな細かいことで怒り狂いやしないわ。それを私の甘さだとお前が考えるのだって勝手よ、でもね」
片手で柄を握り、反対の掌底を尻に添え、鋭く尖った針先を首筋に突きつけて、エウラリカは真っ直ぐにカナンを見据えていた。
「覚えておきなさい。お前にまつわるあらゆる進退も生殺与奪も、すべては私の采配によるものだと。お前が私の奴隷である限り、お前の四肢も首も指先も、その毛の一本に至るまで、その言葉の始めから終わりまで、口を開く前のただ一瞬の呼吸でさえ、お前自身のものなどひとつとして存在しない」
それは、普段に輪をかけて凄みのある口調であった。ひたりと据えられた視線が、底知れぬ双眸が、形にならぬ激情を沈めてさざ波を打つ。
エウラリカは低く囁いた。
「――どれだけお前がさも私を支配したかに見えたとしても、私は決してお前の手の中に落ちることはない」
恐ろしいほどに整った顔が、目の前に迫っていた。揺らぎなくカナンの目の底を射貫く眼差しには、何の感情もこもっていない。怒りも期待もない、一切の興味を排除した双眸で、少女は奴隷を正視していた。
「私に期待をするな。よもや私を手に入れられるなどという幻想を抱くな。さもなくば」
錐のように尖った視線だった。カナンは息をつくことも出来ぬままに立ち尽くす。ひりひりと皮膚が痺れるような緊張だった。エウラリカの纏う空気はどこまでも張り詰め、他者を寄せ付けまいとするように凍り付いていた。
「――分かるわね?」
「あ……」
掠れた声を漏らしたカナンに、エウラリカは突如としてにこりと微笑みかける。一度の瞬きのうちに氷が溶け、花がその蕾を綻ばせたかのような豹変だった。
「分をわきまえる子は嫌いじゃないわ。お前が私の従順な僕である限り、お前にはうんと優しくしてあげる」
針を引っ込めながら、エウラリカはその目元を和らげながら囁く。甘やかすように「良い子ね」と告げる。
さらりと長い金髪が肩から落ちた。それはまるで、蜂蜜を垂らしたみたいにゆっくりとした動きに見えた。碧を含んだ両目の色ばかりが、鮮烈に印象に残っていた。
「さ、行くわよ。私の『婚約者さま』とやらが気になるもの」
くるりとエウラリカはその場で踵を返して歩き出す。一体どんな人間を連れてきたのかしら、と楽しげに呟くエウラリカの後ろ姿を眺めながら、カナンは暴れ狂う心の臓を胸の上から抑えつけた。
奥歯を強く噛みしめた。
(……薬よりよほど質が悪い)
首元で鈴が鳴っていた。それは嘲笑うような音にも聞こえたし、あるいは啜り泣くような吐息にも聞こえた。それをねじ伏せるように鈴ごと首輪を握り込んで、そしてカナンは鋭い目遣いで、先を行くエウラリカの輪郭を睨みつけた。




