婚約騒動-前1
それは、季節が一巡したのちの、ある秋の夜のことだった。
「……はやく、はやく『あれ』をよこせ……!」
「そう焦るものじゃないよ、まったく」
帝都の闇の中に声が二つ。暦の上では満ちているはずの月は、今は厚い雲の上にその姿を消していた。
「それにしても、恐ろしいものだね。品行方正で名高いお貴族様も、一度手を出してしまえばこのザマか」
「おい、さっさとしろ!」
「まあまあ、そう大きな声を出すなよ。声より先に出すべきものがあるだろ?」
狭い路地裏で、二つの声は問答を繰り返す。石畳に金貨が落ちて跳ねた。どうしてこう金の音というのは蠱惑的に耳をくすぐるのだろう。男は頬の端をつり上げた。
「まったく、手が震えているのか? 仕方ないな……と、ふむ。どうやら、これでは足りないようだ」
足下に転がった金貨を拾い上げ、指先でくるくるとひっくり返しながらせせら笑う。彼の目の前では、乱れた服を直すこともなく、血走った目をぎらぎらとさせる男がいた。
「ど……どういうことだ! 普段ならこれだけ払えば、」
「教養がおありのお貴族様なら分かるだろ。こいつを欲しいと思う人間が一気に増えて品薄になったら、値段は上がるんだ。俺たちだって慈善事業でやってる訳じゃないんだぜ」
一つの声は笑い、もう一つは苦悶の声を上げた。
「ただ、俺としても、これまで長く取引を続けて来たあんたをここで見放すのは心苦しい。だからどうだ、別の案を出そうじゃないか」
「分かった、何でも飲む、だから早く――」
その返答に、相対する男が頬を緩めたのを見た者は誰もいない。
「簡単な話だ」
その懐に手を差し入れ、畳まれた薬包紙を取り出し、身もだえる男の鼻先に差し出した。
「あんたの子どもを連れてきな。――『傾国の乙女』が欲しけりゃね」
その言葉を聞く者は誰もいない。……そう思われた。
「楽しそうな密談のところ申し訳ないが、その名前が出たら聞き流す訳にはいかないな」
それまで気配のしなかった空間から、不意に静かな声がした。掲げていた薬包紙が、誰もいないと思われた背後から取り上げられる。空になった手を振り上げながら、男は血相を変えた。
「なッ……誰だ、貴様!」
「悪いが、そういうのは明かせないんだ。主人の方針でね」
薬包紙をしまいながら、現れた三人目は飄々と告げた。皮肉気に歪められた唇が弧を描く。その目が、頭を抱えて呻いている貴族に向いた。男は事態が飲み込めないまま、求める薬の名前をうわごとのように繰り返している。それを見て、三人目は小さなため息を漏らした。
「なあ、子どもを巻き込むなんて馬鹿な真似はよせよ。もし良ければここに行きな。専門医……あー、いや、もっと良い薬をくれる奴がいるところだ」
放った紙片を受け取ると、貴族の男はあたふたとその場を立ち去った。残された二人は無言でその後ろ姿を見送る。
「それで、売人のお前は……」
それから彼はもう一人に視線を移した。警戒の色をありありと表した男を睨み据え、冷ややかな口調で「……お前は救いようがないな」と呟く。
「それはこっちの台詞だ。さっさとその薬を返しな。それとも坊やは痛い目を見なきゃ分からないかな?」
小馬鹿にするような口調だった。その言葉通り、現れたのはまだ年若の青年である。『坊や』と揶揄された彼は、一瞬不快そうに眉をしかめると腕を組む。
「その坊やに背後を取られた気分はどうだ?」
「おいおい、調子に乗るのはいい加減にした方が良いぞ」
言いながら、男は腰のベルトに装着した短剣に手を伸ばそうとした。
その瞬間、手の甲に鋭い痛みが走った。
「坊や相手に剣を出すなんて物騒だな、しまえよ」
青年が嘲笑った直後、風が吹き抜けた。頭上の曇天が割れた。月が見えた。落ちた光は筋となって降り注ぐ。
月光を受けて、青年は静かに微笑んでいた。その手には細身の長剣が握られ、剣先からは僅かに液体が滴っている。浅く切り裂かれた手の甲を押さえながら、男は勝ち目がないことを悟る。間合いの違いもあるが、何より決め手となったのはその眼差しだった。
黒い目が、真っ直ぐに自分を見据えていた。その目の強いことと言ったらなかった。逃げねば、と本能が告げていた。男は迫った危機に鼓動が早鐘を打つのを感じながら、青年が口を開くのを注視する。彼はあくまで落ち着いた声で問うた。
「一応訊いておくが、お前の背後で糸を引いているのは何者だ? そのように大規模な密売を組織している人間は誰だ」
「……言える訳ないだろ?」
「それなら去れ。俺だって人殺しは勘弁だからな」
長剣を軽く振って血を飛ばし、そして青年は涼しげな目元を眇めた。じり、と知らず知らずのうちに片足が後退していた。
「……お前は、誰だ」
同じ問いを二度繰り返していた。得体の知れない青年だった。一体どうして、何のために、ここに現れ、そして薬物を奪ったのか。とてもではないが、本人が『それ』の常習者であるとは思えなかった。
『それ』とはすなわち、現在、帝都の中で徐々に蔓延しつつある薬物――傾国の乙女である。甘美な体験で数多の人間を引き寄せ、廃人を山のごとく生産し、果てに国を滅ぼすと言われている代物だ。
「さあな」と青年は笑った。男はゆっくりと後退し、青年から距離を取ろうとする。青年は笑みを深めた。人を食ったような態度で、彼は吐き捨てる。
「――ひょっとしたらどこかの王子様かもしれないし、あるいは誰かの奴隷かもしれないな」
まともに答える気のない青年の返答を聞いてから、男はくるりと踵を返して逃げ出した。
月明かりを受けて艶めく黒髪が、いやに記憶に焼き付いていた。
***
訓練所からエウラリカの部屋へ帰ろうというときだった。たまたま道が同じになった友人と並んで歩きながら、カナンは睡魔に襲われていた。
ふぁ、と欠伸を噛み殺すと、「寝不足か?」とノイルズが苦笑した。カナンは涙の浮かんだ目元を拭いながら頷く。
「昨夜は寝るのが遅くなって」
カナンはぼそぼそと言い訳がましく呟いた。昨日の晩は、エウラリカに言いつけられて帝都を見て回っていたのである。たまたま昨日は収穫があったせいで、いつもより睡眠時間が短くなってしまった。
傾国の乙女、そうした隠語で呼ばれる薬物に関する調査は、依然として雲を掴むようだった。売人たちがどこを拠点に活動を行っているのか、薬物そのものはどこから供給されているのか。そうした諸々を掴みきれないままに、この件を調べはじめて二年が経過していた。……その間にも、薬物は明らかに帝都に蔓延し続けている。
焦りに腹の底を炙られるような心地がした。カナンが辛うじて平静を保っているのは、エウラリカが何度も繰り返し『焦るな、落ち着いてやれ』と言い聞かせてくるからであった。
(……帝都で子どもが消えている。その原因は恐らく、薬物を売り渡す連中が、薬を求める人間に子どもを差し出すよう要求しているためだろう)
宮殿までその話は伝わってきていないが、市井ではそれは有名な話だった。道行く子どもが忽然と姿を消し、以来見つかることがない。
(この件を早く解決しなければ、更に被害が広がる)
エウラリカが今のところ薬物を撲滅する方向に舵を切っているのは幸いだった。カナン自身の主義と反さないで済む。
(取りあえず、今できることをするしかないか)
内心でため息をついて、カナンは頭を掻いた。
曲がり角に差し掛かったところで、ノイルズが「じゃあな」と片手を挙げる。
「バーシェルが会いたがってたから、見かけたら声をかけてやれよ」
「あいつは城外警備だろ? なかなか会う機会がなくて」
「まあそうなんだが」
カナンと同期の訓練兵たちは、既に訓練期間を終え、新兵として城内外の様々な場所に配置されていた。城内の警備に配属されたノイルズや、城内でエウラリカの下僕としてこき使われるカナンとは違って、バーシェルは帝都の警邏として配属されていた。
配属が決定した直後、散々文句を垂れていたバーシェルを思い出して、カナンは思わず苦笑する。「まあ、もし見かけたらな」と肩を竦めると、軽く片手を持ち上げた。
ノイルズと別れて少しした頃だった。
「――エウラリカ様の侍従というのは君だね?」
廊下で見知らぬ女に呼び止められ、カナンは困惑しつつ「はい」と頷いた。わざわざ嘘をつく謂われはない。
カナンは立ち止まり、体ごと振り返る。訓練終わり、首を伝う汗をさりげなく手の甲で拭いながら、カナンは「何でしょうか」と女と目線を合わせる。背の高い女だった。装束からして、それなりの地位に就いている官僚だろう。
折しも廊下には誰もおらず、窓から吹き込む風の音がするばかりである。暑さの抜けた風が汗ばんだ肌を通り過ぎた。もう秋である。窓の外の庭では、落葉樹が次第に丸裸になりつつあった。汗が引いてぞわりとするような感触を覚えながら、カナンは女を見つめ返す。
「そう怪訝そうな顔をしないでくれ、取って食おうという訳ではないんだ」
眉をひそめるカナンに呵々と笑うと、女は「ネティヤだ」と名乗った。カナンはその名を小さな声で繰り返して、記憶を浚う。特に思い当たる節はない。
ネティヤは快活な調子で話を続ける。
「君は? 恐らく東の方の出だとは思うが」
「カナンと申します」
「良い名だ。地元にいる私の甥御と同じ名前だな。ウディルの出身か?」
「いえ、」
「そうか。まあ、どちらにせよ東の周辺だろう」
口のよく回る女である。言い終わるより前に言葉の尻を掬い上げて口火を切るネティヤに、カナンは目を白黒させた。
黒髪の官僚を見るのは初めてだった。顔立ちからしても、明らかに生粋の帝国民ではないだろう。口ぶりからして、東の出身だろうか?
細身で、どこか狡猾さを感じさせる立ち姿である。吊り目気味の目が緩められた。
「まあそんな些事はどうでも良い。わざわざ呼び止めたのには、君に折り入って頼みがあるからなんだ」
完全にネティヤの調子に乗せられてしまった。もはや話半分に切り上げて逃げることも出来なさそうだ。カナンはちらと日の高さを確認する。このあとはエウラリカに用事を言いつかっているが、……まあ、大丈夫だろう。
「何でしょうか」と応じたカナンに、ネティヤは「ありがとう」と破顔した。
「その頼みというのが、エウラリカ様についてのことでね」
突如として切り出された話題に、カナンは一瞬だけ体を強ばらせる。気取られるほどあからさまな反応はしなかったと思ったが、ネティヤは頬の端で軽く笑った。「そう身構えずとも、君のご主人様にとっても悪い話じゃない」と肩を竦める。
いまいち進まない話に、カナンは眉をひそめて先を促した。
「……それで、そのお話というのは?」
「迂遠な会話は嫌いかな? どうやら気が合わないみたいだ」
ネティヤは揶揄するように目を眇めてから、一歩カナンに近づく。ふわり、と香を焚きしめたような香りが鼻腔をついた。カナンは身じろぎせずにネティヤを見据える。
ほとんど触れんばかりに顔を寄せ、ネティヤは低い声で囁いた。
「エウラリカ様の輿入れに関する話が進んでいる。君にはそれに協力して欲しい」
「……輿入れ?」
カナンは眉をひそめる。ネティヤは目を細めて笑った。そうした表情をすると、何だか狐のような雰囲気になる女だった。
「エウラリカ様が、他の家へ嫁ぐんだ。その意味は分かるだろう?」
「降嫁する、と? そのようなことが、いち官僚の計画で成るはずが」
「成るんだよ、それが。――良いかい、この件は皇帝陛下も承知の上だ。ただの絵空事じゃない」
カナンは無言のまま、大きく目を見開いた。皇帝を抱き込んで進む、エウラリカの結婚話。それが意味することは単純だ。
(……皇帝が、落ちた)
官僚たちと皇帝が、第二王子の進退に関することで反目しているのは、周知の事実だった。皇帝の背後にあるのはエウラリカの要求である。
(エウラリカを城外に追いやる。すなわちそれは、交代でユインが宮殿に入ることを意味する)
今、自分は、非常に重要なことを耳にしている。カナンは奥歯を噛みしめ、唾を飲み込んだ。
「なあ、分かるだろ、少年。協力してくれるな? 君のことだって悪くはしないさ。何なら君を官僚に取り立ててやっても良い。それなりの手順は必要だがな」
ネティヤが囁く。ごくごく潜めた声に、これが外に漏らしてはならぬ話であると嫌でも教えられる。カナンは小さな声で「考えさせて下さい」と呟いた。――どうやら自分は、何かに巻き込まれつつあるらしい。
「良い子だ」
この女に言われても、ちっとも心に響かない。カナンは目を伏せたまま「いえ」と言葉少なに応じる。
「言わずとも分かっているとは思うが、この件は他言無用だ。――無論、君の主人に対してもだ。良いね?」
「かしこまりました」
カナンは頭を下げ、ネティヤが上機嫌で歩き去っていくまで、磨き抜かれた床をじっと見つめていた。
この話を最も気取られてはならないのは、恐らくはエウラリカその人なのだろう。
「私の結婚? ああ、地方出身の官僚たちが進めている話ね」
「……既にご存知でしたか」
「まあ、その程度のことなら」
当然のような顔をして頷いたエウラリカに、カナンは思わずため息をついた。エウラリカは長椅子の上で行儀悪く胡座をかき、複数の本を足の上に乗せて開いている。
「つまり、お前のところにその話が行ったのね? せっかくだから受けておきなさいよ」
「え? 結婚するんですか」
カナンが目を見開くと、エウラリカは半目になった。呆れ果てたような表情に、カナンは居心地悪くその場で身じろぎをする。
「私、お前には結構分かりやすく、逐一計画を説明していたと思うのだけれど」
「……すみません」
カナンは目を逸らした。エウラリカは鼻を鳴らし、簡単に括り上げていた髪を解く。
「潜り込んで情報を掴んできなさいって言ってるの。……その意味は分かるでしょ?」
柔らかな金髪に手櫛を通しながら、エウラリカは肩越しにカナンを振り返った。ゆるりとその双眸が和らげられる。
「この話を崩すための穴を探してきなさい。――私を結婚させたくなかったらね」
蠱惑的な微笑みと共に、エウラリカは楽しげに囁いた。すらりと伸びた白い指先が柔らかい唇に触れ、その口元は艶然と弧を描いた。ここ数年で妙な色気を身につけやがった、とカナンは内心で毒づく。
「……もし僕が動くとしても、別にそんな理由は関係ありません」
唸るように吐き捨てると、エウラリカは目を眇めた。その両腕が持ち上がり、髪をくるりとまとめて結い上げた。白々とした細い首筋を見下ろしながら、カナンはゆっくりと呼吸をする。
エウラリカは呆れたような吐息とともに、ひらりと片手を掲げて苦笑した。
「ちゃんと出来たらご褒美をあげるわ」
カナンは文句を収めるように唇を噛み、「分かりました」と頷いた。
***
協力する旨を伝えると、ネティヤは満足げに微笑んだ。
「君なら分かってくれると思っていた」と告げられた言葉に、カナンは苦笑する。実のところは、一番悟られてはならない標的に言いつかってカナンはここにいるのである。
薄暗い裏庭の隅、人目を避けるようにカナンとネティヤは向かい合っていた。建物の壁際に立っているため、風が吹くたびに落ち葉の吹き溜まりがひっきりなしに音を立てる。どこか遠くで複数人が会話をしながら通り過ぎる気配を感じたが、こちらには気づいていない様子である。
案外と宮殿の敷地内で密談をしても気づかれないものだ、とカナンは目を細める。――そのような隠れた会話に耳を澄ませるのが、エウラリカの『耳』たる自分の役割か。
ネティヤは含みのある笑顔で告げた。
「手始めに、君にはエウラリカ様とそのお相手の顔合わせを取り計らって欲しい」
「……指定された場所へ連れて来い、と?」
「単純に言えばそういうことだな。それだけではなく、エウラリカ様に『これが婚約者との顔合わせである』と気取られぬようにしてくれ」
ネティヤの言葉に、カナンは首を傾げた。
「どうしてその必要が? 時間をかけて説明した方が良いのでは」
「エウラリカ様が私どもの説明で素直に納得するとでも? そもそもきちんと理解できるのかも疑わしい」
ほぼ確実に理解できるはずである。エウラリカは決して悪辣なだけの女ではなかった。……とはいえそんなことを言うわけにもいかない。カナンは「なるほど」と神妙に頷いた。
「それでは、いつお伝えになるおつもりで?」
「……エウラリカ様が輿入れを終えたらだ」
「事後報告をなさる、と?」
カナンは思わず目を剥いた。それではあまりに酷い。たとえ相手がエウラリカでなくとも、著しく本人を軽んじた選択である。
エウラリカの置かれた立ち位置を目の当たりにして、カナンは思わず唾を飲み込んだ。……エウラリカ王女に権利などない。ただ政争のために城外へ追いやられるだけの話である。
カナンは一度目を伏せてから、静かに頷く。
「……分かりました。期日と場所を教えてください」
「そういえば聞き忘れていたが、この件は実現可能……君に任せれば必ず上手くいくのかな? エウラリカ様は誰の言うこともろくに聞かないとしきりに言われているが」
つつかれるのも当然か、とカナンは視線を遠くにやる。この言い方だと、自分が把握していないところでもエウラリカは大暴れしているらしい。少しため息をつく。あの人が手に負えないのなんて今に始まった話ではない。
「可能です」とカナンは短く答えた。事実、エウラリカはこの話に乗るだろうとカナンは確信していた。
「……本当か」
「ええ」
カナンは視線を足下で転がる枯葉に落としながら、息だけで笑った。目を細めて笑い、ネティヤに鋭い視線を投げかける。
「確かに、僕以外の方には難しいかもしれませんね。でも僕なら出来る。僕だけに出来ることだ」
人差し指を唇の前に立て、まるで秘め事のように囁く。
「――僕とあの人とには、特別な関係ってのがあるんですよ」
こちらも、ただ大人しく言うことを聞いているだけではつまらないだろう。




