表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

71/230

流転2



 皇帝を引きずり下ろすため、ひいては皇位に手をかけるため、実際にエウラリカがどのような手段を企てているのか。それは翌日の昼下がりに知れた。


 その日カナンは訓練を終え、他の訓練兵が休憩に入るのを尻目に、エウラリカの従僕としての雑務をこなすために反対方向へ向かっていた。ここのところエウラリカに言いつけられているのは、市井における『とある薬草』の流通の調査である。

 つい昨日、一株ほどそれを手に入れられそうだとエウラリカが話していた代物だ。どのような伝手を使ったのかは分からないが、多少危険な橋を渡ったような雰囲気がある。全く、と密かに嘆息する。

(植物自体の検分はエウラリカに任せるとして、まずはあれが城内に入ってきているかどうかだな)


「カナン!」


 そろそろ城内の医務局に探りを入れようかと思案していたカナンは、突如として腕を強く引かれてたたらを踏んだ。振り返れば、そこには息を切らしたバーシェルがいる。

「やばいって、お前今すぐ来い!」

「……どうした?」

 カナンは眉をひそめてバーシェルを見上げた。バーシェルは肩で息をしながら、カナンの腕から手を離す。

「王女様が騒動を起こして、誰も止められないんだ。お前なら何とか宥められるかもしれないと思って……」

「騒動?」

 カナンは険しく眉をひそめた。「それは一体どこで」と問うと、バーシェルはすぐに「軍部だ」と短く答える。カナンは頷いて、すぐさま走り出した。



 バーシェルに先導されるままに急いで駆けつけると、そこは複数の棟に囲まれた中庭である。騒動を囲う人だかりは厚く、カナンは兵や使用人、官僚たちの背が並ぶ後ろでしばし右往左往した。

「カナン! こっちだ!」

 有象無象の頭の中から腕が伸びた。見れば、ノイルズが半身になってこちらに手招きをしている。体の大きいバーシェルが人混みを掻き分け、カナンはその後ろをついていくようにしながら、中庭の周りに広がった輪の最前列に出た。


 ……その瞬間、額に浮かんでいた汗がざぁっと冷えた気がした。頭上には重苦しい曇天が広がり、周囲は異様な空気に満たされている。カナンは胸を上下させて息を整えながら、足を止めた。


「何してんだよ……」

 カナンはその場に立ち尽くして絶句する。広々とした中庭には、困り顔の皇帝と、その腕に抱きつくエウラリカ、そしてその二人に相対する複数人の官僚たちがいた。


「わたしは、おとうさまがいればそれだけで良いの」

 エウラリカが囁いて、皇帝の胸にそっと頬を寄せた。皇帝は相好を崩してエウラリカを片腕で抱き、その頭を撫でる。

「おとうさま。あの人たちね、わたしに酷いことを言ったのよ」

 エウラリカは切なげに目を伏せ、官僚たちを指し示した。娘の言葉を受けて、皇帝が険しい目を彼らに向ける。


 エウラリカの足下には、砕けた植木鉢が転がっていた。中身の土は地面のタイルの上に広がり、ちらりと覗く葉の上に強い足跡が刻まれている。立ち位置からして、エウラリカが植物ごと土を踏みつけたのは明らかだった。

 植木鉢に入れられていた植物の姿は、土が被さり、その上から踏みにじられたことで見えなくなっている。エウラリカが手ずから運んでいる植物には、思い当たる節が一つしかない。

 昨日、手に入れられそうだとエウラリカが話していた、例の薬草である。


 カナンは思わず唇を噛んだ。

(何とか入手の目処が立ったって、あんなにご満悦だったのに……)

 知る者は少ないであろうとはいえ、万が一その正体が感づかれたらことだ。エウラリカは恐らく、自分の判断で植木鉢を破壊し、中身を隠蔽しようとしたのだろう。

 危険な橋を渡ってまで手に入れた証拠品を、自ら駄目にしなければならなかったのだ。エウラリカはさぞかし苛立っていることだろう。思うように進まなかったこれまでの経過を思うと、カナンも舌打ちをしたい気分だった。



「こ、皇帝陛下っ!」

 不意に、官僚の一人が皇帝とエウラリカの前へ歩み出た。その表情は哀れなほどに青ざめ、それでも彼女は気丈に皇帝を見据えている。

「……恐れながら、申し上げます。ラダーム様がお隠れになった現在、陛下の後を継ぐのはエウラリカ様か、ユイン様のいずれかしかおりません。ユイン様を帝都へ迎え入れ、警備の体制を整えることは火急でございます」

 言いつつ、官僚は地面に膝をついた。タイルの敷き詰められた中庭の地面に、手を触れる。その指先が震えているのを見て取って、カナンは唇を引き結んだ。


「確かに、陛下の御代において、帝国は一層その力を増しました。並の小国ではもう太刀打ちできますまい、しかし、……私たちは西方にユレミア王国、南方に氏族の連合と相対しております。彼らにとって、ユイン様は格好の餌となりましょう」

 官僚が身を低く屈め、皇帝の足下にひれ伏す。それはもはや哀願だった。バーシェルが顔を引きつらせて肩の上から身を乗り出してくるが、それに文句を言う余裕もなかった。


 まるで、その場に縫い止められたようだった。周囲の音が変に遠ざかり、耳の奥で血が流れる音、胸の底で鼓動が早鐘を打つ音ばかりが木霊していた。

「命を狙われるだけではありません。もしもユイン様が他国の手に渡ったら? 私たちは多大な犠牲を払ってユイン様を奪還せねばなりません。あるいは、もしもユイン様が我々の知らないうちに、他国に丸め込まれていたら? 私たちは、他国の間者を自ら皇帝と仰ぎ、その座につけることになりかねない……! ユイン様を帝都の外へ放置しておくことの危険性は、ここでは挙げきれません、」

 官僚が声を限りに叫ぶ。カナンは知らず知らずのうちに首輪を強く握りしめていた。


「皇帝陛下、ご自分のお立場をお考えください! エウラリカ様だけが陛下の御子ではないのです。――エウラリカ様だけが、この帝国の民である訳ではないッ!」


 それはほとんど絶叫だった。単身で進み出て皇帝へ諫言した官僚は年嵩の女で、他の官僚たちはその背後で固唾を飲んでいる。一呼吸置いて、一人が膝を折ると、全員が続けざまに皇帝の前に頭を垂れた。

「皇帝陛下、どうか」

「今一度お考え直しください、」

「皇帝陛下……!」

 皇帝は途方に暮れたような顔をした。皇帝は既に四十を越えた男である。それが、何と情けない顔をしていることか。とてもではないが、一国の主とは思えない表情であった。カナンはきつく眉をしかめて皇帝を見据える。



 そのとき、頭上から光が射した。雲が割れ、輝かしい日差しが中庭に降り注ぐ。

 エウラリカは右手で、そっと皇帝の腕を取った。左腕が音もなく持ち上がり、その指先は目の前で平身低頭する官僚たちに向けられる。

「おとうさま。わたし、この人たちのこと、嫌いだわ」

 エウラリカが微笑んだ。触れたら壊れそうなほどに柔らかくて甘ったるい、優越感の滲む笑みだった。カナンの背筋をぞわりと悪寒が駆け上がる。

「この人たちは、わたしたちの宮殿に必要ないと思うの」

 ゆったりと目を細めて、エウラリカは皇帝の耳元へと囁いた。その眼差しの底に見え隠れする理知的な光には、誰も気づかないのだ。


「何が『わたしたちの宮殿』だよ」とどこかで誰かが吐き捨てた。

 幼く無邪気で、取り返しもつかないほどに愚かで我が儘な『エウラリカ王女』の姿が、そこにはあった。


 エウラリカが皇帝の腰に両腕を回して抱きつく。幼子の振る舞いならば微笑ましいそれも、十七になろうという少女の有様としてはあまりに気味が悪い。

「――ね、おとうさま?」

 一瞬、エウラリカの双眸が不思議な色を湛えたように見えた。




 エウラリカと皇帝が連れ立って中庭を離れると、人だかりもいつしか解散していた。官僚たちは立ち去り、残されたのはカナンと、その後ろで佇むバーシェルとノイルズだけである。

「カナン……」

 声もなく立ち尽くすカナンに、ノイルズがどう声をかけて良いものか考えあぐねたように呼びかける。カナンは曖昧な相槌を打った。

「何か……こう……印象的なご主人様だよな! 痛っ」

 ばし、と音を立ててノイルズがバーシェルの頭を叩く。カナンは振り返って「事実だからな」とノイルズに苦笑した。


「呼びに来てくれてありがとう。事後報告よりよほどマシだ」

 カナンが言うと、「いやいやそんな、恩に着るなって」とバーシェルがわざとらしく照れた素振りで鼻の下を擦る。カナンは少し笑った。

「休憩中にこんなことになって悪いな。早く帰って休んでくれ」

「お前は?」

 ノイルズが首を傾げた。カナンは肩を竦めて、放置されたままの小さな土の山を振り返る。


「後片付けをしようかと」

 呟くと、二人は揃って顔を見合わせた。痛ましげな視線に、カナンは居心地悪く目を逸らした。

「俺たちも手伝うよ」

「いや、僕一人で十分だ」

 カナンは固辞し、エウラリカが投げ捨てて割ったと思しき植木鉢へと近づく。バーシェルとノイルズはしばらく何やら言っていたが、カナンに譲る気がないのを見て取ったらしい。気配が遠ざかる。



 カナンは割れた植木鉢の脇に片膝をついてかがみ込んだ。

(これが、エウラリカが言っていた薬草か)

 土を手で掻き分けて、踏みつけられた茎をそっとつまみ上げて手のひらに乗せる。それは何の変哲もない草に見えた。が、エウラリカが言うにはそうではないらしい。


 エウラリカが件の植物に関しての話を持ち出し始めたのは、おおよそ一ヶ月弱ほど前のことである。エウラリカがどんな情報網を持っているのかはカナンの知るところではないが、どこかしらでその存在を聞きつけてきたらしい。


 ――曰く、ここ最近帝都に異国の薬物が持ち込まれた、と。


 これまたどんな手段を駆使したのかは知らないが、エウラリカはその原材料となる薬草を入手してきた。それが、現在カナンの足下に転がっている鉢だった。

(茎が傷んでいるな。まだ植え直せば育つだろうか?)

 取りあえず土をかき寄せ、カナンは根に土を被せる。丁寧な手つきで根ごと土を掬い上げる。温室まで行けば使われていない植木鉢が転がっていたはずだ。

(このまま手に乗せて温室まで行くのはしんどい)

 内心でぼやきながら、カナンは立ち上がって周囲を見回す。足下には依然として砕けた陶器が転がっており、これを片付けないことには立ち去れない。


「おーい!」

 ふと騒がしい足音のする方に視線を向けると、両手で妙な皿を頭上に掲げたバーシェルが満面の笑みで走ってくる。カナンはぎょっとしてその場でのけぞり、手に持っていた草を背後に隠した。

「カナン! 見ろこれ、植木鉢見つけてきたぜ!」

「ぜってぇそれ植木鉢じゃねぇから!」

 ノイルズがその背後から文句を言いつつ追ってくる。バーシェルが盛大な笑い声を響かせた。


「ほら、ここに乗せろって」

 バーシェルがカナンの眼前に皿を差し出す。どこから拾ってきたのか分からないが、もう使われていない、捨てられた皿のようだ。カナンは顔を引きつらせ、「いや」と一歩下がる。

「何遠慮してんだよ! それ王女様の草なんだろ? 持ち帰った方が良いって」

 言いながら、バーシェルはさっさとカナンの手から土ごと薬草を奪い取って皿に乗せた。「お盆代わりにして持ち帰れば良いだろ? 帰ったら植え替えてやれよ」と得意顔である。


「ここは俺たちが片付けておくから、カナンは王女様のところに行ってくれ」

 箒を手にしたノイルズがカナンに向かって微笑む。前髪を流した髪型といい、やや着崩した制服といい、どうにも気障な印象が拭えない青年だが、人の良さは折り紙付きだった。

「でも……これの片付けは僕の役割で」

「そうか? カナンの役目は、俺たちとは違うところにある……と俺は思うんだよな」

 そう言って、ノイルズは小さく片目を閉じる。カナンは返す言葉に迷って黙り込んだ。この男は何を言っているんだ?


「俺たちや官僚様たちが何を言っても王女様には響かないだろ? でもお前、カナンの言うことなら、少しは王女様だって耳を傾けるかも知れない」

 ノイルズの言葉に、カナンはしばし呆気に取られた。バーシェルは「あー、確かに」と頷く。

「王女様、カナンにだけは懐いてるもんなぁ。訓練にもついてくるし」


 カナンは内心で眉をひそめた。

 カナンの訓練にエウラリカがついてくるのは別段珍しいことではない。エウラリカが訓練所に来てすることと言ったら、ウォルテールをおちょくるくらいのものである。どうして時間を割いてまで自分のところに来るのかは、正直謎のままだ。

(周りからはそんな風に見えていたのか)


 カナンは手に持った皿を見下ろす。皿の上には根が露出した草が横たわっている。……今は、これを何とかすることが先決だろう。

「……じゃあ、この場は頼んでも良いか」

「おう、任せろ!」

 バーシェルがわざとらしく力こぶを作って応じる。カナンは微笑んで頷くと、早足で中庭を離れた。



 人のいない庭園へ入り込み、温室へ赴く。使われずに重ねられている植木鉢を棚の後ろから引っ張り出すと、大きな布袋に入れられた土をスコップで掬う。薬草の背の丈はおよそ手のひらほどしかなく、植え替えても心許ない印象は変わらなかった。

 水をやった方が良いだろうか。カナンは植木鉢を一旦床に置いたまま、温室の裏口から井戸へ向かった。


 水の入ったじょうろを手に温室へ戻る道すがら、カナンは先程の騒動を思い返す。

(ユイン、というのは、確か帝都の外にいる第二王子の名前だったはずだ)

 様子を見るに、官僚はユインを城へ迎え入れたく、エウラリカはそれを拒んでいるらしい。何が起こっているのやら分からず、カナンは首を捻りつつ温室の扉を押し開けた。


「あ、」

 と、そこでカナンは足を止める。少し温室を離れた隙に、温室の中には人間が増えていた。

「これ、お前が持ってきたの?」

「ああ……はい」

 床に置いていた植木鉢を抱え上げて、エウラリカがカナンを振り返る。彼は躊躇いがちに頷いた。


 整った横顔と真剣な眼差しが、腕の中で不格好に傾いた草と対照的に見えた。妙なおかしさにカナンは小さく笑いを漏らしてから、すぐに表情を戻す。エウラリカはむっとしたように一瞬カナンを睨みつけ、それから植木鉢を机の上に戻した。



 カナンは数秒躊躇って、「さっきの騒動は一体、」と声を発した。エウラリカは視線だけでカナンを窺い、「見てたの」と眉を上げる。カナンは恐る恐る頷いた。

 中庭で見たエウラリカの姿と、今の表情は、まるで別人のようだった。常軌を逸した言動や狂気の色はなりを潜め、今のエウラリカは静かな眼差しで植木鉢を見下ろしている。エウラリカは煩わしげに首元の髪を払いのけると、低い声で呟いた。


「皇帝の権威を失墜させる。皇帝をその座から追いやれば、彼らが取るべき手段は私かあの子以外にありはしない」

 あの子というのは、官僚の言葉の中に出ていた、ユインという名の第二王子だろう。カナンも名前だけは聞き及んでいた。離宮へと追いやられた、後妻の子だ。


「まあ、単純な話よ。私を傀儡として担ごうという馬鹿を炙り出す、それだけ」

 当然のことのように語るエウラリカに、カナンは半目になった。エウラリカは簡単に言うが、実際に動かされるのはどうせ自分である。またこき使われるのか、と渋い顔になったカナンに、エウラリカは息を漏らして笑った。


「でもまずは、こっちの方を先に片付けた方が良さそうね」

 言いつつ、エウラリカは植木鉢の側面をそっと片手で撫でた。「こんなのが横行したら、計画が崩れかねないわ」とため息交じりに毒づく。


 ここ最近、何の前触れもなく帝都に流れ込んできた違法薬物。その流通経路は確かではなく、けれど市井の富裕層から貧民層まで、果てには貴族の数人にまで、この薬物が手に渡り、常習者が出ているという。カナンはその出所を探っているものの、依然として売人の正体は知れない。



「そういえば、この草――トルトセアから作られる薬物が、どのような隠語で呼ばれているか知っている?」

 エウラリカがふと思い出したように忍び笑いを漏らす。カナンは「知りません」と素直に首を横に振った。エウラリカは満足げに頷いて、一度植木鉢を見下ろす。その横顔には、何やら悪戯めいた含みがある。

 首を傾げるカナンを振り返り、エウラリカは随分と楽しげな笑顔で告げた。





「――傾国の乙女、と」








婚約騒動編まではもう少しお待ちください…。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ここに来て、「もう1人」の「傾国の乙女」の存在が! 【深層編】に入ってからずっと、「あのとき、誰が何を企んでこうなったのか」という話がどんどん公開されてきて、とても楽しいです。 カナンくん…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ