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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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流転1



 それは、秋を終え冬が過ぎ、季節は春に入ろうという頃のことだった。

「うわーっ!」

 城の訓練所に情けない悲鳴が響く。剣の手入れをしていたカナンは顔を上げ、そちらを振り返った。

「どうした?」

「俺の剣に超デカい芋虫ついてんだよ!」

 ほとんど切れ気味に怒鳴り返してきた同期に、別の同期が盛大に笑い声を上げる。


「バーシェル、お前、その図体で芋虫怖がってるのか?」

「うるせぇ! 見てみろよこの斑点、気持ち悪いだろ!?」

「うわ、やめろって、近づけんなよ」

 訓練所の隅でどたばたと走り回っていた二人が、そのままカナンの方まで駆け寄ってくる。

「なぁ、カナンもキモいと思うだろ!?」

 ずい、と剣の柄を眼前に寄せられて、カナンは思わず顔をしかめた。バーシェルというのはこの同期の名だ。後ろにいるもう一人はノイルズという。


 差し出された剣の柄には、確かにむっちりとした芋虫が這っている。模様も綺麗とは言いがたく、一瞬ぎょっとするのも頷けた。……だが、

「そんなに大騒ぎするほどの大きさじゃないだろ」

 カナンはため息交じりに片手を出し、ひょいと芋虫をつまみ上げて茂みに放った。「おお……」とノイルズが声を漏らす。

「かっけぇ……」

 芋虫の去った剣を抱き締めながら、バーシェルが目を輝かせた。カナンはわざとらしいため息で受け流す。この落ち着きのない二人組が、同期の中でもとりわけカナンに近しい人間だった。



「カナンは虫が平気なんだな。昔は虫取り少年だったとか?」

「いや」

 ノイルズの言葉にカナンは首を振った。幼い頃――ジェスタにいた頃は、取り立てて活発に外へ出る子どもではなかった。

「ときどき庭仕事をさせられるから、もう慣れただけだ」

 刃の砂埃を拭った布を腕にかけ、カナンは磨いた剣を鞘に収める。かち、と剣が奥まで嵌まる感触が掌に伝わった。

 カナンの言葉に、バーシェルが首を傾げる。「俺たちの訓練に草むしりなんてあったか?」とノイルズを振り返ると、ノイルズは「馬鹿」とバーシェルを小突いた。ノイルズが低い声で何事か囁く。バーシェルは少し目を見開いてカナンを見ると、「ああ……」と合点がいったように頷いた。


 ――何を言われているかは、分かる。この半年、幾度となく向けられてきた視線である。カナンは頑なさを滲ませた目つきで、ぐっと奥歯を噛みしめた。次に言われる言葉も、分かる。


 バーシェルは遠慮がちにカナンを窺った。

「王女様の、奴隷……なんだっけ? ごめん、この話題って触れても良いのか?」

「別に、自分から吹聴するようなことじゃないから言わなかっただけで、隠している訳じゃない」

 カナンが素っ気なく応じると、バーシェルは小さな声で「そっか」と呟く。

「じゃあ、カナンは訓練期間を終えても軍に配属される訳じゃないんだな」

 バーシェルは顎に手を当てて数度頷いた。カナンは「ああ」と頷いて、剣帯に鞘を固定した。重みが腰に加わる。最近やっとこの、体が左に傾くような感覚に慣れた。



 自分はこれからエウラリカの従者として生きるのだ。そう決意したのは事実だったけれど、いざ何度も突きつけられると嫌な気持ちになるのは事実だった。今更、生まれや血筋を回顧してどうこう言うつもりはないけれど、それでも、だ。

(僕は結局、エウラリカの奴隷としてしか見られない)

 分かりきったことだった。いくら言動に難があるとは言え、この城でエウラリカはあまりに輝かしかった。カナンはその影になるのだ。背後に潜んで、エウラリカの手となり目となるのが役目だった。誰にも見られなくたって構わないのだ。


 バーシェルはつまらなそうに唇を尖らせて文句を言った。

「それじゃ、寂しくなるな。俺、お前と一緒に、城の警備とか帝都の見回りとかしてみたかったんだけど」

 何を言われているのか分からなかった。カナンは思わず「は……?」と声を漏らしてバーシェルの顔を注視する。垂れ目が特徴的なこの同期は、カナンと目が合うと何故か得意げに笑った。

「でも、どうせ同じところにいるんだから、顔を合わせることもあるだろうしな! そのときはお互いに近況報告でもしようぜ」

 胸を張って、バーシェルが強くカナンの背を叩く。耐えきれずによろめくと、ノイルズが「おい」とバーシェルの頭を小突いた。


「えっと……」

 カナンは返答に困って、その場に立ち尽くして二人を見る。ノイルズは腕を組んで首を傾げた。

「どうした?」

 心底怪訝そうな声に、カナンは言葉を選びあぐねる。大柄だが顔だけは優しげなバーシェルを眺め、それからすらりと背の高い優男であるノイルズを見上げる。

「どうして……だってそんな、訓練が終われば縁も切れるのに」

 カナンがおずおずと告げると、二人は揃って顔を見合わせた。「切れるのか?」「切れなくね?」と短いやり取りが交わされる。


「そりゃ話しかけるだろ、だって俺たち友達じゃん」


 当たり前だろ? とバーシェルが肩を竦めた。カナンはぽかんと口を半開きにしたまま、首に手をやった。首輪を掴む。ひんやりとした鈴の感触が指先に残った。


 そのとき、ノイルズがふと斜め上を見上げ、「そういえば、王女様で思い出したんだが」と話題を変えた。



 ***


「何? 随分と嬉しそうじゃない」

 隠しきれない喜色が漏れていたらしい。エウラリカは眉をしかめてカナンを振り返った。カナンは扉の鍵である腕輪を手首に戻しながら、「いえ」と表情を引き締めたまま応じる。

「今更真顔になっても誤魔化せないわよ」

 エウラリカは体を捻り、長椅子の背もたれに引いた前腕を乗せた。長い髪が肩から滑り落ちる。


 この半年で、エウラリカの部屋の隅には、クローゼットが一つ増えた。

 床から壁まで白く冷たい大理石で囲まれたこの部屋は、一切の生活感の排除された空間だった。背の丈を大きく超える窓は誰もいない庭へ続き、採光窓としての役割を兼ねている。床に置かれたものは少なく、部屋の左隅に、脚の短い机といくつかの長椅子が揃えられているばかりである。


 カナンが来るより前から、部屋にはひとつのクローゼットが置かれていた。中には誰のものとも知れない男性用の服が入っており、カナンはそれを着て生活していた。クローゼットは物置代わりにしていたし、エウラリカもそれに対して何も言わなかった。

 が、ここ最近になってカナンの持ち物が増えたのである。当然、それらの着替えや剣などは、クローゼットに入りきらずに床に積まれる。それを見たエウラリカは心底嫌そうな顔で、散々恩着せがましいことを言ったのちに、クローゼットをもう一つ調達したのだった。


 艶やかで木目の綺麗なクローゼットだった。その扉を引いて、カナンは上着と剣をしまう。襟元を緩めて軽装になったカナンに、咳払いが投げかけられた。エウラリカが呼んでいる。カナンは肩越しに振り返った。



 エウラリカは背もたれに肘を乗せ、カナンを見据えている。深い色をした碧眼が鋭く眇められた。

「そういえば、『あの薬草』に関する調査は進んでいる?」

 その言葉に、カナンはきまり悪く目を伏せた。それだけでエウラリカはカナンが上手くことを運べていないことを悟ったらしい。「焦らずにやりなさい」とため息交じりに頷いて、彼女は目を逸らす。


「現物を一株ほど入手する目処は立ったわ。明日にでも手に入れられそう」

「ええ、それはすごい」

 にやり、と少し得意げな表情に、カナンは思わず目を丸くした。エウラリカは笑みを深める。

「もっと褒めてくれても良いわよ」

「いやぁ、それはちょっと」

 何よそれ、とエウラリカの睨みが飛んできて、カナンはわざとらしく目を逸らした。



「まあ、そういう訳で、『あれ』についての話は明日に回すとして」

 そう言って、エウラリカはカナンに向かって意地の悪い笑みを見せる。

「それで? さっきは何をにやにやしていたのよ。何かあったのなら、きちんと報告しなさい」

「いえ、僕の個人的な事情ですので」

「そうした些細な情報が、どこにどう繋がるか分からないから教えなさいと言っているのよ。個人的かどうかを判断するのは私よ」

 エウラリカは鋭く鼻を鳴らした。片手をひらめかせ、「早く」と迫る。カナンは慎重な手つきでクローゼットを閉じながら首を振った。


「絶対『何それ、しょうもない』とか言うので嫌です」

「何拗ねてるのよ、言いなさいって」

 エウラリカは背もたれの上に手のひらをついて腰を浮かせる。何やら変なところに火がついてしまったらしい。カナンは渋面を作って、エウラリカの向かいの長椅子に歩み寄った。

「……絶対に、文句言いませんよね?」

「言いませんわよ? 多分ね」

 エウラリカは頬を吊り上げて頷く。全くもって信用ならない返答にため息をついて、カナンは長椅子に腰掛けた。


 心持ち背中を丸め、膝の上に両手首を置いて指先を絡ませた。俯きがちに目を逸らして、カナンは照れを隠しきれずに赤面する。

「…………友達が、できました」

「何それ、しょうもない」

「やっぱり言うじゃないですか!」


 一顧だにせず切り捨てたエウラリカの目が、完全に呆れを示している。カナンは思わず拳を振り上げて文句を言った。

「だから言うの嫌だったんですって」

「だって本当にどうでもいい話だから……」

 びっくりしちゃった、とエウラリカが薄ら笑いで鼻を鳴らす。カナンは憮然とした態度を隠すことなく口をひん曲げた。

「名前は?」

「バーシェルと、ノイルズ……です」

「へーえ。知らない名前ね。小物かしら?」

「そりゃそうでしょ、まだ配属もされてないんだから」

「あはは」

 むきになって言い返すカナンに指を指して笑うと、エウラリカは一旦「ふう」と息をつき、これ見よがしに両手を掲げて肩を竦めた。



「それで? 話はそれだけ?」

 エウラリカに問われて、カナンは「えっと」と姿勢を正す。ノイルズから聞いたことを思い返しながら、カナンは誰も聞いていないのに声を潜めた。

「……最近、皇帝と官僚が揉めているというのは、本当ですか」

 ノイルズが語った噂話は単純だ。……エウラリカがまた何か皇帝に我が儘を言い、それを官僚が止めようとしている、という話である。

 その話自体はさして驚くものではなかったけれど、自分は何も聞いていないのが些か不本意だった。


 エウラリカはすらりと伸びた脚で服の裾を払いつつ、ぞんざいに足を組んだ。

「そうね。私が差し向けているのは聞いているんでしょう?」

「はい。……今度は何を企んでいるのですか」

「別に? 兄が死んで一年経つし、そろそろ皇位に手をかける頃と思ったから」

 当然のように応じたエウラリカに、カナンは小さく息を飲む。かつてエウラリカが言っていた計画が、ついに動き出すのか。


 エウラリカは腰を捻って背もたれに片肘を乗せていた。手首からだらりと垂れた手には、閉じられたままの扇が握られている。カナンが息もつけずに身を固くしているのに対して、「もう一度確認しましょう」とエウラリカは何も気負わぬような気楽な態度である。


 視線をすいと庭にやり、エウラリカは一度軽く唇を閉じてから、静かな声で語り出した。

「――――私は皇帝になる」

 外へ繋がることのない庭を見据える。エウラリカの口調に躊躇いの色はなかった。幾度となく考えた末の結論であることは自明だった。

「今現在この国の頂点に立つ人間を全員奈落へ叩き落とし、腐りきった帝国をひっくり返す」

 エウラリカの碧い瞳の奥が熱く燃えている。その横顔に緩みはなく、薄く紅の引かれた唇は僅かに引き結ばれていた。


「そして私は死ぬ。疑いの余地なく、完璧に消え失せなければならない。私はこの体に流れる血を次代へ引き継ぐつもりなどさらさらない」

 柳眉を険しく顰め、エウラリカは厳しい口調で言い切った。カナンは返す言葉もなく、ごくりと唾を飲み下す。


 エウラリカの視線がカナンに移された。その目の底に、明らかな苦しみが浮かんでいる。そのことに気づいて、カナンは腹の辺りでぐっと拳を握りしめた。

 息を吸うだけでひりつくような空気が立ちこめていた。エウラリカはゆっくりと胸を上下させ、顎の先をつんともたげる。瞼を下ろして目を細め、見下ろすようにカナンの両目を見据えた。


 エウラリカは人のいないところであまり声を荒げることはない。そのエウラリカは、するりと肘を背もたれから下ろし、胸元に指先を当てて、珍しく強い語気で言い放った。



「――新ドルト帝国は、私の死をもって滅亡する」

 ぞくり、と体が震えた。カナンは声もなくエウラリカの双眸を見つめる。エウラリカは凜と背筋を伸ばし、カナンの視線を受け止めた。その居住まいの何と泰然としたことか。



 エウラリカの真髄はその容姿になどないのだ。

(僕は、この人に付き従って、どこまで行くのだろう)

 奇妙な予感めいたものを胸の内に覚えながら、カナンは奥歯をきつく噛みしめた。

 ――エウラリカの真髄は、誰も知らないその胸の内にある。


 カナンは黙って頭を垂れた。エウラリカは冷然とした眼差しを微塵も和らげることなく、その様子を眺めていた。





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