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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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木剣と決意1



 アジェンゼが処刑され、この大臣に連なる人間たちも一斉に処分された。デルギナを初めとした官僚や、軍部からも数人の該当者がいた。

 城内は騒然としており、この騒ぎはなかなか収まりそうになかった。とはいえそれらはカナンとエウラリカにはほぼ関係のない話――そういうことになっており、宮殿の奥では数々の醜聞などまるで知らないように切り離された、静かで穏やかな時間が流れていた。


「その歳にもなって知恵熱なんて」

 そんな中、体調不良をこじらせてぶっ倒れたカナンは、エウラリカの部屋からほぼ身動き出来ずにいた。エウラリカは水の入った盥に布を浸しながら、呆れたようにため息をつく。

「お前、存外に繊細な質なのね」

「ぜったい、知恵熱じゃないですって……」

 長椅子の上に横たわったカナンは、弱々しく嘆息した。エウラリカは「ふーん」と興味なさげな反応で、ろくに絞ってもいない布をカナンの額の上に投げつけた。

「うわっ」

 びちゃりと目の上が濡れ、カナンは顔をしかめて布を引き剥がす。エウラリカは「あはは」と子どもみたいな笑い声を上げて、水差しに手を伸ばした。


「お前、今いくつ? 生後半年くらい?」

「つい先日、十四になりました」

「あら、言ってくれたら良かったのに」

「僕があなたに誕生日を発表したって『それで?』としか言わないでしょうに」

「確かに、お前の誕生日なんてちっとも興味ないわね」

 雑なやり取りの最中、エウラリカはのんびりとした手つきで、水差しからグラスに冷たい茶を注いでいた。カナンは身を起こし、顔面に投げつけられた布を盥の上で絞る。……そのせいで、エウラリカが茶に何かを入れたのに気づけなかった。


「ほら、飲みなさい」

 差し出された器を受け取って、カナンは「ありがとうございます」と形ばかりの礼を述べると、縁に口を付けた。

「そういえば……うわっ! 何だこれ」

「あはは」

 話題を変えようかと口を開きかけたところで、カナンは口に含んだ茶を噴き出す。エウラリカはそれを見越していたような反応で、軽やかに声を上げて笑っていた。


 カナンは口元を手の甲で拭いながら、呆然とエウラリカを見た。

「な……何でしょっぱいんですか」

「塩を入れたからに決まってるじゃない」

「何でですか!? 嫌がらせにも程がある……」

 エウラリカは、いかにも小馬鹿にした様子でせせら笑う。カナンは首を傾げた。

「……そういうものなんですか?」

「汗をかいていたでしょう」

 まるで答えになっていないが、どうやらエウラリカはエウラリカなりに何かしらの理由があって塩を入れたらしい。カナンは眉をひそめて器を見下ろすと、ちょっと微妙な顔をした。



 外は夏真っ盛りで、風通しの良い窓際とは言えど、薄らと汗ばむような気候がずっと続いていた。手の甲で額を拭ったエウラリカが、ぐったりと長椅子に寄りかかったカナンを眺める。

「本当に体力がないのね。運動不足? ウォルテールにでもしごいて貰えば?」

「嫌ですよ。それに、あの人だってそんな暇人じゃないでしょう」

 ふーん、とエウラリカが何やら含みのある表情で呟いた。そこはかとない嫌な予感に、カナンは思わず顔を歪める。

「お前、何か武器は?」

「嗜んでいるかってことですか? ……強いて言えば、弓くらいですかね」

 カナンが嫌々答えると、エウラリカは「そうよね」と頷いた。まるでこの答えを見越していたかのような反応に、カナンは首を傾げる。


「どうせ、馬に乗って森の中に狩りにでも行って、ウサギとか鹿とか捕まえてたんでしょう」

「なんでそんな言い方に棘があるんですか。確かにそうですけど……」

「あの辺りは森だらけだものね」

 訳知り顔で頷いたエウラリカに、カナンは「来たことがあるんですか」と眉を上げた。しかしエウラリカは「いいえ」と淀みなく首を振る。

「――私、一度だって帝都から出たことはないわ」

 達観したような眼差しだった。窓の外をつと眺めた横顔に、カナンは息を止める。窓の外に広がる庭は、エウラリカのためだけの箱庭だ。



「とはいえ、帝都にはウサギも鹿もいないのよね。人しかいないのよ」

 何気なく零された言葉に、カナンはぴくりと反応した。何が言いたいのか、と視線を鋭くしたカナンに、エウラリカはにっこりと相好を崩した。

「市街地で狩りをするには、やっぱり刃物の方が都合が良いわ」

「……僕は人を殺すつもりはありません」

 カナンは唸るように反駁した。エウラリカは「結構よ」と頷く。


「ただ、自分の身くらいは自分で守れるようになっておきなさい。どこでどんな状況に陥るか分かったものじゃないから」

「そんなに物騒なんですか、この帝都は」

「少なくとも、お前が生活していたジェスタよりは治安が悪いんじゃない?」

 エウラリカはしれっと答えて、何やら画策しているような顔で楽しげに笑った。



 ***


 それから数日後、エウラリカは皇帝から剣術を学ぶことに関する許可をもぎ取ってきた。まずい、本気だ、とそのときカナンはようやく気づいた。

 そうして日々を過ごすうちに夏が終わり、秋に入る頃、カナンはほとんど連行されるようにして、ウォルテールのいる訓練所まで足を運ぶこととなった。


「やっぱり、僕は剣とかそういうのは……」

 カナンは嫌がったが、「久しぶりに鎖をつけて引っ張られたい?」などと脅されてしまえば逆らう術はない。また犬の散歩のように鎖で繋がれて外を歩くのは勘弁である。

 エウラリカは意気揚々と身支度をし、鏡の前で機嫌よさげに髪を結い上げている。そんな様子を尻目に、カナンは緩慢な動きで準備を始めた。


 秋ともなれば暑さは和らいでいた。そのことに安堵のため息を漏らしながら、カナンは空を見上げる。

(どちらにせよ、習っておいて損はない、か)

 カナンはもう一度小さく嘆息して、一歩先を行くエウラリカに付き従った。


 渋々向かった訓練所では、非番の兵士たちが剣を手に訓練を受けていた。そんな様子を訓練所の隅で眺めては時折檄を飛ばすのがウォルテールである。

(本当に、剣術の指導をウォルテールにねだる気か? あの人だって暇じゃないだろ、流石に……)

 エウラリカが背後からウォルテールに近づく様子を、カナンはやや離れた位置で見守った。



「こんにちは、ウォルテール! わたしに剣を教えてちょうだい!」

 ぴょん、とウォルテールの隣に跳ね出て、エウラリカが溌剌と告げた。ウォルテールは何が起こったのか全く理解していない顔で、「は……?」と声を漏らした。見れば、訓練所にいた他の兵たちも呆気に取られてエウラリカを眺めている。時折その視線が、カナン自身にもちらちらと向けられていた。誰だ、と言いたげな目である。

(居心地が悪い)

 カナンはその場で少し身じろぎをして、それからおずおずとエウラリカの後ろに近づいた。なるほど、というように視線が外れる。


 ウォルテールはたっぷり五回ほど深呼吸してから、「エウラリカ様、ご自分が何を仰っているのかお分かりですか?」と言い聞かせるように応えた。「お分かりですわよ!」とエウラリカは両手で握りこぶしを作る。カナンは死んだ目でそれを眺めた。

(全力の演技だ)

「ふふっ」とエウラリカが小首を傾げて軽く笑った直後、視界の隅で「あ痛ァ!」「大丈夫か!」と小さな騒動が巻き起こった。……なるほど、エウラリカの笑顔は事故を起こすらしい。


 エウラリカは胸の前で両手の指を絡ませながら、ちらとウォルテールを上目遣いで窺った。

(絶対、僕には向けない顔だよな)

 媚びを売っているのが見え見えの表情だが、ウォルテールは僅かにたじろいだ。ウォルテールは比較的エウラリカの猫かぶりに耐性がある方だが、それでも全力で甘えられると負けがちらしい。

(分かんないもんかなぁ)

 カナンは渋い顔でエウラリカの後ろ頭を見下ろした。皆してエウラリカの見え透いた演技に引っかかって目を奪われている。剣を下ろしたまま、口を閉じるのも忘れてエウラリカを眺めている兵が、一人、ふたり、……その他大勢。

(とんでもない性悪だって知らなければ、騙されるもんなのか……)

 はぁ、と小さくため息をついて、カナンは肩を落とした。



 エウラリカは唇を尖らせながらウォルテールを見上げる。

「この間、お兄様がアジェンゼに殺されたでしょ? それで、怖いなーって思って……」

 堂々と大嘘をついて、エウラリカがしゅんと肩をすぼめた。カナンはウォルテールの顔色を確認するが、この将軍もエウラリカの言葉に疑問を抱いている様子はない。

「だからね、わたしも戦えるようになりたいの!」

 エウラリカがにこりと破顔すると、ウォルテールはあからさまに困った顔をする。

「ご自身で剣を取らずとも、エウラリカ様をお守りするのが我々の使命ですよ」

「――でもお兄様は殺されたわ」

 笑みを絶やさぬままに、エウラリカは鋭く答えた。ウォルテールがぐっと唇を引き結んで黙る。まさか目の前に真犯人がいるなどとはつゆ知らずに、彼は苦しそうな顔で俯いた。


(悪趣味だ……)

 エウラリカは明らかにこの問答を面白がっていた。何も知らないウォルテールをおちょくって遊んでいるらしい。ウォルテールはどうやってエウラリカを説き伏せようかと眉根を寄せる。

「……エウラリカ様が何か怪我でもしようものなら、我々が皇帝陛下に怒られてしまいます」

「おとうさまには許可を取ったわ!」

 用意周到である。エウラリカが胸を張って宣言すると、ウォルテールは心底嫌そうな顔をした。自分では真顔のままのつもりらしいが、存外表情に出る質だ。


 エウラリカのおもちゃに認定されてしまったのが運の尽きである。可哀想に、とカナンは目を細めて成り行きを見守った。直後、ウォルテールがため息と共に立ち上がる。

(まじか)

 勤め人も大変だ、とカナンは顔を引きつらせた。こんなに嫌そうなのに、皇帝の気配を感じたらきちんとエウラリカの相手をするらしい。



 んん、とそれらしい咳払いと共に、ウォルテールが厳めしい顔つきで腕を組んだ。

「それでは、まずは準備運動から始めましょうか。あそこの訓練場の端で」

「あそこね? 分かったわ!」

「あっ」

 ウォルテールの言葉を最後まで聞くことなく、エウラリカは勢いよく駆け出す。その素早さといったら凄まじく、一瞬何が起こったのか分からなかったほどだった。

 気がついたときには、エウラリカはずっと向こうである。不意を突かれたカナンは大慌てでその背中を追った。


 訓練所の隅で立ち止まったエウラリカに追いつき、カナンは不満たらたらで文句を言った。

「何でいきなり走るんですか」

「だって、意表を突かれたウォルテールとお前の間抜け面が面白いんだもの」

「僕までおもちゃにしないでくださいよ」

 エウラリカは随分と楽しそうな笑顔で、にこにことご機嫌に笑っている。手を止めて見物に興じている兵たちに小さく手を振り、上がった小さな歓声に嘲笑混じりの息を漏らした。 


 木剣を手に、ウォルテールが後から追いつく。エウラリカがすかさず駆け寄り、何事か話しかけた。ウォルテールが困惑したような顔で眉をひそめ、エウラリカが明るい笑い声を響かせる。

 まるでのどかな光景、のように見える。カナンは表情をぴくりとも動かさないまま、二人のやり取りを眺めていた。



 体を慣らすような準備運動を終え、訓練所の周りを三周してこいとウォルテールからの指示が下る。「行くわよ」と顎で指図され、カナンはエウラリカの後ろについて走り出した。

 完全に訓練の手を止めてしまっている兵たちの視線が突き刺さる。『あれは誰だ?』と言わんばかりの目に晒されて、カナンは何となくエウラリカの陰に隠れようとした。……が、エウラリカの上背が足りないのである。

「何でそんなにくっついてくるのよ」

「くっついてないです」

「嘘、邪魔よ。自分よりでかいのが後ろにぴったりとつけてくるの、この上なく鬱陶しいわ」

「気のせいですって」

 エウラリカに小声で散々な悪態をつかれながら、カナンはのんびりと訓練所の縁を走っていた。


「大体、何で僕の運動不足からこんな話に繋がるんですかね」

 ウォルテールがこちらを眺めているのに気がついて、カナンは声を潜めた。エウラリカは「んー」と唇を尖らせる。

 前方に立っていたウォルテールに目を留め、エウラリカはそれから肩越しにカナンを見上げた。

「ほら、例えばもしもウォルテールが簒奪者とかになったら、何かしら対抗手段が必要じゃない? そういうときに、お前がちゃんと鍛えていれば肉盾か足止めくらいにはなると思うの」

「嫌ですよ、何で僕がそんなことしなきゃなんですか」

「あはは」

「笑い事じゃないですって」


 カナンはため息交じりに顔をしかめる。縁起でもない仮定である。自分がウォルテールと剣を交えることになる想定は、あまりしたくなかった。何だかんだ言ってウォルテールはだいぶカナンを気にかけてくれている。それに、ウォルテールと戦って勝てるとも思えない。直接敵対するのはごめんである。

 ……だいいち、ウォルテールは簒奪という玉ではないだろう。


(というか、僕はこいつが皇帝になってからもこき使われるのか)

 カナンに与えられた最終的な使命は、エウラリカの殺害である。エウラリカが何を目論んでいるのかはおおよそ分かっていた。国家の転覆だ。――皇帝となったエウラリカを殺害し、帝国を混乱に叩き落とす。

(まだるっこしいんだよな、やり方が)

 カナンはエウラリカの後ろ姿を見下ろした。帝国を傾けたいのなら、わざわざそんなことをしなくたって、今すぐに皇帝を暗殺すれば良いだけの話である。それなのに、何故か、エウラリカはその手段を選ばない。

(……一体、何が目的なんだ)


 カナンが心中で形にならない思考を持て余していた矢先、「あと二周です」とウォルテールの声がかかった。「はーい!」とエウラリカは片手を挙げて応じ、カナンを振り返る。

「まだ走れる?」

 無害な少女を装った笑顔で、エウラリカがカナンを見た。カナンは一瞬言葉に詰まり、それからぎこちなく微笑む。

「僕はまだ余裕ですよ」

「ふーん」

 くい、と口角を上げて、エウラリカが目を細めた。そうした表情が随分と似合う少女である。


「お前、手を抜いてるでしょう」

 気づかれていたのか、とカナンは少しだけ眉を上げた。エウラリカは前に向き直り、素っ気ない口調で告げる。

「速さが合わないなら追い抜いても良いのよ。それくらいで怒りやしないわ」

 小さな歩幅で規則正しく走る、エウラリカの長い髪が馬の尾のように揺れていた。金色の振り子運動を三往復ほど眺めてから、カナンは「いえ」と応じた。

「周回遅れになってしまったら申し訳ないので」

 僅かに冗談めかして答えると、エウラリカは愉快そうに鼻で笑った。

「……勝手に言ってなさい」

 楽しげな様子で頬を吊り上げると、エウラリカは次の一歩を大きく踏み出した。




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