なおも常闇
門番の横をすり抜け、城門から宮殿の玄関まで続く道をひた走った。左右に広がる庭園は曇った夜の底で冷え切ったまま沈黙し、暗い通路は日が暮れ往来が途切れて久しい。道の両脇の列柱は宮殿までの通路を覆う石の屋根を支えて揺るがない。白々とした巨大な大理石の間を、カナンは声もなく走り抜ける。
かつて両手を戒められ、家族や臣下と共に連行された通路である。あのときの無力感、得体の知れない恐ろしさ、そうしたものが今、カナンの胸に再び襲いかかっていた。
(かつて言っていた。ジェスタは帝国にとって取るに足らない小国でしかないのだと、そう言って嘲笑っていた)
地下牢の濡れた床に這いつくばったときの屈辱は、未だに薄れることなくカナンの腹の底を炙り続けている。だが目を逸らすことは許されない。傷跡を自ら掘り起こすような気持ちで、カナンは記憶の底を浚った。
(新ドルト帝国にとって、ジェスタ王国は侵略する価値もない。それならどうしてジェスタにウォルテールが進軍したと思う? 『私が願ったからよ』、あいつはそう言ったんだ)
血が滲むほどに拳を握りしめ、カナンは列柱の間を走り抜けて巨大な城の中へとその身を投じた。
豪奢な城内は点々と置かれた燭台により薄明かりが灯され、押しつぶすような静謐さが立ちこめている。
(それなら、どうして、エウラリカはジェスタを願った。何故ウォルテールを指名した)
喉元に何かがせり上がってくる。言葉にもならない激情が、胸の内で荒れ狂う。何もかも分からなくなるくらいに叫び出したい衝動に駆られた。嫌な予感がする。嫌な感じがする。気づきたくない。見たくない。何か変だ。何か大事なものが、胸の内で揺らごうとしている。
(ラダームはジェスタも標的としていた、それは地図を見れば明らかだ。きっと調べればどこかにその旨だって書いてあるはずだ。だからわざわざあの女が皇帝にねだらなくって、いずれジェスタは遠くない未来、帝国の手に落ちていたはずなんだ)
掃除婦が音もなく床を掃いている横を、カナンは影のように走り抜けた。いくつもの扉をすり抜けて、庭園へと駆け出した。庭園にはその色さえも分からない黒々とした木々の影が佇立していた。初春の庭では、ほのかに花々が色を装い始めた頃だった。花壇を避けることすら厭わしかった。花壇に敷き詰められた柔らかい黒土に強く足跡を刻みつけた。何かの茎が折れた。近道の生け垣の隙を、ほとんど蹴破るみたいに走り抜けた。枝が腕を強く引っ掻いたが、そんなのもどうでもよかった。
(ラダームでは駄目な理由があった。ウォルテールでなければいけない理由があった)
体中にまとわりついた枝葉をまき散らしながら、カナンは渡り廊下へと足を踏み入れた。走りながら腕輪に手をかけ、むしり取るようにそれを外す。指先の感触で扉の鍵を探し当て、カナンは突き当たりの扉に体当たりするみたいに肩を寄せた。
鍵穴に鍵を差し込み、カナンは扉に手の平をついて、複雑な意匠に額を押し当てる。喉の奥で、まるで泣き出す寸前のような息がその身を震わせた。
それは、実に恐ろしい推論だった。カナンの憎悪を足下から揺るがす、嫌な可能性だった。
少年はきつく目を閉じ、顔を歪めて奥歯を噛みしめる。
(――――僕は、エウラリカに生かされたのか?)
カナンが扉を押し開けると、エウラリカは部屋の中央に立ち尽くしていた。その顎を僅かにもたげ、外を見上げている。カナンが入ってきたことに気づかないはずがないのに、エウラリカはしばらくの間、一切の反応を示さなかった。
ややあって、彼女が呟く。
「……随分と長いお散歩だったのね。どこへ行っていたの?」
「ウォルテールがアジェンゼを捕らえる様子を見に」
「あら素敵。誘ってくれたら良かったのに」
エウラリカは淡々とした調子で、カナンを振り返ることもなくさっさと自室の方へと歩いていこうとする。――もしかしたら待っていたのだろうか? そんな可能性が一瞬思い浮かんだが、エウラリカに限ってそれはないと打ち消す。
「待ってください」
カナンは後ろ手に扉を閉めながら、努めて静かな声でエウラリカを呼び止めた。エウラリカは顔だけで振り返る。不機嫌そうな色を隠しもしない態度だった。
「ひとつお訊きしたいことがあるのですが」
「……それは今すぐでないといけない話?」
「少なくとも、僕にとっては」
カナンは見もせずに扉に鍵をかけると、エウラリカに向かって歩み寄る。
「どうして、ウォルテールをジェスタにけしかけたのですか」
「どうしてそんなことを訊くの?」
問いに問いを返して、エウラリカは腕を組んだ。カナンは扉を開けるために外した腕輪をつけ直し、更に一歩エウラリカに近づいた。図らずも揃いとなってしまっている腕輪が、しゃんと涼やかな囁きを漏らす。
「ラダームが次に狙っていたのはジェスタだ。……違いますか」
「違わないわね」
僅かに背の低いエウラリカは、睨みつけるような上目遣いでカナンの視線に応戦した。深い青色の瞳が、数度の瞬きを繰り返す。カナンはゆっくりと呼吸をしてから、エウラリカの目の奥をじっと見据えた。エウラリカはカナンの言葉をまともに取り合う気などまるでないような表情である。人を食ったような態度で眉をくいと上げ、続きを促す。
カナンは険しい顔つきを崩すことなく、話を続けた。
「つまり、放っておけばジェスタは帝国の手に落ちたのに、あなたは『わざわざ』皇帝に願ってまで、ラダームに先んじてジェスタへとウォルテールを差し向けた。どうしてですか」
「お前は何が言いたいの?」
やや言葉を被せるようにして、エウラリカは顔をしかめた。カナンはエウラリカから目を逸らさないままに低い声で告げる。
「何が目的だったのですか」
「さあ? 何となくよ。いつもの『エウラリカ』の我が儘の一環」
「嘘だ」
カナンは強い声でエウラリカの言葉を遮った。エウラリカは表情を変えることなく無言でカナンを眺めている。
回答はにべもなかった。
「じゃあ、その根拠は?」
「……それは、」
感情的な反駁すら返ってこず、カナンはまるで空を切るような思いに臍を噛んだ。気が昂ぶったカナンとは対照的に、エウラリカの態度はいっそ皮肉なほどに平坦だった。
「お前だって自分で言ったじゃない、私が『わざわざ』関与しようとすまいと、どうせ結果は変わらなかったのよ。お前が今更『わざわざ』気にするような話なんてどこにもないじゃない」
腕を固く組んだまま、エウラリカは平然と言い切る。カナンはほとんど激高する寸前だった。……結果は変わらなかった? そんなはずがない。
カナンは唸るように告げる。
「……お前が何もしなければ、僕たちは殺されていた」
「口の利き方に気をつけなさい。――ええ、そうかもしれないけれど、それが? お前だって命が助かって良かったじゃない」
エウラリカは腕組みを解く様子もなく、片足に体重をかけて首を傾けている。カナンが何にこれほど動揺しているのかにも、一切興味がないらしい。早く自室へ引っ込みたいという意思をありありと示した表情で、エウラリカは深々とため息をつく。
「お前はさっきから、何を言いたいの?」
「……お前は、僕の仇なのか、恩人なのか、どっちなんだ」
「はい?」
心底理解できない、という顔だった。一瞬エウラリカが完全に困惑したのが、手に取るように分かった。しばらく面妖な顔で瞬きを繰り返していたエウラリカは「まぁ……」と首を傾げた。
「ジェスタの王族は生きていた方が良いと判断したのは、確かに事実ね」
それが何か、とでも言いたげな口ぶりに、カナンはついに、堰が切れたように怒鳴っていた。
「――っ誰が! 誰が、助けてくれだなんて頼んだ!」
まるで犬のような首輪は、カナンを一瞬たりとも逃すことなく辱めていた。鈴ごと首元を握りしめて、カナンはエウラリカに向かって叫んだ。
「あれだけのことをしておいて、……実はジェスタを救うためだったとでも言いたいのか!」
「そう言いたいのはお前でしょう。お前の貧相な想像が到達しうる程度の枠に、私を無理矢理嵌めようとしないで」
エウラリカはぴしゃりとカナンの言葉を叩き落とした。
「存在すらしない結果を引っ張り出してきて、仇か恩人かですって? お前には善悪をきっちり分けたがる悪癖があるわね」
エウラリカは不快感もあらわに吐き捨てる。
「お前、こう思っているんでしょう。――この世には善人と悪人だけがいて、人々は正義と悪のどちらかを絶え間なく選択することで行動していて、自分にとっての他者はみんな仇か恩人かに分けられて、一意に定まる真実こそが一番正しくて立派で美しいんだって。正しいことだけを選んでいれば自分は善人で、誰かにとっての恩人になるって。正しい自分が真実だって、そう思っているんでしょう。ええそう、二元論が何より綺麗で分かりやすい真実だものね。お前、そういうのが大好きでしょう」
エウラリカは早口で低く語る。その目はカナンを睨んでいるように見えたが、その実、エウラリカの双眸は何の感慨もなく開いているだけだったのだ。
「端的に言いましょう。私には、お前を助けたつもりは微塵もない。お前のことなど一顧だにしたことはなかった。私が望んだのは紛れもなくジェスタ滅亡のみ。ただ、兄に任せていたら私の思う形にならないと思ったから、自分でウォルテールを動かしただけ」
これで話は終いだ、というように、エウラリカは自室の扉に手をかけた。咄嗟にその肩に手をかけようと腕を伸ばすと、エウラリカは凄まじい眼光でカナンを制した。それまでの睥睨など、およそ比ではない。
威勢を抜かれたカナンは、しおしおと項垂れながら、唇を噛む。
「結局、あなたは……何が目的で、ジェスタを」
「私が何もかもをお前に洗いざらい話して差し上げると思ったら大間違いよ」
そんな悪態をついて、エウラリカは自室の扉を細く開き、その向こうへと体を滑り込ませた。
「……まあ、もう一度強調して教えてやるなら、お前なんて全っ然、一度だって目的だったことはないってことくらいかしら」
馬鹿にするように吐き捨て、エウラリカはぱたんと扉を閉ざす。カナンは伸ばしかけた腕を宙にさまよわせたまま、何も言えずに立ち尽くした。
混乱は頂点に達しようとしていた。
(……僕は、エウラリカを憎むべきなのだろうか)
否、……エウラリカを憎んで良いのだろうか?
しかしエウラリカはその手で肉親を殺し、その罪を別の人間に着せるような、れっきとした殺人者であり、悪人である。そのはずだ。そうでなくてはならない。
立脚点が大きく揺らぐ。カナンは声もなく、エウラリカが姿を消した扉の方を、呆然と見つめていた。




