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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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暗殺のあと1



 いつもの時間に目が覚めなかったのは、昨晩遅くまで起きていたからである。カナンは昼過ぎに起き上がると、結わえていない黒髪を片手でかき混ぜた。

「だる……」

 伸ばしっぱなしだった髪は、いつの間にか肩を越している。あまり長い髪は鬱陶しい。カナンは苛立ち紛れに髪を手櫛で梳った。

(そのうち鋏でも貸してもらって自分で切るか)

 そう算段を立てながら、カナンはぐるりと辺りを見回した。


 エウラリカの気配はない。だだっ広い部屋にはカナン一人だけが残されていた。

『くそ、風邪でもひいたか?』

 母語で毒づいて、カナンは粗雑な手つきで髪を後頭でひとくくりにした。毛束の先がうなじをくすぐる。どうにも意識が朦朧とした。十中八九、昨晩エウラリカに池の中へ突き落とされたからである。しかもあのあとずっと外にいた。部屋に入ってからすぐ着替えたとはいえ、体が冷えるのは避けられなかった。


 エウラリカがいないので容赦なく舌打ちを響かせる。カナンは寝床代わりにしている長椅子から足を下ろし、掛布をはぐって額を押さえた。割れるような、とまでは言わないが、こめかみの辺りが鈍く痛む。こんな頭痛は久しぶりだ。


 馬鹿にするように笑う喉元の鈴を握りしめ、カナンは歯ぎしりをした。

『あの女、今に見てろよ……』

「あら、楽しみにしてるわね」

「うわっ!」

 突如として背後から楽しげな声が応じ、カナンは長椅子から転げ落ちた。白い床の上に尻餅をついたカナンを見下ろして、エウラリカは呆れたように腰に手を当てる。

「私が入ってきたのにも気づかなかったの? 寝ぼけているのかしら」

「……別に。違いますよ」

 カナンは憮然として答えた。……一体誰のせいで体調を崩したと思っているんだ。体調が優れないのは明らかだった。いかんともしがたい、倦怠感を伴う苛立ちに襲われる。


 エウラリカは両手を腰に置いたまま、尊大な態度で首を傾げた。

「何をそんなに苛ついてるの。私がお前に嫌味を言うなんていつものことじゃない」

「そういうことを言っているんじゃないです」

 わざわざこの女に体調不良を伝えるつもりはなかった。カナンはむっすりと黙り込んだまま、長椅子から立ち上がる。


「そうね、外を見てくるのも良いと思うわ」

 エウラリカは腕を組んで頬を吊り上げた。カナンはその言葉に応えず、無言で部屋を出た。背後から「何なのよ」と不満げなエウラリカのぼやきが聞こえた。



(くそ……力が入らない)

 カナンは部屋を出てすぐ、壁に肩をもたせかけて荒い息を吐いた。片手で額を受け止め、肩で息をする。酷い気分だった。目を閉じれば、足下がぐるぐるとうねりながら回っているような心地がする。瞼の裏に、ラダームの喉から噴き出す鮮血の色が蘇った。

(アジェンゼはまだ分かる。あの大臣は私腹を肥やすことばかり考えているような小悪党だ。でも、殺す必要なんて……)


 思考は千々に散り、まるでまとまろうとしない。カナンは熱に浮かされた頭で、廊下の先を見据える。

(ラダームは何をした? 確かに、ラダームは……沢山の人を殺しただろう。でもそれは戦場いくさばでの話で……なら、どうして城では人を殺してはいけないのか? 戦地ならば殺人は正当化されるのか? 分からない……僕には分からない)

 カナンはやっとこさ自分の足で立つと、壁に手を当てたままよろよろと歩き出した。


(……どちらも、共通点は一つじゃないか。二人とも、あの女にとって目障りだった。それだけだろ)

 渡り廊下を通り抜け、居住区から出ると、城内は騒然としていた。ラダームの名があちこちで飛び交う噂話を聞き流しながら、カナンは目を眇めた。どうやら朝になってラダームの死が判明したらしい。誰もが驚愕と悲嘆を露わに、言葉を行き交わしている。

 カナンは人混みをすり抜け、昨晩エウラリカに連れられて歩いた経路をもう一度辿った。目指すはラダームの部屋である。


『お前にはお前の正義があるし、私には私の真実がある。それだけの話』

 昨晩のエウラリカの言葉が蘇る。それは明確な拒絶だった。エウラリカはカナンを受け止める気などさらさらない。

 カナンはざわつく廊下の端を歩きながら、熱い息を口から吐いた。

(そうだ。……僕には、僕の正義がある)



 ラダームの部屋にたどり着くより先に、カナンは廊下を封鎖する兵の姿を見つけた。ラダームの部屋を覗きたがる人々を大声で制している。

「一体どういうことなの? この目で見なければ信じられないわ!」

「ウォルテール将軍が現在調査を行っているところです、立ち入りはできません!」

「本当にラダーム様が殺害されたのか!?」

「現在調査中です!」

 ……なるほど、確かに部屋まで行けるはずがない。カナンはそれ以上近づかず、無言で踵を返した。


(――あの女にこれ以上、人を殺させて堪るものか)



 ***


 エウラリカの部屋に戻る気になれず、カナンはあてどもなく宮殿をうろついた。たどり着いた先は奥の書庫である。扉を押し開けると、ひんやりとした空気と紙の匂いが流れ出た。

 書庫の中には誰もいない。ここは図書室ではなく、様々な記録を保管するための小部屋である。司書の類は存在しなかった。

 二つ並べて置かれた長机の横を通り、書棚と書棚の隙間をすり抜け、カナンは書庫の奥を目指す。数度脚立に足がぶつかり、薄暗い書庫の天井に音を響かせてしまった。常ならば静謐な空気を壊したことに首を竦めるものだが、今はそんなことに頓着する余裕すらなかった。

 突き当たりの長椅子に、倒れ込むように横たわる。気分が悪いのは、どうやら体調のせいだけではなさそうだった。ラダームの、か細く掠れた断末魔が耳から離れない。艶然と微笑んで死体を見下ろすエウラリカの姿が、瞼の裏にこびりついて取れなかった。

(最悪な気分だ)

 それでも瞼を何とか引き下ろすと、カナンはいくつかの呼吸ののちにすぐ、眠りに落ちた。



 目が覚めたのは夕方の一歩手前になろうという頃だった。うっかり朝食も昼食も抜いてしまい、カナンは臍を噛んだ。今からエウラリカの部屋に行っても、昼食はもう手つかずのまま下げられたあとだろう。

(あとで厨房にでも行って、グエンから何か拝借するか)

 顔見知りの料理人見習いを思い浮かべながら、カナンは手持ち無沙汰に近くの棚へ手を伸ばした。体を動かす気になれず、長椅子に腰掛け直すと、棚から適当な冊子を取り出す。

(軍事予算か)

 ぱらりと中を覗いて、カナンは鼻を鳴らした。


 新ドルト帝国は古くから数多の国を飲み込んで成長してきた国である。反乱分子を押さえ込んで維持するだけでも金がかかる。ではその金をどこから工面するかと言えば、新たに国を征服することで調達するのだ。

 ……この帝国は、常に成長を続けずして維持できないのである。

 今や大陸には僅かな小国と、あとは植民地および属国を含む新ドルト帝国領、東の大部分を帝国領にされても未だ抵抗を続けるユレミア王国、それとここ数年で急激な成長をみせる南方連合を残すばかりである。残る小国が帝国に飲まれるのは時間の問題、となれば帝国にはもう、やすやすと奪い取ることのできる土地は残っていない。


 ――だからといって帝国が歩みを止めるだろうか?


 カナンは予算案に目を通しながら、眉を上げる。

(ラダームの名前ばかりだ)

 予算は遠征先ごとに項目が分けられており、そのほとんど全てが、ラダームが将軍として立っていた戦ばかりである。

 ページを親指で送りながら、カナンは国名を目で追った。ラダームは随分とたくさんの国を征服してきたらしい。戦場に出始めてからの期間を考えると、異常と言っても良いような勢いだった。

(これは確かに、帝都では英雄扱いだろうな)


 ラダームの死に嘆き悲しむ人々の姿を思い返しながら、カナンはぱたりと書類を閉じる。

(一体何が、あの男を駆り立てていたのだろう)

 淡々とした数字の裏に、鬼気迫るラダームの姿が透けて見える気がした。この旅程ではほとんど帝都にも帰っていないだろう。何年も遠征に出かけたまま、矢継ぎ早に国を落としてゆく英雄。その心中を知る術は永遠に失われた。


 棚に書類を戻し、カナンは書庫を出る。起き抜けの倦怠感は幾分か和らいでいた。

 廊下に出てみると、空の端は既に橙色に染まっている。思っていたより長いこと眠り込んでしまったようだ。

(また何か文句を言われそうだ)

 カナンは顔をしかめ、急ぎ足でエウラリカの部屋を目指した。



「遅かったわね」

 エウラリカは何ということもないように呟いた。カナンに目を向けることもなく、床の上に盛大に紙を広げている。エウラリカを中心とした半円状に、何枚もの紙が床に並べられている。それはもはや床を埋め尽くさんばかりだった。

 エウラリカは片膝を抱えたまま床の上に座り込み、何やら思案するように顎に手を当てている。その唇が僅かに動き、ぶつぶつと低い声で独り言を漏らしていた。

「次に手を回すべきはどこ……? ……こいつらはアジェンゼもろとも処分できる。あの男が死んだとなれば、第一王子派はきっとあの子に流れる。そのとき私を邪魔に思うのは誰……?」

 エウラリカの傍らには雑に束ねられた紙束や、分厚い本の数々がうずたかく積まれている。時折その塔を後ろ手に破壊しながら、適当な本を手元に引っ張ってきては参照する。

「まずはアジェンゼを確実に処分すること。次に、あの密約に関与していた全員を排除させて……内通者に関しては主がルージェンであると分かった以上、デルギナは必要ない。……分からないのはあの男の目的よ、アジェンゼから横流しされた資金は何に使ったのかしら……」

 エウラリカは立てていた膝を下ろし、ぺたりと床の上に浅くあぐらをかいた。



「……お前、ウォルテールにそれとなくアジェンゼのことを示唆してきなさい。私の予想より上手く流れていないみたいだから」

「示唆? 僕が? どうやって……」

「それくらい自分で考えなさいよ」

 エウラリカはカナンに背を向けたまま、素っ気なく吐き捨てた。カナンは不満を隠すことなく眉間に皺を寄せる。カナンの表情を見なくとも、憮然とした気配は伝わったらしい。エウラリカは盛大なため息をつくと、手にしていた羽ペンを置き、インクの蓋を閉じながら振り返った。


 床にしゃがみ込んだまま、エウラリカは真っ直ぐな視線でカナンを見上げた。

「どのような道筋を、私が描いていたと思う? 関与しているのは誰? 筋書きが滞っているのはどこの時点? お前は何をすれば良いと思う?」

 インクの入った瓶が、ことり、と大理石の床に触れた。カナンは困惑して立ち尽くす。

(どのような? ……何をすれば?)

 そんなことを訊かれても、……何をすればよいのかと問いたいのは、カナンの方である。エウラリカは小馬鹿にするように目元を緩め、見定めるようにカナンの表情を観察した。

「お前がただの『かわいいペット』でありたくないのなら、自分で考えなさい。それほど難しい問題じゃないわ。ちゃんとできるわよね? ――上手く出来たらご褒美をあげるから」

 甘やかすような声音だが、告げられた内容は明らかにカナンを突き放すものである。カナンは唇を引き結び、顔を伏せる。



 エウラリカは苛立たしげに荒いため息をついた。

「早く行ってきなさい。手をこまねいていてはアジェンゼが全て隠滅してしまう」

 その言葉に、カナンははっと顔を上げる。そうだ、確かに自分はアジェンゼの屋敷に短剣を置いてきたが、当然、それをアジェンゼは何とか処分しようとするに違いない。

(それよりも早く、アジェンゼを摘発しなければならない。そうしたら、アジェンゼの横領が公にされて、……ラダーム殺害の罪が着せられる)

 思い至ってしまえば、気分は急降下した。

(――僕のせいで人が死ぬ)

 カナンの表情が暗くなったのに気づいたらしい。エウラリカは不快そうに眉をしかめた。


「くれぐれも自分の立場を忘れないことね」

 短い脅迫に頷いて、カナンは悄然と肩を落としたまま部屋を出た。




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