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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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第一王子-暗殺



 部屋に戻ったエウラリカは、カナンにお仕着せの準備をするように命じた。普段は決まった制服を着ている訳ではないので、恐らくはアジェンゼ邸の使用人が着るお仕着せのことだろう。年末、密会に潜入するためにかすめ取った一揃えである。

(……そういえば、僕が毎日着ている服は、一体どこから……?)

 これまで考えたことはなかったが、思えば初めてここに来たときから、カナンには着替えが用意されていた。

(僕は誰の服を着ているんだ?)

 エウラリカが少年のような格好で外をうろついているのは以前にも見たとおりだ。体の大きさからしても着られないことはないだろうが……しかし、この王女が人と服を共有するとは思えない。それでは一体、この服は……?


 しばし黙り込んで自身の格好を見下ろしていたカナンに、エウラリカの「さっさとしなさい」という声が飛ぶ。カナンは浮かんだ疑問を遠くに押しやって、慌てて動き出した。部屋の隅にあるクローゼットをエウラリカが使う様子はなく、カナンは了承を得ることなく数少ない私物をそこに突っ込んでいた。

 お仕着せを取り出して、カナンは背後を振り返る。エウラリカは長椅子の上に悠々と足を伸ばして頬杖をついていた。


「今、ここで、僕に着替えろと?」

 暗に『どこかに行け』と告げると、エウラリカは鼻を鳴らす。

「まだ結構。お前がこの場で着替えたいというのなら止め立てしないけれど」

 しれっとした態度からするに、ここでおもむろに着替えを始めても、エウラリカが移動することは一切なさそうである。カナンとて人前に肌を晒す趣味はない。その上、よりによってエウラリカになど。


 カナンは小さく舌打ちをして、向かいの長椅子の上にお仕着せを放ると、その横に腰を下ろした。

「今度は一体何を企んでいるんですか」

「とっても楽しいことよ」

 エウラリカは機嫌よさげに頬を緩める。その表情に嫌な予感がする。エウラリカが楽しいときは大抵、カナンには面倒なことが降りかかるのだ。


「いつ頃始めようかしら。夕食を食べて少ししたら動き出すくらいでちょうど良いわね」

 うきうきと、まるで明日遠くへ出かける子どもみたいに声を弾ませて、エウラリカがにっこりと笑った。



 運ばれて来た食事を腹に収めると、エウラリカは自室に引っ込み、ややあって様々なものを抱えて出てきた。エウラリカはそれらを机の上に一旦置く。カナンはそれらを無言で見下ろした。エウラリカが何を企んでいるのか、自分が何をさせられるのかを確認しようと思ったのである。


(一体何をするつもりなんだ、)

 丈の長い上衣や手袋といった衣服をざっと眺める。特に変わったものはなさそうである。しかし、そこに並べて置かれていた代物に目を留めて、カナンは眉を上げた。


 ――巻かれた羊皮紙、そして短剣。


 それは明らかに見覚えのある代物だった。羊皮紙はカナンがアジェンゼの屋敷から盗んできた契約書。短剣はエウラリカが武器庫から盗んできたものである。どちらも人目に触れると大問題になるだろう。


 そんな危ないものを持ち出してきて、エウラリカはいそいそと上衣を取り上げる。腕を通すことなく、頭を覆うように被り、手袋を嵌めた。頭から上衣を被ってしまえば、後ろから見えるのは足下ばかりである。

 エウラリカは鏡の前に立ってその場で数度回ってみせる。その姿はまるで、外出前におめかしを楽しむ少女のようだが、……短剣を携えてお出かけに行く少女が、どこにいるというのか。


 短剣の柄を握り、鞘を僅かに抜く。隙間から覗いた刃の色を確認して、ぱちりと鞘に収める。――随分と慣れた手つきである。


 のそのそと着替えを終えたカナンを確認すると、エウラリカは鞘ごと短剣を放った。カナンは慌てて受け止める。

 続いて、エウラリカは踊るような足取りで机に歩み寄ると、契約書を手に取った。巻かれていた紐をするりと解くと、羊皮紙を開いて書面を眺める。その目がゆるりと細められた。

「せっかくお前が頑張って持ってきてくれたんですもの。――素敵な使い方をしなくちゃって、前に言ったでしょう?」

 その声はとろりと滴るように甘ったるく、カナンは鳥肌が立つのを堪えるように首輪をぎゅっと掴んだ。


「やっとそのときが来たのよ」

 爛々と目を輝かせ、エウラリカの口元は歪な弧を描いた。



 羊皮紙を巻いて留め直し、そうしてエウラリカは扉を引いて廊下へと歩み出した。腕輪に隠された鍵で扉を閉ざし、足音をほとんどさせずに道をゆく。

 時刻は既に夜更け、城内を歩くものはカナンたちを覗いて誰もいない。エウラリカは顔を隠したまま、列柱が影を落とす廊下を進む。カナンは少し顎をもたげて夜の空気を吸った。――皮肉なほどに穏やかで美しい夜だった。


 エウラリカは真っ直ぐに前を見据えたまま、淀みなく足を運ぶ。空高く浮かぶ月になど目もくれず、花も盛りの庭園を一瞥すらせず、静寂を震わせる鳥の歌に耳を傾けることもなく。彼女は美しいものになどまるで興味がないようだった。それでいて本人は嘘みたいに整えられた容姿を備えているのだから、変な話である。

(何を考えているのだろうか)

 先を行く背中を眺めながら、カナンは答えを探すでもなく、ぼんやりと考えた。ここに来てエウラリカの下で生活し始めて、もう一年以上が経とうとしている。それでもカナンには、エウラリカのことがまるで分からない。普段何を考えているのか、ふとしたときに覗かせる憂い顔の裏に何を思い浮かべているのか、何を見てきたのか、何を知っていて何を知らないのか。

(……僕には、この人のことが分からない)

 どれほど観察しても、どれほど考えても、どれほど問うても分からないのだ。


(僕には、この人の底が、見えない)

 手を伸ばせば届くところにいるエウラリカに、ちっとも手が届かない。



 ***


 エウラリカはいくつかの渡り廊下を越えると、カナンが立ち入ったことのない棟に足を踏み入れた。宮殿内で寝泊まりする者の生活空間であるように思えるが、……そのような人間は限られてくる。そこはかとない嫌な予感に、カナンは唇を引き結んだ。無言のうちに空気が重く、硬くなってゆく。エウラリカは長い廊下を見通すように視線を鋭くし、それから上衣を被り直す。


「お前は外から来なさい。そうね、……この突き当たりの部屋が覗ける位置の窓を探しなさい。分かったわね?」

 小声で廊下の先を指し示したエウラリカに、カナンは持たされた短剣を掲げて問うた。

「この短剣は?」

「私が合図するまではお前が持っていなさい。どこかに落とすんじゃないわよ」

「はい」

(落とすわけないだろ)

 そうは思うが、口に出したらどうせまた嫌味を言われるだけである。カナンは大人しく頷き、短剣を抱いたまま庭へと降りた。エウラリカは静かな足取りで廊下へと進み出る。


 足早に庭園をすり抜けると、カナンは棟の奥の脇で立ち止まる。窓を探して首を巡らせると、カーテンの閉められた窓がいくつも並んでいた。その中でも中の様子が窺えそうな窓を見繕うように、カナンは身を屈めながら歩いた。



 そのとき、部屋の中から声が届く。

「――こんばんは、お兄さま」

 エウラリカの声だ、とすぐに気づいた。カナンははっと顔をもたげる。どこかに開いている窓があるのだ。

「……エウラリカ? こんな時間に一体何の用だ」

 訝しげな声が応じる。その声には聞き覚えがあった。カナンは口元を手で押さえて目を剥く。

(ラダーム!?)

 それでは、ここは、ラダームの私室ということか。カナンはますます混乱した。――エウラリカは、例の契約書を持って、何に使うつもりだ?

 今自分が持っているこの短剣を、何に使うつもりだ。


「お兄さまにお話があるの」

「お前と話すようなことはない。帰れ」

 部屋の中で交わされる会話に聞き耳を立てながら、カナンは窓を探す。開いている窓はすぐに見つかった。風に揺れる深紅のカーテンが目についたのである。


(それでは、僕が持たされている、この短剣は……)

 左手に握る短剣がずしりと重みを増した気がした。ぞわりと首筋が冷える。窓に歩み寄り、カナンは身を起こしてそっと中を窺った。部屋の右手には机が置かれ、左手には入り口の扉が見える。縦長の部屋を横から覗きながら、カナンは固唾を飲んで兄妹を見守った。



 ***


 半開きにされた扉越しに、兄妹は対峙していた。一方は柔らかな微笑みを湛えたまま、もう一方は嫌悪を隠さない表情のまま。

「金輪際、俺に関わるな。……お前に関わると、ろくなことがない」

 唸るように言ったラダームに、エウラリカは無邪気な様子でこてんと首を傾げた。

「もう、おとうさまに怒られた? でもそれは仕方ないわ。だってわたし、とっても痛かったんですもの」

 未だ赤みの残る頬にそっと手を当てて、エウラリカは唇を尖らせた。ラダームは窓の外にまで聞こえるような舌打ちをする。

「何だ、そんな恨み言を言いに来たのか? 俺を笑いに来たのか? だったら今すぐ――」

 苛立ちを露わにする兄に対し、妹は冷ややかに言葉を制した。


「いいえ」


 そう呟くと同時に、エウラリカが不意に纏う雰囲気をがらりと変えた。甘ったれた微笑みは鳴りを潜め、代わりに差し向けられるのは、どこまでも真っ直ぐな、射貫くように鋭い眼差しである。笑顔の残滓を頬の隅に引っかけたまま、エウラリカは頭一つ分以上に背丈の違う兄を見上げた。

「――お兄様。私、ひとつ相談したいことがあるのよ」

 エウラリカの変化を感じ取ったらしい。ラダームは僅かにたじろぐような仕草を見せた。


「廊下で話すようなことじゃないの。だって人に知られたら大変なことなんですもの。部屋に入れてくださらない?」

 エウラリカはラダームに身を寄せて囁く。ラダームは長いこと躊躇してから、おずおずと扉の隙間を大きくした。

「ありがとう、お兄様」

 低い声で告げ、エウラリカは滑るような足取りでラダームを追い越し、部屋へと足を踏み入れた。ラダームが何か言うより早く羊皮紙を取り出し、彼に手渡す。後ろ手に扉を閉じたラダームに、エウラリカは「これを見せたかったの」とほのかに笑んだ。



 羊皮紙を開きながら、ラダームが顔をしかめる。

「……これは何だ?」

「アジェンゼの横領の証拠よ」

 エウラリカは事も無げに答えた。ラダームの動きがぴたりと止まる。ゆっくりと顔を上げ、妹を見た。

「どういうことだ?」

「そのままの意味よ、お兄様。大臣のアジェンゼのことはご存知でしょう?」

「そうじゃない。――どうしてお前がそんなことを知っている、」

 ラダームは愕然としたように目を見開き、口を半開きにしたままエウラリカを見据える。エウラリカは厳しい口調に動じた様子もなく、嘲笑のごとき気配を込めて鼻を鳴らした。


「お兄様は国の外ばかり見ているから気づかないのよ」

「何?」

 ラダームはぎゅっと眉根を寄せる。常と態度の違う妹を見定めるようにじっと観察し、そして恐る恐るといった様子で口を開いた。

「それでは……それではお前が、自分で気づいたと言いたいのか?」

「各地の予算と決算をざっと見れば気づくわ。明らかに不自然なんですもの。それを隠すために各部署で裏工作をしているのね」

「お前が? ……本当にお前が発見した、と?」

 ラダームは信じがたいと言わんばかりに目を剥き、エウラリカに掴みかかろうとするように両腕を伸ばした。それをひょいと避けて、エウラリカがすたすたと部屋を横切る。我が物顔で机に腰掛けると、肩にかかっていた髪を片手で払いのけた。


「そんなことは関係ないの。ともかく、私はお兄様にこの事実を伝えたかっただけ。深入りするつもりはないし、この件をどうするかはお兄様に一任するわ」

「あ、ああ……」

 いくつも年下の妹に気圧されたように、兄は呆然と頷く。エウラリカはすっと目を細め、艶然と唇を弧に歪める。外では決して見せないエウラリカのこの表情が、何よりも美しいとカナンは思っていた。しかし……

(どうしてラダームに本性を現した?)

 窓の外からなりゆきを見守りながら、カナンは眉をひそめる。



「それにしても、これは……」

 契約書を眺めながら、ラダームは片手で口元を覆った。その目が素早く左右に動き、書面を追う。

「……とんでもないな。こんなものをどこで手に入れた」

「機会があったらそのうちお話しするわ」

 エウラリカはくいと眉を上げて肩を竦めた。ラダームは難しい顔で押し黙った。「俺にどうしろと」という呟きに、彼女は「お気に召すままにどうぞ」と笑った。片手をひらりとひらめかせ、楽しげにころころと声を上げる。


「真偽のほどが信じられないのなら、本人に確かめてみたらいかが?」

 どこか嘲るような空気を孕んだ声音だった。ラダームは「確かに、……にわかには信じがたい代物だ」とエウラリカを睨めつける。エウラリカはにっこりと微笑んで、無言のうちに睥睨をいなした。


 ラダームは顔の下半分を覆ったまま、長いこと黙って思案していた。随分と沈黙が続いてから、彼は顔を上げ、壁際の紐を引いた。どこかで鋭い鈴の音が鳴る。

「どなたかをお呼びになったの?」

「側近だ」

「あら、それなら私はどこかに隠れた方が良いのかしら」

 エウラリカはまるで、仕掛けた悪戯を影から見守る子どもみたいな顔をしていた。人の机に堂々と尻を乗せて、全く気にする様子もなくのんびりと足を組む。


「……ああ、そうだな」

「この机の下にでも潜り込んでいれば良いの?」

 伸ばした人差し指で天板を叩きながら、エウラリカがくすりと笑う。ラダームは「いや、」と顔をしかめた。大股で部屋を横切り、隣の部屋へ続く扉を開け放つ。どうやら寝室のようだった。

「ここで大人しくしていろ」

「あら、寝室に入れて頂けるの?」

「……今更お前が誰の寝室にいようと、驚く者はいないだろう」

「失礼ね。私が普段何をしていると言いたいのかしら」

 エウラリカはくいと眉を上げて不快感を示すと、そのまま机から降りて寝室に歩いて行く。カナンは慌ててそれを追うように移動した。ぱたん、と寝室の扉が閉じられる音がする。


 カナンが建物の脇でうろうろしていると、窓がひとつ、ゆっくりと押し開けられるのが見えた。カナンはそれを目に留めると、おずおずと窓を遠くから窺う。窓からエウラリカの顔が覗いたのを確認してから、彼は足音をさせずに歩み寄った。

「――ほら、入っておいでなさい」

 エウラリカは窓枠に頬杖をついて囁く。件のやり取りが行われていたのは、すべて建物の一階である。壁に足をかけてよじ登れば入れない高さではない。カナンは数秒躊躇ってから、短剣をエウラリカに手渡し、それから窓枠に手をかけた。


 窓を登り終え、カナンはとん、と音を立てて部屋の中に降り立った。エウラリカは随分と寛いだ様子で短剣を放り上げては受け止めるのを繰り返している。

「ほんとに失礼な人だわ。人をまるで淫婦のように言って」

 ラダームの寝台の上に、エウラリカは靴を履いたまま堂々と乗っかっていた。短剣を持っていない方の手で髪を梳き、不満げに鼻を鳴らす。カナンは表情を変えないままで、静かに問う。

「真実とは異なるのですか?」

「……さあ? どうだと思う?」

 エウラリカはにんまりと笑った。カナンは思わずたじろぐ。少年は未だ十五にも満たない子どもである。いくつか十五を超した少女とて、子どもであることには変わりないだろうが。


 躊躇いもなくアジェンゼの頬に口づけた姿を思い出す。実の父の膝に乗り、抱きついて頬をすり寄せる姿を思い出した。


(――まさか、)

 カナンが息を飲んだ瞬間、エウラリカは呆れたような目で嘆息する。

「……まあ、お前がどんな想像をしていようと、お前の勝手だけれど」

 両手で抱えた右脚の膝に顎を乗せて、エウラリカが鼻を鳴らした。カナンは思わずぐっと息を止めた。どうやらからかわれていたらしい。



「――ラダーム様、お呼びですか?」

 そんな折、扉の向こうから慌てたような声が聞こえ、カナンとエウラリカは揃って口をつぐんだ。カナンはエウラリカに手で指図され、寝台の影にかがみ込む。エウラリカがカナンを隠すように、だだっ広い寝台の中央へ移動した。

「お前に、内密に頼みたいことがある」

「は、何なりと」

 側近が部屋に来たらしい。ラダームとその側近の言葉に聞き耳を立て、カナンは息を殺した。


「良いか、このことは決して誰にも言ってはならない。たとえ何が起きようとも、どのような目に遭ったとしても、固く口を閉じて全てを胸の内に秘めておけ。分かったな」

「し、承知しました」

 側近はラダームのただならぬ様子におののいたようだった。エウラリカは愉快そうに喉の奥で笑っている。


「アジェンゼ大臣をここに呼べ」

「……今すぐに、ですか? それでは、今から使者を立てて先触れを、」

「いや、他の者には決して伝えるな」

 ラダームの言葉に、側近は「承知しました」と神妙に応じる。短い沈黙を挟んで、ラダームが低い声で告げた。

「これから天変地異にも等しいような騒動が起きるかもしれない。そのとき、この夜のことが思い浮かぶことがあるやも知れぬ。だが、お前はこのことを決して語ってはならない」


 ラダームが訥々と語る言葉に耳を傾けながら、エウラリカが小さな声で「そうよねぇ」と囁く。カナンが疑問を浮かべてエウラリカを見上げると、彼女は軽く肩を竦めた。

「どこを切り取っても、大騒ぎ間違いなしのことばかりだもの」

 それらほぼ全ての元凶が、楽しそうに頬を緩める。カナンは思わず半目になった。



 それからラダームと側近はいくつかの会話を交わし、側近は部屋を出て行ったようだった。扉が閉まる気配に、エウラリカはゆっくりと体を起こし、寝台から足を下ろした。どこか危うげな気配を感じて、カナンは頭をもたげる。

「な……何をするつもりですか」

「お前は黙って見ていなさい」


 返事は素っ気なかった。エウラリカは腰を浮かせて立ち上がった。短剣を鞘から抜いた。鞘を寝台の上に放り投げた。開かれた窓からは月明かりが長く伸びていた。鋭い剣先が月光に照り映えてぎらりと輝いた。扉の向こうからはラダームが近づいてきていた。抜き身の剣を握ったまま、エウラリカは長い上衣に袖を通した。手袋の具合を確かめるように手を開閉した。

 剣が光る。扉の向こうから第一王子が近づく。王女は笑っている。


 寝室の扉を押し開けながら、兄が妹の名を呼んだ。妹は応えなかった。カナンは動けなかった。

 エウラリカが踊るように寝室の扉を引き寄せ、兄の側へ進み出る。その背に隠された短剣が目から離れない。カナンは寝台に手をついて立ち上がる。エウラリカは短剣を握った手を今にも振り上げんとするように、大きく体を捻った。カナンは手を伸ばす。届かない。ラダームが目を見開いた。


 呼ぼうとした。止めようとした。けれど声は喉から出てこなかった。理由は分かっている。――カナンは今まで一度も、主人を呼んだことがないのだ。



 それは悪夢のような光景であった。

 弧を描いて振り抜かれた短剣は、毛筋一本ほども違うことなく、ラダームの喉を切り裂いた。

 音もなく鮮血が吹き上がる。


「エウ、」

 ひょう、とラダームの息が抜ける。カナンは寝室の中央で立ち尽くしたまま、一部始終を眺めることしかできなかった。


 エウラリカは手袋を嵌めた手で、ラダームの胸をどんと押した。力の抜けた体は殴打に耐えきれず、後ろ向きに数歩たたらを踏み、そこでどうと仰向けに倒れる。

 部屋の中央で、ラダームは天井を見上げたまま、視線だけをエウラリカに向ける。片腕が持ち上がりかけ、落ちた。

「……どういう、こと、だ、」

「そのままの意味よ、お兄様。目で見える範囲のことも掴めないのに、遠い異国に手を出そうとしていたの? それって何だかとても滑稽ね」

 エウラリカは短剣についた血を振り払うように、腕をしならせて手首を振る。雫が飛んだ。落ち着いた歩調で血溜まりに足を踏み入れ、エウラリカはラダームの頭の側へ歩み寄る。


 ラダームは愕然としたように囁いた。

「どう、して……」

「特に理由はないわ。強いて言えば、私、お兄様のことが大嫌いなの」

「――違う、」

 カナンは震える足で寝室を出、兄妹に歩み寄る。ラダームは意識が既に朦朧としているらしい。カナンの存在など目に入らない様子で、うわごとのように切れ切れの言葉を紡いでいる。


「どうして、父上は、お前だけを……」

「私がお母様に似ているからじゃない? それだけよ。あの人は私たちのお母様を、今でも盲目的に愛しているの。私の中にお母様の面影を見いだしているだけだわ」

 それは、カナンがこれまで見たこともないような、冷たい表情だった。嘲笑も憂いも浮かばない、ただひたすらに仄暗い眼差しをしていた。ラダームの双眸は既に焦点を結ばなくなっていた。


「母上は……初めから、俺のことなど、一度だって愛したことはなかった、……父上はお前が生まれて変わった、……違う、母上が死んだから……変わったのか?」

 ラダームが絶え絶えに紡ぐ言葉を、エウラリカはうるさそうに顔をしかめて聞いている。


「どれだけ武勲を挙げても……相応しい息子になろうとしても……父上は決して俺を、見ない、お前ばかりが……!」

「……黙ってよ、お兄様」

 エウラリカが小さな声で呟いた。しかしラダームは大きく胸を上下させ、細い息を吐く。その目が妹を見た。腕が僅かに持ち上がる。兄の口元には媚びるような笑みが浮かんだ。


「それでも、俺は……。昔のように、お前と……父上と、一緒にまた、」

「黙れって言っているのよ!」

「……ッぐ!」

 業を煮やしたようにエウラリカが動いた。その腕が縦に弧を描き、ラダームの胸を短剣の切っ先が刺し貫く。衝撃にその両目が大きく見開かれる。それはまさしく悪夢だった。しかし、むせかえるような鉄臭さが、これが現実だと如実に告げている。


 ラダームはしばらく苦しげな喘息を繰り返していたが、やがて息の根が絶えたようだった。今度こそラダームは沈黙し、その様子をエウラリカは無言で眺めている。両足を絨毯の血溜まりに突き立て、赤黒い血が幾筋も流れ落ちる短剣を体の脇にぶら下げて持ったまま。



 ふと、エウラリカが唇を開いた。その隙間から漏れる声は静かに語る。


「私はお母様を知らない。私を産んだ半月後、お母様は何者かに殺害された。だから私には分からない。お母様が一体どんな女だったのか、私には知る術がない。……お兄様なら知っていたの?」

 カナンはよろよろとエウラリカに近寄る。だが、カナンには血溜まりに足を踏み入れることができなかった。手を伸ばしても届かない位置で、エウラリカは項垂れるみたいにして兄を見下ろしていた。


「何もかも大嫌い。母のことも、父のことも。お兄様のことも大嫌いよ。――私はこの国のすべてが憎い。自分のことさえもおぞましくて仕方ない」


 だらりと力の抜けた腕の先、握られた短剣の切っ先から滴る血の色が、目に痛い。――エウラリカは兄を殺したのだ。むせかえるような血の匂いが部屋を満たす。自らの頬も血に濡らしながら、少女はほのかに笑った。その笑顔の何と歪なことか。

「大嫌い。大嫌いよ。綺麗な真実なんてこの世に何一つとしてありやしない。あったとしてもそれは私の見えるところにはないわ。私は綺麗なものを真実だとは決して認めない」

 満足そうな色など何もなかった。感慨もなく兄の骸を見下ろし、エウラリカは疲れたようにため息をつく。


「…………さようなら、お兄様」

 その声は実に空虚に響いた。



 長い沈黙ののち、カナンは震える指先を隠すように拳を握り込んだ。

「あなたは、……家族を愛してはいないのですか」

「お前にとっては、家族は愛すべきものなの?」

「……はい」

「そう。良いことを知ったわ。今後の参考にさせてもらおうかしら」

 エウラリカは踵を返し、カナンを振り向いた。毛足の長い絨毯は、倒れたラダームを中心にぐっしょりと血に濡れていた。びしゃりと湿った足音を立てて、エウラリカはカナンに歩み寄る。カナンは思わず逃げるように下がった。エウラリカは愉快そうに目を細めた。


 カナンは壁際まで下がり、くしゃりと顔を歪める。

「第一王子のことは、昔から?」

「嫌いだったわ。考えなしで、何をするにも邪魔をして」

「……家族、なのに?」

 エウラリカは心底不愉快そうに顔をしかめた。何も言っていないのに、まるで怒鳴られたような心地だった。ぎゅっと体を竦めて口をつぐむと、エウラリカは鼻を鳴らす。


「――皇帝のことも? いつもあれだけお父様って……」

「父親なんかじゃないわよ」

 エウラリカは鋭く舌打ちをし、短く吐き捨てた。それ以上カナンは反駁しなかった。



 エウラリカは片方の手袋を外し、髪をかき上げる。血濡れた短剣で上衣の裾を裂いて切り取り、そのまま刃先を布でくるんだ。カナンは顔を巡らせて室内を見渡す。

(地図……?)

 机の背後に貼られた大きな地図に目をやって、カナンは目を瞬いた。地図には大陸に位置する諸国が描かれ、いくつものピンが地図の上に打たれている。ざっと見た限りでも随分と古い地図のようだった。今は帝国の領土となった小国の名がいくつも残されているのだ。

(打たれている印は何を意味している?)

 地図の上で点を並べるピンは、どれも国名の上に刺されている。何を表しているのだ、とカナンは思わず目を凝らした。そんな場合ではないのは百も承知だったが、ラダームの死体を凝視するのも憚られる。


(帝都の西から北を通って東に分布している)

 見ているうちに、それは一つの流れのように見えてきていた。帝都を出て北東へ伸びる一つの線である。

(あともう少しでジェスタに到達する。――これは一体、何だ?)

 カナンは目を見開いて地図を見上げていた。ちらと脳裏を何かの予感がよぎろうとした矢先、背後から鋭い咳払いが響く。



 振り返ると、エウラリカは脱いだ靴を片手にぶら下げ、窓枠に腰掛けていた。反対の手では布にくるまれた短剣を示すように軽く振っている。エウラリカは至極当然のような態度で短剣をカナンに差し出した。

「お前、この短剣をアジェンゼの屋敷に置いてきなさい」

「え……?」

「あの男の屋敷の構造は前に覚えさせたでしょう? アジェンゼの部屋の場所も分かるわよね」

 カナンは咄嗟にアジェンゼ邸の内部に関する記憶を浚う。……アジェンゼの部屋の位置はまだ覚えている。


 ぎこちなく頷いたカナンに、エウラリカは満足げに頷いた。

「しかし、アジェンゼの部屋に入ろうにも、家主が……」

 カナンは眉をひそめて反駁した。こんな夜更けともなれば、アジェンゼも自室にいるはずである。そこにどうやって短剣を置いてこいというのか。エウラリカは得意げな笑みで、つんと顎を反らす。


「アジェンゼは今頃、泡を食ってここを目指しているはずよ。王族の呼び出しに拒否権は基本ないし、アジェンゼは後ろ暗いところがある。そのうえこの男に一言苦言を呈するという過程を経るだけで、私から皇帝への働きかけが確約されているとなれば、来ないはずがないわ」

「第一王子は側近に、アジェンゼを呼びに行かせた、と?」

「私の読みが外れてなければね」

 エウラリカは確信に満ちた表情だった。カナンはおずおずとエウラリカに歩み寄る。その手が緩く捧げ持っていた短剣を、恐る恐る受け取った。ずしりと重い鉄が両手に乗る。――人をひとり、殺した、剣。エウラリカが振るった剣だ。





 白い素足を晒して、エウラリカは窓枠に肩を寄せていた。僅かに伏せられた視線が、喉と胸を切り裂かれた兄の上を素通りする。表情も言葉もなく、脱いだ靴を指先に引っかけ、エウラリカは疲れ切ったように脱力していた。血濡れた靴の爪先からは不規則に赤黒い雫が落ちていた。確かに、これを履いたまま帰っては、部屋までくっきりと赤い足跡を残してしまうだろう。


「……裸足で帰られるおつもりで?」

「ええ。換えの靴がないもの」

 エウラリカは事も無げに首肯した。すらりと伸びた足が、緩く波打つ裾の隙間で揺れる。


 カナンは無感情な声で問うた。

「…………裸足は、痛いでしょう。冷たいでしょう」

「そうね。でも今はそれがいいの」


 開いた窓から、緩やかな夜風が寄せては引いている。エウラリカは伏せていた視線をふっと持ち上げて、艶然と目を細めた。

「――生きてるって感じがするでしょう?」

 エウラリカは笑みを浮かべた。






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